遅牛早牛

時事雑考 「2021年1月の妄想-破壊あるいは破滅が待つ惑星地球号-」

◇ 「解散総選挙はどうなりますか。やはり10月ですか」と聞かれ「コロナ次第」と答えていたのが昨年早春から晩夏のころで、今年も状況は変わっていない、コロナ次第である。

 昨年1年間の感染者数と死者数の推移グラフを見れば今年の感染状況がどうなるのかおおよそ見当がつくであろう。それは最初に丘があって、次に小山があって、さらに大山があってという実に簡単な話である。しかし、グラフは簡単でも感染被害は深刻である。

昨年4月頃つまり第一波が収束しはじめたとき、この先一年間の感染予測をどのように考えていたのかと振りかえれば、第二波こそは警戒の対象であったものの、第三波以降については考える気すらないという状況だった。すなわち想定外ではなく思考外であったのである。先のことは何も考えない、いつものことだが大事な局面できまって長期展望を欠くのである。1930年代もそうであったが、国の方向を決める重大な議論において緻密な討議を嫌う癖があって、結局国策を過つことが多かった。今回もその例に漏れず、また長期といったって一年先二年先のことではないか、とにかく物事を構造的に捉えることを蛇蝎のごとく嫌っているように見受けられるが、本当に不思議でならない。だから先ほどとは違う意味で深刻なのである。

◇ たしかに先の感染推移を読みきる作業は不確実性との戦いである。しかしすべてが不確実なわけではない。人と人との接触が増えれば感染が拡大することは確実であり、また2019年の日常が戻れば感染は爆発するであろうことも確実なことである。だから、政府の感染症に対する姿勢は長期戦を見越しながら局面においては小心な対応をとるものでなければならなかったのだが、現実は大胆な短期戦を挑んでしまった。大胆とは粗雑の別表現でもある。

 また冬期における感染拡大については一部の専門家からの指摘があったものの、永田町においては顧慮外で今風にいえばスルーである。感染症は人の行動によって拡散するという意味で社会現象の側面が強く、世界中の感染状況からもそのように確認されているのだから、この点をしっかり押さえた対策が求められていたのだが、そういった基本原則がなおざりにされ、地域活性化や需要喚起といった経済支援策に傾きすぎた政府の姿勢が人々の気持ちを浮かせてしまった。夏から秋にかけて緩んでしまった人々の気持ちを再び引き締めるために、年末年始という業界にとっての黄金期を犠牲にせざるをえないという、経済支援においても大きな失敗を犯してしまったといえる。

 いわゆる「GO TO」施策が感染を直接的に拡大したとはいえないにしても、人々の行動を政府が煽って感染拡大を助長したことは事実でありその責任は明白である。さらに、「勝負の3週間(11/25~12/15)」も不徹底であった上に「GO TO」との併走はごちゃごちゃ感を残し何を勝負するのか不明確であった。また「勝負の3週間」はうまくいかなかったのだから直ちに緊急事態に入るべきなのにさらに曖昧な2週間を過ごしたことも失敗であったといわざるをえない。

 2020年の推移からも、ウイルスとの駆け引きは全身の神経を集中させなければならないのだが、そもそもの政府(中央と地方)が全身の神経を集中できていないので国を挙げての対応にはほど遠くとても俊敏な体勢とはいえない。また、方針と対策が体系化されていないことから現場の視界が悪く、政府として総合力を結集できていない。といった芳しくない状況に対し、日本なんだからもっとスマートにできるはずではないのかと国民は怪訝(けげん)に思っている。できるはずなのにできていないから支持率が下がるのである。

 

◇ まあわが国に限ったことではないが、対策が状況に追いついていない、まさに感染の山を追いかけるだけの影踏みのようである。ちなみに、グラフを眺めると2、3週間の遅延があると考えられるので、対策を同期化させるためには2、3週間先回りすべきなのだが、ここらあたりは想像力が必要で、現象を確認してから行動をとるという方式では2、3週間の遅延が感染拡大の原因になる確率が高いので、早とちりであっても予断しながらの先回りが必要である。先回り対応には責任をともなうのでここは政治家が主導しなければならない。

 さらに、先回りにはワクチン接種が大いに有効と思われるが、再感染(実効再生産数)を抑制する効果を期待するためには接種率が2、3割をこえる必要があると思われるので、解散などの政治日程が俎上に載るのは早くて7月半ばではないか。さらにワクチン接種による集団免疫の獲得には6割以上の接種率が必要といわれている。であれば7200万人以上1億4400万回分以上の接種が必要で10月までに完了できれば「グッジョブ」ということであろう。

◇ ということで、7月初旬まではわざわざ感染機会を提供する総選挙を仕掛ける馬鹿な政治家はいないだろう。それにしても感染症対策はもともと難問であり、まして100年に一度のパンデミックではないか、「たいしたこともできなかったくせに解散総選挙だけは一人前にやるのか」と有権者の反発は必至であるから、ここは憲法規定にしたがい任期満了選挙が妥当だと思う。

 ところで、長期戦を小心で戦うべき世紀のパンデミックにおいて「解散総選挙」を匂わせてきた政局狂いの連中には怒りを禁じえないが、そんなことよりも解散権を凍結して一心不乱に感染症に立ち向かう姿勢を示せなかったことを悲しむ。ことに臨めば一意専心しかないのである。

◇ 日ごろの感染予防策の徹底をベースに、検査、治療、ワクチンが対策の三点セットになっているが、政治責任が最も大きいのがワクチンであろう。有効性の高いワクチンが数種開発され順次投下されるようになったのは朗報である。であるだけに接種でのしくじりは許されない。「令和の壊し屋が令和の運び屋に」とは面白い表現だが、意味深である。いずれにせよ綱渡りとなる。

 もう一つの綱渡りは医療体勢であろう。世界一の人口あたりベッド数を誇るわが国で誇り高い医師会の幹部が「医療崩壊」を口にし、一部のテレビメディアがそれに呼応しているが、何のことはない民間病院が受け入れればと普通は考えるだろうが、それがそうはならないという。まるで怪奇現象ではないかしら。昔から政治は医師会には弱かったが、少し構造改革をやったらどうか。すぐ自衛隊に派遣要請するのもおかしな話で、この先新種のウイルスの発生もありうるのだから、医療系は医療系として完結すべきではないか、通常国会ではそういう議論を期待したい。

 

◇ オリンピック・パラリンピック東京大会については決断の環境作りの一言である。いずれにせよ非難は朝日よりも早く評価は夕日よりも遅れるもので、評判は気にせず、苦しいことであっても決断の任にあることを光栄と思えば簡単なことではないか。どちらの道を選んでも何のことはないすべては誰かさんの後始末だから喜んで泥をかぶればいいのである。そういった愚直な役回りを期待したい。

 今日の生活に苦しみ、明日の不安に苛(さいな)まれている人が増えている状況において、「コロナに打ち勝った証」としてやれるならやってごらん、今は追悼と祈願の時ではないか、政治家はイベント係ではないのだ。今は迷う時ではない。

◇ ところで総理を降ろすのは並大抵のことではない。電気が流れている電線(活線)を切るようなもので大義と胆力がいる。迎合と幻術では感電するかも知れない、そもそも意義も意味もない。自分たちで選んでおいて今さら何が気に入らないのか、歴史に残る難問が山積している今こそ全力で支えて与党の真価を発揮すべきである。

◇ パンデミックだけではない、さまざまな災厄の出現に人々は少しずつ不安を覚えはじめている。そして持続可能性という呪詛(じゅそ)に敏感に反応しはじめた。 

 考えてみれば資本主義そのものが揺れはじめているのだ。もう無理ではなかろうかとそのぐらい事態は深刻になっている。資本主義体制の矛盾、忘れていた言葉が判然とよみがえり微妙な空気が漂う資本論の大会堂に戻りつつあるのか。

◇ 米国で起きた1月6日の連邦議会議事堂への突入事件から何を学ぶべきか、いや学ぶ前にこれは何なのか、と悩みいる。選挙結果を確定する両院合同会議に圧力をかけて結果を覆そうとする発想にまず驚いたが、それを実行したことにさらに驚いた。浅薄なのか深厚なのかまるで見当がつかない。

 ただ、問題の本質を捉えたいのなら強欲資本主義をスルーしてどうするのか。不満のはけ口をどこに求めるかはそれぞれの勝手であるが、その不満の原因はあらかた解明されているではないか。そしてそれは今の米国の政治家では解決できない、つまり革命家であり救世主であるトランプにしかできないという主張なんだろうが、そうはいってもトランプにしたってできないのだ。そのことは彼ら彼女らにもうすうす分かっていると思うが、おそらくそう信じるところに救いと希望を見いだしているのだろう。

 ただ冷たいいい方だが、暴走する資本主義を止めることは大統領にも議会にもできない。なぜなら大統領も議会もおそらく今の民主政治も資本主義体制の一部であって、暴走は内部からは止められないという構造になっている。だから、別の体制が暴走を止める役割を担っていたのだが、かんじん要の社会主義が堕落している。堕落したままで暴走を止めようとしゃしゃり出ても跳ね飛ばされるか轢断(れきだん)されるだけで、ソ連はとどのつまりプーチン皇帝のロシアに、中華人民共和国は国家資本主義正しくは党資本主義に堕し、また他のいずれの国もグローバル資本主義体制を利用しながら国民を養っているだけではないか。主義も主張も理想も理念もみんなごった煮にして食っちまって今や強欲資本主義の正式会員さまにおさまっている。ということでもはや地上にストッパーはいない。

◇ そもそも元凶は資本主義という仕組みにあるのだから資本主義をどこまで組み替えられるのかが一番の課題であるはずだしほとんどの人がそのことに気がついている。しかしためらっているのはなぜか。それは組み替えでは済まされない闇の深さを本能的に感じているからか、あるいはしがみつき代(しろ)がまだ資本主義には残っていると思っているのか。

 まあ、どちらでもいいどうせ残された時間はあまりないのだから。今や惑星地球号は限界点にある。資本主義の暴走による資源の貪食、環境破壊それにさまざまな人と人との格差が人間界に修羅場を呼び込んでいる。半世紀前にはこの修羅場を疎外と呼んでいた記憶がよみがえってくる。

 大洪水で命を落とす人は多いが、人は濁流に呑み込まれて死ぬのではなく、洪水を起こした気候変動を起こした二酸化ガスを排出する発電所や自動車や工場によって、否それ以上に素知らぬ顔して排出し続けるシステムによって社会によって経済によって政治によって、比喩的に殺されたのである。

 美しく喧伝される豊かな生活を実現しそれを支えるために殺されていったのである。この矛盾に満ちた因果連鎖を強迫観念とか妄想だというのは簡単ではあるが、それならなぜ2050年ゼロエミッションなどと無理筋を表看板にしなければならないのか。そうしなければならない事態が、いってみればクロであることの証拠ではないのか。

◇ 2050年ゼロエミッションがどれほど欺瞞に満ちたものかを誰かが告発しなければ事態は相変わらずのごまかしの連続に終わり少しも改善されないであろう。もし本気だというのなら、まずは経済成長分だけでも排出増なしで達成すべきではないか。そのうえで30分の一だけ排出減を実現する。まだ30年もあるからなんとかなるだろうと思っているのだとしたら、それはトランプ前大統領よりも性(たち)が悪いのであって、1989年から問題の本質、それは資本主義体制に内在する宿痾そのものから目をそらし続けた轍を再び踏むことになり、結果どうにも手の打ちようのない地球を次世代に渡すことになってしまうのである。これは未必の故意、犯罪である。

 2050年ゼロエミッションは人類の欲望構造の解体をともなわなければ達成できない。欲望を無邪気にかき立てるのが資本主義の本質である。その本質を抑制できるのか。これはテクノロジーで解決できる問題ではないのである。正直いって70億を超える数を思えば途方に暮れる。一体どうすればいいのか。 

 化石燃料と鉱物資源の大量消費によって支えられている私たち人類の豊かさを捨てる覚悟もないのにゼロエミッションなどといってはならないのだ。覚悟を持つと同時に実行しなければならない。それは石油文明の破壊行進曲なのである。といいつつ、平均気温が2度も3度も上がれば、人類文明の破滅行進曲が鳴りはじめる。という大げさともいえる文脈を欠いたゼロエミッションは偽物であり欺瞞であり単なるいい繕いである。ほとんど現在の資本主義体制を破壊するほどの方策でなければ破壊行進曲であれ破滅行進曲であれ、いずれが鳴り響くにしてもそれを止めることはできないのである。

◇ 今煙を上げながら駆動している資本主義のメインエンジンは欲望であり、欲望は強欲の僕である。強欲よりさらにえげつなくも強大な烈欲がもっともっとと号令をかけながら豊かさという妄想をかき立て地球を食い散らかしていく。止まらないではないか。正常な細胞はいずれ成長を止(や)める。いつまでも成長し続ける細胞は癌である。

 これらを解決するには歴史上よく発生した集団行動しかほかに手はないのだろうか。1月6日に発生した突入事件は理由の正当性を問うことなく集団行動が恣意的に発生しうることを示唆している。理由だとか原因などは要らない、行動こそが必要なのである。事前にも事後にもなぜそうなったか分からないとしかいいようのない、はじめに行動ありき、憑かれたような集団情動が起こり、これが次に向かう先、つまり標的は今は霧に包まれているが、それが晴れたときには驚愕の事件として現れるであろう。

 目は前についているのに明日何が起こるのかは誰にもわからない。無邪気に過ごせたあの日はもう帰っては来ないのだろうか。

◇ 無邪気に過ごせたのは生活まわりのリスクが低かったからか、少なくとも安心な日々であったのだろう。人々は安心して暮らせるようにと、安心を求め、政治家は「安心して暮らせる生活を」と安直に答えた。筆者もそうであった。

 ああ、この安心が難物なのだ。まず、安心は一人ひとりのもので他人には触(さわ)れないものである。安心は主観であるから80%の確率で保証しますというわけにはいかない。安心できるかできないか、答えはデジタルなのである。

 ところで、人々の「安心できなさ」は確率で表すことができる。たとえば新型コロナウイルスワクチンの副反応の出現は10万人あたり1人程度でインフルエンザワクチンのそれは100万人あたり1人程度と。だから新型コロナウイルスワクチンの安全性は9万9999人相当であり、インフルエンザワクチンの安全性は99万9999人相当であるといえるのだが、それで安心できるのだろうか。安心できる人もいれば心配だという人もいるだろう。やはりゼロリスクでなければ安心できないと。

◇ しかしゼロリスクは求めても世にあるものではない。また生活はさまざまなリスクに囲まれているがどのリスクもゼロではない。そもそもリスクはその発生確率とこうむる被害との積算で表すもので、被害がゼロであればリスクはゼロである。他方、起こりえない事象であれば被害の程度にかかわらずリスクはこれもゼロである。

 また、人は必ず死ぬことから死の確率は1といえるが、今年中に死ぬ確率は1よりも小さいが年齢やさまざまな条件によって違う。この確率を知ることは人智を超えているので現実は統計データから類推している。

 さてここでの問題は、このリスクを評価する時に判断の偏り(バイアス)がでてくることで、大概の場合自分は大丈夫と思ったり、世の中の運の悪さを全部引き受ける悲観に陥ったりで、入り口は科学的でも出口は感情的になることが多いのである。

◇ このバイアスが過度に働くことで政策策定がゆがめられることも多々発生している。その一つがワクチンの副反応を過度に心配して予防接種を受けないケースである。予防接種を受けなければ副反応のリスクはゼロにはなるが罹患のリスクは相応に高くなる。また、非接種者が増えれば全体の接種率が低下し集団免疫の形成が阻害され、乳幼児はじめ接種禁忌者を危険にさらすことになる。このように感染症の防疫は個人だけの問題ではなく社会全体の課題でありとくに防疫上の弱者をいかに守るかという視点が重要である。

 画一的ないい方は避けるとして、個人のリスク評価にもとづく行動と専門機関の指針が違背する場合、接種による副反応率がわずかであるとしてもゼロでない以上そのリスクは個人が背負うわけで、たとえ補償があるとしても受容できない人に強制するのは難しい。ワクチン不接種による罹患リスクは本人が背負うもので、ある意味自己責任なのかも知れないが、感染症撲滅の流れでいえば集団免疫に穴を開けることになるわけで、まるまる自己責任というものではないだろう。自己責任と利己主義の狭間は微妙で政策立案にも微妙な影響を与えている。

◇ もう一つ気になっていることが、この冬の豪雪、寒波で停電寸前に陥った電力事情である。また、電力自由化によって設立された新電力各社が電力調達難に陥り市場連動型の料金が急騰しているとも伝えられている。原因は複合的でまた運の悪さもあるようだが、いくつもの運の悪さが重なるリスクについても十分な備えが必要である。一日止めて済むこともあるだろうが、電力の場合はそうはいかない。生命、健康、社会、経済に甚大な被害が生じる。被害の大きさを考えればどうしても発生確率を極力下げなければならないが、その方策は十分な余裕率をもつこと、また電源構成の多様化を図ることである。これはさんざん議論されてきたが、とくに原発が内在するリスクを過大に評価する余り他のリスクを野放しにしているように思えてならない。

◇ いずれにせよ、政策・制度を語る上でリスクマネジメントは極めて重要である。とくに人口減少社会すなわち衰退過程にあるわが国がこれから遭遇するであろう数々の難題を適切に処理していくうえでリスク評価を的確に行うことが必須であって、根拠のない自信からリスクを過小に捉えることも、情緒を優先するあまりリスクを過大に捉えることもいずれも避けなければならない。

 また、ゼロリスクは有限資源の分配を担う政治においてはきわめて困難な課題であって求めるべくもないことを国民自身が理解する必要がある、と強くいいたい。迎合政治の行き先がみんなの気持ちを大切にしながら滅亡に向かう惨劇であるのなら、嫌われても石持て追われても語り続けるのが政治家ではないのか、とくに政権をめざす野党には本気で考えて欲しい。

 2050年ゼロエミッションを迎合政治で達成することは無理である。現在の民主政治が内包している迎合性を直視し克服することなくして前進は不可能である。しかし、民主政治から迎合性を引き抜けば民主政治は腑抜けになるのではないかと懊悩する。それにしても化石燃料を放逐した世界とはどんな世界なのか。イマジンである。

◇ 吐く息を吸いつつ歩む凍結路

加藤敏幸