遅牛早牛
時事雑考 「2021年2月末、ワクチン接種からマイナスサムゲームへ」
隠居のニューノーマル
◇ 2月もそろそろ終わり、ここで「早いもので」をはさむと一気に陳腐で分別臭くなるから少し我慢して「今年の1月、2月はなぜか長く感じた」と。さらに「これといった用事も無かったのに、どうしたわけか」と自問風に続け、たとえばコロナ騒ぎの緊張感が神経を鋭敏にしそれが時間を長く感じさせたのではといった理屈っぽいものではなく、もっと洒落た中オチをと思っていたのに、オチが見つからない。
原因は、本当にヒマだったから直(ちょく)に時間を持てあましていた、それだけのこと。たぶん来月もそうだろうし、おそらくその先もあまり変わらないだろう、つまりヒマの常態化。これがニューノーマルなのか。
◇ そんな風に理屈をこねてもだめ、隠居はヒマだから隠居なんで、ニューノーマルもヘチマもない、だから隠居があたかも世の役にたっているがごとくそわそわと出かけていたのがそもそもの間違い。外に居場所はおろか出番なんかない。
だから、不要不急といわれてみるとなるほど毎日が不要不急なんだね。こうなると、端(はな)から無くったっていいような気がする、それ人生そのものが。少しいいすぎだけど、世の中逆さ景色がそんな風になっているのではないか。
3月から始まるワクチン接種
◇ 4月には高齢者へのワクチン接種が始まると聞いて、それはそれは本当にご親切なことでと、またこそばいような心持ちだったが、本格的な接種は5月にずれ込みそうである。それにしても河野太郎大臣ははっきりものをいうね。はぐらかすよりもはるかにいいとみんな思っている。口の利き方が良いと思われているうちはよろしいのだが、ワクチンの入荷から配布、接種と難問が控えているだけに厳しい状況下でいずれ結果が出るであろうからそのときが勝負でしょうね、本人ではなく有権者がどこまで支えるのか、つまり次代の政治家を育てられるのか、ここは国民にとっても一種の賭けであろう。
難しいのはひと口に高齢者といっても3600万人を超えているのだから、どうなることやら。オリンピック・パラリンピック東京大会までに終わるのか、それよりもワクチンが予定どおり入荷するのか心配である。EUが域内生産分には目を光らせているらしい。域内優先というのはEUの人気取りだと思うが、ワクチン争奪戦が激しくなればわが国も影響を受けると思われる。国内開発に期待を寄せるしかない。
◇ 2020年5月1日付けの本欄で「新型コロナウイルスがもたらす三層構造の災厄」と題して「とくに、治療薬とワクチンの生産と分配は重要事項であり、外交の修羅場である。激突する国益をめぐる駆け引きは壮絶で、決して美しいものではなかろう。」と予想したが、今のところ予想よりも穏やかなのでほっとしている。しかし、これからが本番であろう。
現在、何種類かのワクチンが供用されているが、市場での希少性はすこぶる高い。各国政府が厳重に管理していても漏れや抜き取りがあるだろう。すでに不正接種やワクチンツアーなるものもあるとかいろいろ聞こえてくるが、どうであれ手段を選ばないと思われる富裕層には逆に優先して接種すればいいのではないか、もちろん100万ドル以上のプレミアム料金で。そして集めた資金でCOVACの活動を支えればいいのだが、正直いって感染症に罹っても罹らなくても死因は飢餓となる悲惨な現実もあって、気が滅入るばかりである。国際社会の共助が内実を得るため今少し国際専門機関へ力を与えることが必要ではあるが、今回どこまで前進できるのだろうか。ここは悲観よりも楽観を取りたい。
山かげで沸く株式市場、高嶺のあだ花
◇ さて、株式市場が活況に沸いているが、もし感染症がなかったならどうであったのか、やや不思議な感じにとらわれる。なければ順調な景気回復で株高になったはずという声もあるだろう。しかし、ワクチン接種が順調にすすみ予想以上に収束が早まれば金融緩和が元に戻るつまり引き締められるから「株価は下落する」との現時点でのリスクシナリオが真顔で語られているのを耳にした瞬間、ふつふつと怒りに近い感情がこみ上げてくる。ぬぬっ、こいつら感染症の収束に反旗を翻すのか。なにっ、パンデミックが続いた方がジャブジャブの金融緩和が持続し、株式投資にとても有利だと。そういえば、この災厄で富裕層が増やした資産が何十兆円に上るということだが、これこそ反倫理性資産形成ではないのか。経済合理性といえども不条理は不条理で、小さな声ではあるが「気分が悪い」といいたい。
垂れ流しの金融緩和、財政赤字、いずれ清算
◇ これは学習なのか、災厄は金儲けの手段、とくにパンデミックはおいしいと。そういえば戦争で莫大な利潤をあげる商人をかつて死の商人と称したが今はどうであろうか。それというのも倫理、道徳の道は塞がれたも同然、今や窒息寸前にある。しかし、資本主義の本質は飽くなき利益追求であるから機会を捉えて利殖に走ることを咎めても仕方がなかろう。問題は政府や中央銀行の施策から産みだされた機会利益をどう回収するかであるが、なぜか政府も議会もこのことについてはずいぶんと腰が引けている。施策のための税金が富めるものをさらに富ましているのだから何らかの方法で回収しなければ人々の不公平感が助長され、不穏な事態が生じるであろう。パンデミックが産みだす驚愕の不公平に手をつけない政府あるいは政治家は後日糾弾され追放されるであろう。少しねじれた正義感もどきの発露で恥じ入るが、それでも国が借金した金を広く配って急場をしのいでいることはどこかで清算しなければならない。
◇ 現在ほとんどの国が金融緩和に走っているが、その結果が何をもたらすのか。物価上昇が起こればそれは消費者が穴を埋める。また、不都合な事象の後始末は公的資金で為すしか手はない。リーマン・ショックの時も米国では不埒な金融機関を税金で救ったではないか。破綻の影響があまりにも大きすぎて潰せないから公的資金で救済するという現実処理はそれなりの理屈であるが、しかしそれで許されるものなのか。否、決して許してはいけない。そうでないとこういったモラルハザードが生む不信は人々の心に深く沈積して後世の災いの元凶になりかねないのだ。だからこれを甘く捉えてはいけない。
不幸を肥やしに富み栄えるのは背徳資本主義
◇ 人々の不幸を肥やしに富み栄える階層が現に存在することが自由とか平等とか博愛といった大切な価値を貶めているのではないか。とくに「人々の不幸を肥やしに富み栄える」ことの背徳性とそれを許容する規範喪失が社会の根太を腐らせていることをもっと深刻に捉えるべきである。くわえて経済上の格差拡大といった表現では追いつかない、現在進行中のとてつもなく偏った富の分配状況こそが国の分断を生む資本主義の悪性疾患のあらわれで早急な治療が必要である。
豊かさにつながらない経済成長
◇ ところで不思議ついでにもう一言つけ加えるならば、コロナ禍の2020年を除き多くの国が経済成長を実現しているのに、人々の生活がすべからく豊かにならないのはなぜなのか、ということである。おそらく驚くほどの豊かさの増大を得ているごく少数の人たちと、成長の恩恵にあずからない多数の人々とに分かれていて、その格差状況が年々ひどくなっているのであろう。
この現象については2015年、フランスからトマ・ピケティが『21世紀の資本』をひっさげて来日し、資産の成長率は常に賃金の伸びを上回ると説き、累進課税による再分配の必要性に触れた。また、1910年から1950年代は二つの世界大戦によるインフレや資本の縮小あるいは格差是正政策の実施などがあり歴史的に格差が小さい例外的時代だったと指摘している。
トマ・ピケティの業績には賛意を示しつつも、財産課税とか累進課税の強化などについては現実性に欠けるとの指摘も多く、その議論は続かなかったが、富めるものはさらに富み、貧しいものはさらに貧しくなる現象をデータで示したことは人々の意識に確かな思いを植え付けたように思える。やっぱりそうなのか、という確信に近い思いである。だから、政府が技術革新をともなう経済成長策を鳴り物入りで打ち上げても、またかといって冷めて見るか、あるいは多少その実現性を肯定的に受けとめるとしてもその配当に預かるのは自分ではないと多くの人は確信しているのである。つまりどんなに経済成長をしたところで人々の生活は良くはならない、のである。
◇ にもかかわらず性懲りもなく毎年の予算案にはこれでもかこれでもかと成長戦略が夜店のセルロイド面のように並べられ色合いだけは賑やかに祭りを飾り立てている。とくにこの二十年間は地球規模でITやICTあるいはビッグデータと大騒ぎをしながら税金からも大金が注ぎ込まれ、確かに業界としては爆発的な発展を遂げたのではあるが、何のことはない100億円の長者を1000億円の長者に、1000億円の長者をさらに兆円長者に成り上げただけではないか。それに比べ「われわれ」の生活は何がどのように良くなったというのか。それというのもデジタル化が雇用の根を腐らせて私たちの労働を駆逐しているからである。遺伝子組み換えのようにジョブが組み換えられている。新しいジョブが古いジョブを追い出し、職能は日々陳腐化し賃金は削り取られていく。
◇ そういえばわが国では雇用所得の伸びが止まっている。とくに非正規といわれる雇用条件の厳しい労働者においては絶望的と表現してもいいほどの悲惨な状況にある。確かに絶望とは過ぎた表現である。しかしコロナ禍の中であながち過ぎた表現とはいえない現実が露呈しはじめているではないか。「厳しくないわけがないだろう」と声を荒げる人が徐々に増えているのだ。そんな中、国会では管首相が生活保護に言及し、最後のセイフティネットであると答えた。
1月27日の参議院予算委員会でのやりとりである。答弁としてはその通りであるが、いくらかモヤモヤ感が残ったのは、「生活保護を受けなくともいいようにするのが総理の仕事」との野党委員の追撃口上のズレではなく、この場面で生活保護を持ち出すのなら当然生活保護基準以下にありながら申請を選ばない人が圧倒的に多いという現実をふまえ、「最終的には生活保護」で言葉を終えるのではなく、せめて「扶養照会」の改善ぐらいには触れないと生きたやりとりにはならないでしょう、ということである。
答弁におけるこういった言葉足らずは単なる不足ではなく為政者の真意を曲解させるネガティブ効果を持つもので、あえてあと一歩踏み込んだ答弁こそがピタリ過不足のない垢抜けた答弁といえるのではないか。
これは表現術の問題ではない。真心すなわち政治に向かう心的態度の問題である。先ほどの絶望という表現がいき過ぎたものであると政府が胸を張っていいきるのなら、まず生活に困窮する者の下駄を履き、その上で真心を持って事に当たることが大切である。そして真心は答弁であらわすしか他に手立てがないのである。
困窮している人々を救うにはどうすればいいのか
◇ 話は変わるが、経済とはもっぱら貧民を生む仕組みなのか、であれば破壊してもいいんだなと耳元で囁かれたときどう答えようか。まるで政治の入口での問いかけではないか、それに対しほとんどの人は否と答えるだろう。しかし経済を破壊してはいけないと答えてから、問題が始まるのである。
ではどうすればいいのか、現在の経済体制を破壊せずに困窮している人々を救うには。これが2021年の深刻な問いであるが、問いの裏には気候変動対策あるいはSDGsという制約条件がベタッと貼りついていて富の分配構造の見直しだけではどうしょうもなく、むしろ負の分配を真剣に考えなければならないことを指し示している。負の分配とは経済収縮である。資本主義はその矛盾を経済成長によってうまく糊塗してきたが、収縮過程での方策は酸鼻を極めるであろう。そのとき民主政治が支持され機能するのであろうか、という問いかけでもあるのだが。
絶対的貧困と相対的貧困それに気候変動策とSDGs
◇ 貧困対策は国連においても持続可能な開発目標(SDGs)の主要な柱の一つである。それは一人一日1.25ドル未満(国際貧困ライン)を2030年までになくし、絶対的貧困層の生活向上を目指すものである。一方、各国での所得中位数所得の1/2を相対的貧困ラインとし、それ以下の比率を相対的貧困率としてその改善を図っているが、なお上昇傾向にある。とくにコロナ禍によりさらなる悪化が心配されている。
さて、絶対的貧困については一人一日1ドルを付与するとして、年間では365ドル、対象を7億人と考えれば2555億ドル必要となるが、これなら国際社会として十分対応できる金額であろう。ただし、くまなく配分されるかなどさまざまな課題があるので金さえ配れば済むということにはならない。しかし、経過からいえば改善されてきたし、ある意味射程に入っていると思われる。この点私たち人類は前進してきたのである。
◇ 一方、相対的貧困は複雑というより困難な課題を内包していると思われる。その解決策は単純な分配問題に置き換えられるのか、それとも資本主義体制の解体にまで突き進むものなのか、現時点では判断がつかない。くわえて気候変動やSDGsが突きつける制約条件が経済成長すなわち規模拡大による解決策を拒んでいることから、ゲームでいえばプラスサムがゼロサムにさらにマイナスサムにルール変更されるようなもので、ゲームの様相がガラッと変わってしまうのである。
正直いって平和裏にマイナスサムにルール変更できるものなのか、ここは呻吟するばかりである。まあ、呻吟するばかりでは能がないので時節柄の蟄居ながらに筆をすすめてみよう。そういえば週が替われば啓蟄だ。
◇ 物憂いや梅見つけてもなお暫し
加藤敏幸
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