遅牛早牛

時事雑考「2021年3月は逡巡の季節、それにしてもEVははしゃぎすぎではないか」

◇ 3月2日、2021年度予算案が衆議院で可決された。現在、参議院で審議中だが、憲法規定の30日ルールにより3月中に成立することが確実となった。最大野党の立憲民主党は、日程について与党ペースを受け入れたのは審議過程と内容で実を取るためだったと衆議院での審議を振りかえりながらそのように説明している。(3月3日報道)

 確かにスケジュール闘争の険しい雰囲気はなかった。その是非は置き、政権にとってかなりややこしい醜聞が転がっている中で年度内成立を許容すると「何か裏があるのでは」といった憶測を呼ぶことになる。したがって、それが分かっていながらそうしたからには野党第一党として何かしらの作戦があったと推察するのが自然であろう。そこでこれを作戦説としておこう。

 一方で、追求型の国会質疑がどうにも評判が悪いことから、ありていにいえば自信喪失の中でゆるい対応に終わらざるを得なかった、という自信喪失説も捨てがたい。

 他に通好みをいえば、与野党国対癒着説があるが、今さら何をというものでこの確率は低い。しかし、一応考察の対象とするのが批判的論評の「お約束」なので取りあげるが、根拠は接触が長くなるとどうしても癒着するらしいという程度の他愛ないものと思う。現象をいえば国対責任者のキャラが人付き合いを好み、生成(きな)りで親和性が高いといった場合、癒着とはいわないが密着度の高い人間関係に発展することへの周辺からの牽制が現れているのかも知れない。

 そのような関係はべつに悪いことではないが、一般にはあまり長く同じ役職に居させないということになるのではないか。

 さて、大切な推論をすっ飛ばして結論だけを述べるなら、作戦説の確率が相当に高くその心は「管総理相手に総選挙を戦いたい、それもできるだけ遅い時期に」ということであろう。

 具体的には、解散に追い込まない、9月の自民党総裁選で替えられないように深追いをしない、といった生かさず殺さず作戦だと聞けば納得のいく気がする。まあ、応援はしないが致命症も与えないという高度な対応に、あの生硬な立憲民主党がね、と感慨をこぼしたいがまた甘いと難じられるのが嫌だから止めておこう。

◇ 安倍政権時代から続いているつまらないうえに無残な役人自滅劇場にうんざりしている。前言を翻すに曖昧妄言をもって為すあざとさに怒りとかではなく何かしらの情けなさを感じる。こんな役回りをするために国家公務員になったわけではあるまい。こんな私に誰がしたといった切り口上は好まないが、天下の俊秀の果ての姿に「この国はどうなるの」と愚痴りたくもなる。それというのもモリカケサクラを中途半端に扱った、つまり嘘と曖昧さに大甘の国会に問題があったといわざるをえない。わけても与党の責任つまり権力監視あるいは内部規律という点で為すべきことがあったように思う。

 為政者の責任は免れられないことは当然である。この認識に立ち総理にさらに突っ込んだ一言がいえない与党議員のありようがわが国の政治の限界を生んでいるといっても過言ではない。この程度の役割も果たせないのなら野党議員の数を増やすことをそろそろ考えようかと思う人も増えているのではないか。

 センター付近にいる有権者としては政権交代への抵抗感もほどほどにして50議席ぐらいは動かした方がいいかも知れないと思う。ここのところ有権者が与党を甘やかしたと考えている評論家も多いのだが、政治評論家にしても議員以上に迎合的で国民に対し厳しい一言を吐けないでいる。そうであるなら簡単にポピュリズムという言葉を使うなといいたい。

 まあそれぞれが民主政治のありようについて考える時がきているようだ。

◇ 朝日新聞3月3日朝刊の「多事奏論」欄に原真人編集委員が「グリーンバブルと日本 脱炭素目標の残念な現実」と題していくつかの問題を提起している。こちらの解釈での引用なので取りあげ方が偏っているかも知れないが、三段構成のうちの第1段は「2050年の実質排出ゼロ」という直近の政府目標について「本気で実質ゼロをめざすなら、経済成長を犠牲にすることもいとわないくらいの覚悟が必要だろう。」というもので、その主張の前に「12年前、当時の鳩山由紀夫首相は米ニューヨークでの国連気候変動サミット開会式で『20年までに1990年比で排出を25%削減する』と演説し喝采を浴びた。この時も朝日などが社説で宣言を高く評価した。 実はその議論をめぐり朝日の論説委員室では大激論があった。大半の委員は賛成、反対は私を含めて少数。私が評価できなかった理由は数値目標も実現へのロードマップもあまりにも現実ばなれしていたことだ。」と記述している。

◇ 当時の政府内、民主党内も大激論であった。政権発足直後の重要な議論で白熱はしたが結果的にトップダウン型の方針決定となった。この後、民主党政権が原子力を柱とするエネルギー政策に舵をきった要因の一つに国際公約ともいえるこの目標があったことは間違いないと考えている。

 しかし、2011年3月11日の東日本大震災による原発事故が状況を大きく変え、鳩山政権の目標は2012年野田政権によって白紙に戻された。

 お蔵入りしているとはいえ25%削減目標がどうであったかは大いに気になるもので、それについて氏は文中で「25%削減水準の達成はなお遠い。」と目標の未達とその困難性を指摘している。これもその通りで、だからなお高い水準である2050年実質排出ゼロについてはさらに困難であるとだれしも考えるだろうし、氏が先ほどの覚悟の必要性を強調されていることも自然な感じで受けとめられると思う。

 なお朝日新聞論説委員室での大激論については恥ずかしながら初耳であったが、今となってはまあそうでしょうねという程度の感想を述べるしかない。それよりも「25%削減」をささえていた原子力発電に対する同紙の内部議論がどうであったのか、機会があれば知りたいと思う。

 また、2050年実質排出ゼロ目標が原子力発電をベースにしたものか、あるいは原発ゼロなのか、それによって議論が大きく分かれると思われるが、石炭火力に厳しいまなざしが注がれる昨今、目標の具体化や工程計画などについて考えれば考えるほど実現を拒む壁が巨大化していくように思われる。

 そんな中、私たちは本当に経済成長を犠牲にできるのか。それも間に合うタイミングで政治決断ができるのか。また、そうした場合どのような副反応にみまわれるのかといったとてつもなく巨大な設問についてこれから折々考えていきたいと思う。

◇ さて、第2段では「そこまでしなければいけないほど温暖化は人類の脅威なのだろうか。『そう言えるほどの科学的根拠はない』とキャノングローバル戦略研究所の杉山大志氏は言う。」と受け、さらに「『温暖化対策はもちろんやったほうがいい。ただ巨額の経済負担をするなら科学的には不確実性がある問題だと認識して判断すべきです』。」と肩すかし風に続け、あらためて気候変動問題の核心の一つを浮かび上がらせている。

 一般的に温暖化説の根拠とされている国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)報告書は確率表現に満ちていて、多くの人には取っつきにくい読み物となっている。たとえば地球温暖化の原因については人間活動が20世紀半ば以降に観測された温暖化の支配的な要因であった可能性が極めて高い(可能性95%以上)と示されているが、では95%以上という表現をどう受けとめればいいのか、これは難しいことである。

 この報告書は第5次(2013年9月27日公表)で、2007年の第4次では「90%以上」であった。6年間で90%以上が95%以上に高まったのであるが、それがどうしたという声もあり世間では「で本当のところはどうなんだ」と絡まれそうである。この95%という数字は結構微妙で、たとえば20回に1回の割合で誤差があることを20人を逮捕して1人が誤認逮捕だったと説明して理解されるだろうか。おそらくとんでもないと非難されるだけであろう。限りなくゼロに近づけるべき事象と、仮説証明に求められる確かさとは異なる次元のものだが、ともかく「絶対にそうである」とはいえないのである。これがこの議論におけるもどかしさを生んでいるわけで、まことに不確実性を含む議論は慣れた人にとっても難しいものである。

 そこで仮に人間活動が支配的な要因だと納得していただいたとしても、今世紀末には気温上昇が0.3~4.8℃(1986-2005年比)、海面上昇が0.26~0.82m(同比)であり、それらが引き起こす脅威について具体的議論を深めることは幅がありすぎることもあってなかなか困難なことである。焦点がぼけたメガネを掛けたようで議論も不鮮明である。ということから「巨額の経済負担」の必要性を切実に感じることにはつながらない。

◇ にもかかわらず「このところの脱炭素の潮流はどうも科学論争の域を超え、経済覇権戦争へと変容してしまったようだ。化石燃料から自然エネルギーへ、ガソリン車から電気自動車へ。このゲームチェンジにどの国がいち早く対応できるかという陣取りゲームである。」と第3段の指摘は気候変動対策を錦の御旗にしたエネルギーの囲い込み運動への批判でもあり同感である。

 また、自動車産業をめぐる競争枠組みのパラダイム変換を企図したと疑いたくなる状況への警告を秘めた指摘とも思われる。長くはないので是非全文を読んでいただければと思う。

◇ さて、気候変動対策としてCO2などの温暖化ガスの排出削減に取りくまなければならないことあるいは対策のテンポを早める必要があることの認識は深まりつつあり、その結果125の国などが「2050年実質排出ゼロ」を宣言するにいたっている。もちろん、このことを評価するのが大勢であるがはたしてそれを額面どおりに受けとめ素直に評価していいものかどうか、正直いくつかの疑問を感じている。

 その疑問の最大のものは、いつまでに何をどの程度という具体策やその工程計画が明らかにされていないものを評価の俎上に載せることはできないのではというもので、まあ宣言だけなら誰でもできるということである。大事なのはどのように達成するのかという詳細計画であり、それがなければ空論に終わる。

 という状況認識が常識であるにもかかわらず、とりわけ石炭火力の廃止と電動自動車の推進が考えられないほどの異常な立ち上がり(ブートアップ)を見せているのはなぜか。さらに石炭火力を悪魔にまた電動自動車を天使におきかえたとんでもなく馬鹿げたシナリオが白昼堂々とまかり通っているのはまさに奇怪なことである。

 確かに電動自動車は走行中にCO2をださないが、問題は充電される電気がどのように生成されるかであって、どの程度CO2を排出するかは電力供給網の平均値に収れんするだけのことである。もちろん大規模太陽光発電あるいは風力発電などの比重を加速度的に高めればその分排出量は削減できるが、国家予算規模の巨額投資とその回収あるいは環境負担など新たな課題も加算され想像以上に困難な事業になると思われる。ガソリン系から電気系へ切り替えるだけでもインフラのスクラップアンドビルドによるCO2排出量は膨大な数値になることにくわえベースの経済負担は計り知れない。確かに運輸系でのCO2排出量は膨大ではあるが、その削減を電気系への完全切り替えに求めるいわば部分最適化策が総合的に最終最適解につながるのか実証的検討が必要ではないだろうか。

 電動自動車の可能性は大切にしなければならない。それだけに目先の金儲けに利用されては台無しになるリスクもあり、さらに何やらEVバブルを画策している向きがあるように思われるので、おのおの方用心召されよ、である。

◇ ガソリンをエネルギー源とする現行の自動車システムは完成度が高く、利用する資源も最適調達化されている。と思うがそれを破壊してまでエネルギー系統を電力網に切り替えなければならない理由が今ひとつ理解できない。さらに、電力網の構成は大陸と島嶼とでは基本設計が異なるもので、災害時の対応力もさまざまで画一的でない方が復元性が高いと思われる。

 ということから、たとえば2030年から全面的に電動自動車へ移行することが、気候変動対策としてどれほどの意義があるのか、太陽光発電あるいは風力発電などの適地をもつ欧州では合理性をもちえても世界標準とするのはいささか行き過ぎではないか。さまざまなデメリットを考えればけっして良策とは思えない、少なくとも台数削減あるいは小型化や出力縮減などの方策の方が現実的であるように現時点では思える。

◇ また火力発電については燃料である石炭と石油と天然ガスそれぞれの特質に応じて排出ガスの質と量に違いがでてくる。もちろん天然ガスが優等生であるのは間違いないが、すべてを天然ガスに切り替えられるほど資源として潤沢とは思えない。世界のエネルギー総需要を強制的に圧縮するのならともかく、個別誘導政策の展開は天然ガス価格を暴騰させるだけであろう。天然ガス産出国の主張ならありうるのかも知れないが、需要国としてはあくまで最適構成が妥当ではないだろうか。

◇ 一方、民生用電力需要が著しい開発途上国での新設発電所を天然ガスに限定する意義がどこにあるのだろうか、疑問である。それは先進国といわれている独りよがりのエゴ国家の思い込みではないか。貧困との闘いの中で、一人一日1キロワットアワーの電力量がとても大切なのである。現実に即していえば現地にはクリーンを追求する余裕があるとは思えない。さらに、天然ガスは高いし輸送が大変である。つまり現地事情に即応した方法が優先されるべきである。また経済合理性を無視した施策は持続性に欠けるといえる。

 くわえて地域と国家にとって政治的に支持される施策でなければならない。支持される施策とは近隣諸国との緊張や紛争あるいはテロとの戦いなどさまざまな環境に対して総合的な対抗力をもち人々の生活に役立つものでなければならないということである。

 もともと気候変動対策はそれぞれの事情において総合的かつ合理的に作成されるべきもので、方法論において縛りを掛けることは忌避されるべきである。まるでGAFAのビジネスモデルの後追いのようにデファクトスタンダードを先行取得する狙いが露骨に見受けられるが、やりすぎると気候変動対策にかこつけた産業覇権主義になってしまうのではないか。

 もう大統領ではなくなったトランプ氏のパリ協定からの離脱はとんでもない所業だったと思うが、反面EU人が得意とする国際間枠組み作りでの彼らの鼻持ちならない独善性と大仰さに仮病さえ使いたくなる気分は「分かるっかな、分かんねぇだろうな」ということで、トランプ前大統領に共感するものではないが国際間の協議は常に裏側を覗きながらさらに疑ってかかることも常識のうちである。

◇ 2011年3月11日、もうすぐ10年になる。この10年を気候変動対策の視点から振りかえるとわが国のリーダーシップが低調であった時代であり、そのことが政府間討議において現実主義、実証主義を後退させたのではないかと内心疑っている。科学的不確実性を含みながら議論だけはますます先鋭化し、形而上に特化した方策は資本主義の偏執性を露骨に展開するだけで俯瞰的総合的視点に欠ける歪なものになっている。そういった議論のひずみを是正するためにも、またわが国がリーダーシップを回復するためにも、2050年実質排出ゼロの具体計画と工程表について国会で実証的な議論をすべきではないか、また現実的なベストミックスを前提に国内の合意形成に尽力すべきである。

 同時に、現政権は原子力発電抜きでは具体計画と工程表の作成が困難であることを国民に説明しなければならないと思う。今のままではあまりにも無責任ではないか。

◇ 欺瞞と偽善が争いながら価値ある仕組みすなわち未来を生み出していくことに慣れていくことが大切で、こういったことをこなせる人材が求められている。

◇ くさめして花粉恨めし桃の朝

加藤敏幸