遅牛早牛

時事雑考「2021年3月、未だ政局にならず前夜祭もなく」

あるとき目にとまった記事がどういう了見で書かれたのかと

◇ ときどき、あらっと思う記事にであう。朝日新聞3月11日の朝刊(14版)「『原発ゼロ』枝野氏の苦慮」との見出しをつけられた署名記事である。中見出しが「公の場で発言避ける」「合流の議員反発◼支援団体『自重を』」となっていて、リードに「-略-『原発ゼロ』をめぐり、枝野幸男代表が発言に苦慮している。-略- 今秋までに行われる衆院選をにらみ、枝野氏がいかに原発政策を打ち出していくのか、注目される。」とあった。

 記事は原発政策をめぐり立憲民主党内に意見の違いがあることを示すもので、その要因の一つに昨秋の合流で脱原発に慎重な旧国民民主党の議員が加わったことをあげている。

 この報道を複雑な思いで受けとめている支援者もいるだろう。というのも、合流新党の綱領には原発ゼロ社会の実現が堂々と掲げられており、また同記事も触れているように2018年3月に提出された「原発ゼロ基本法案」が今でも継続審議となっていることから、何を今さらというのが多くの支援者の受け止めではないか。すくなくとも原発ゼロを評価する支援者にとって2017年10月の総選挙での公約(原発ゼロ)は重要な判断材料であったと思われるし、2020年9月の合流新党の綱領がさらに支持を強めさせたといえるであろう。なら「苦慮」する必要はないのではないか。むしろ、もっと強力に推し進めるべきというのが党としては筋論であろう。

 ということで、もはや議論の余地のない課題なのにこのタイミングでなぜこの記事がでてきたのかということの方に興味が向くのだが、これは余計な詮索なのか。

◇ 筆者は同党のかかる方針は政権を目指す政党としては支持層をせばめさらに政策の選択肢を制約することからも賛同できないから、昨年9月旧国民民主党から合流する議員に対し本欄で嫌みたらたらの批判を展開してきた立場であるから、このような問題が生じることについては少しも不思議とは思わないが、決着ずみである課題にふたたび火をつける利益があるのだろうかと思うに、やはり選挙かとつぶやかざるをえない。そういえば、総選挙は10月までにはかならずあるのだから小選挙区での野党協力についてはそろそろ結論をだすべき時期であることは間違いない。そういう意味では露払いの役割をはたしているのかも知れない。(おっとここは微妙だぜ)

◇ 管政権への逆風は強い。感染症対策も今のままでは優はもちろん良も無理で可と不可の間にあると思われる。内閣だけの責任とは思わないがたとえば得意の俯瞰的視点にたった施策が見受けられず、対処法がドタバタに終始していて、頑張ってはいるのだろうが仕事ぶりがぱっとしない、切れがわるいのだ。  

 オリパラ東京大会も無観客で開催できればまだいい方で、最悪の場合は中止となり後始末だけが残る。

 一方、伏兵のように現れた接待問題は管総理の威信を傷つけ業者と飲み食いの場で大事なことを決めたのかという疑念を浮上させている。といったありさまだからこれは完全に野党優利の情勢であって、ここで総選挙をやればすくなくとも50議席が与野党間で動くと誰しも思うのだが、残念ながら茶の間がいまひとつ盛り上がらない。

 なにかとコロナ疲れの影響もあると思われるが、状況的にはもっと反政府感情が高まると思えるのだが、不思議な飽和感が漂っている。その原因はなんともいえない欠落感つまり土俵には力士が一人しかいないことからくる寂寞感にも似たものがあると思う。しかし、そういった飽和感なり寂寞感がなにかの拍子にふっとべば枯れ草が燃え広がるように政治情勢がゆらぐのではないか。そういう意味では世間は十分乾燥している。

 とはいえ立憲民主党には安全保障政策という巨大な靄状シールドもあって政権選択とさけぶわりには足許がおぼつかない。そんな野党第一党に心配性の自称リベラル新聞がしっかりせよとケリを入れた感がしないでもないが、本当のところはよく分からない。

対中基本政策が政権選択の分水嶺に

◇ 原発ゼロ政策と2015年安保法制廃止というとても分かりやすい旗印は逆説的ではあるが分かりやすいだけに同党にとって右方向の限界線を形成している。 

 今日すべてとはいわないが国民の多くは中国の軍備拡張に不安を覚えている。さらに国力と軍事力を背景にした中国のむちゃな現状変更路線は近隣国の不安と不快感をどこまでも広げるであろう。東シナ海から南シナ海は当然のこととし、さらに西太平洋全域をも支配下にという野心を見せつけられればいかな親中派であってもなにかと口ごもってしまうのではないか。

 外交上気に入らないことがあれば直ちにレアアースの輸出を止めるという何でもありの国がわが国の原油シーレーンの死活をにぎるなどという悪夢を現実化させてはならない。という世論が一気に形成されるであろう。という前夜にあって諸準備が整っているのか、国民の懸念はそこにあるようだ。

 嫌中とか反中あるいは媚中といった単純な話ではない。何千年にもわたる日中関係を理解しさらに今日的課題に対処するための凜とした基本方針を確立すべきである。自公政権は状況主義、すなわち現状追随だからいつか国民のプライドを傷つけるだろう。政権交代の鍵の一つはここにある。

 この3年間、何度も指摘してきたが左に位置する野党第一党が政権を握るためには右旋回しかないのである。党内左派は10年間は我慢すべきである。

◇ さて、東日本大震災から10年、あらためて震災リスクと原発リスクについての評論が盛んであるが、それらと同時に地政学上の脅威やエネルギー・食料などの安定確保などわが国の安全保障についても真剣に考えなければならない。 

 さらに、3月11日閉会した全人代の「香港処分」に中国共産党の本質が現れており、今後民主国家がどのようにかの国に向きあうべきかについての重要な示唆となっている。

 国内では、国際約束でさえ簡単に反故にする国を擁護することがはらむ政治リスクの大きさに対中世論はさらに悪化していくと思われるが、それはそれで困ったことである。ともかく難しい10年になりそうだ。

◇ 日米安保も原発も要らない時代がきたなら廃すればいい。でないのであればそのリスクは甘受しなければならないというのが現実論ではないか。また、米国よりも中国共産党の方が信用できるといった心証をお持ちの方々は論として早くまとめるべきである。チャイナ・パージといった暴風雨に巻き込まれると大変である。できるだけバランスのとれた議論を支えたいのではあるが残念ながら習体制は低気圧として異常発達し北上中のようである。

 

米中対立激化の中でバイプレーヤーである日本はどう振る舞うのか

◇ おりしもバイデン大統領の対中政策が注目されている。トランプ前大統領は米中貿易における米側の赤字削減を求め対中交渉を彼が得意と自分で思っている「ディール」として推し進めた。このことについては本コラム「2020年1月11日 2020年からの課題と予想-➀ 良いことも悪いことも米国から」で触れ、米側が通商交渉に人権問題をからめていないことを評価したが、人権問題を取り上げなくともいいという立場ではない。

 通商交渉に人権問題をからめると、中国にとって人権問題は体制維持にかかわる重大課題であり容易に妥協できるテーマではないこと、また解決の条件となる打開策が具体化できないこと、さらに実証不可能であることから本線の通商交渉の解決が難しくなると思われるので、解決したくない場合はともかく基本的には避けるべきである。

  貿易赤字の解消などは貿易統計という数字をベースにしているから交渉そのものは難しいものであるが、解決する気があれば時間がかかっても妥協策がつまり出口が見えてくる。

 ということで懸念していたのだが、米国の議会も世論も中国に対する批判を強めるなかで人権問題が安全保障問題と隣り合わせでセンターに置かれはじめている。下手をすると終わりのない対立になるかも知れない。そのことにより投資や知財にかかわる整備が逆に遅れるのも困ったことである。

◇ トランプ前大統領は赤字削減という実利を求めた。実利は可算可能であるが人権はそうではない。つまりトランプ時代とは設問が大きく変わり定量問題が定性問題になりつつある。次幕ではなく異なる舞台に移った感じである。また、日米豪印の連携も鮮明化をはかるのがいいのか、多少ぼかした方が効果的なのか、気になるところである。

 対中牽制でどのような効果をあげられるのかは4カ国連携の最終戦略目標に依拠するもので、その最終戦略目標がまだまだ煮詰まっていない。牽制しているうちはいいのだが、中国は歴史経験から連衡策への分断には慣れており、また世論工作も巧みである。おそらく4カ国の最も弱い鎖を狙ってくるだろう。ということから、日米豪印連携の持続可能性が論点となる。

 また、わが国は発信地不明のサイバー攻撃への警戒レベルをあげるべきで、くわえて防御力を全体的に強化する必要がある。

人権問題は広げすぎると手に負えなくなる

◇ 今日、国際的に注目されている台湾、香港、新疆ウイグルはそれぞれ異なる範疇のテーマであるが、いずれも設問次第で難易度は跳ね上がり反作用も尋常ならざるものとなるだろう。覚悟だけでは乗り越えられないので周到な準備が必要である。世界には民主政治を採用していない国も多く、人権問題の核心をどうあつかうかによっては国際社会を二分することになるかも知れない。歴史は往々にしてどのプレーヤーにとっても最も嫌な経路をたどるもので想定外の連続である。それに、ミャンマーも中東もありさらに米国内もからみ人権問題を広げすぎると手に負えなくなる。

 さて、バイプレーヤーの実績しかないわが国はどうするのか。当面、感染症対策と東京大会そして選挙と政権にとって頭の痛い問題が山積している。それだけでアップアップなのに問題は内だけではない外にもある。本当に大丈夫かということであろう。

気候変動対策で科学技術への過剰な期待は禁物である

◇ 科学技術への過剰な期待は禁物である。とくに工学は経験科学であるから実験しながら一歩一歩前進していくものである。そこで気候変動問題への対応として画期的な新技術の出現を期待する向きも多いが、さまざまな問題が横たわっていることも事実である。とくに扱う対象が膨大なエネルギー量であることが解決をより難しくしている。

 約328億トン、これは2017年の世界の二酸化炭素排出量(EDMC/エネルギー・経済統計要覧2020年版)である。気の遠くなる数字であり、気が遠くなるほど石油・石炭・天然ガスを燃やし私たちの文明が維持されていることにあらためて驚きながらかすかに文明の終焉をも思わざるをえない。

 また他の温室効果ガスが二酸化炭素排出量の17%程度あるので、1日あたり1億トンを優に超える温室効果ガスが排出されていることになる。ここで設問を裏返すと毎日1億トンを超える温室効果ガスの回収ということになる。まずこの回収装置の生産と運転にどれほどのエネルギーが必要になるのかなどとぐるぐると考えだすととうてい無理なことだと思い知らされ、で結論はそのほとんどを森林と海洋の自然回収力に頼るしかないということで、その回収量を超える分は排出することはできないということになる。これがカーボンニュートラルであり、化石燃料についてはライフライン維持用以外は使用禁止に近いと考えられる。

 この構造を画期的な新技術で解決することができるのか、と聞かれれば実験室では可能かも知れないが、1億トンといえば排水量で1万トンの大型巡洋艦1万隻に相当する重さでそれも気体である。これを1日で回収し固定化するなど物理量からいって無理である。

 他方、太陽光発電あるいは風力発電などの再生可能エネルギーの大幅な導入であるが現時点でいくつかの壁がある。まず装置のライフサイクルでのエネルギー収支、発電地域と消費地域を結ぶ送電設備と送電ロス、発電時と消費時の差を埋める蓄電設備、天候不順あるいは災害時への緊急発電対策など理論上は可能ではあるが国家改造にも匹敵する膨大な投資に各国経済が耐えられるのかという大問題がある。

 また、全面EV化などはイメージが先行しているが、そのためのリチウム電池がエネルギー収支としてペイするのは寿命走行距離の二分の一を超えるあたりからという説もあり、イメージほどのエコ性はないようである。

 このように困難な状況にであうと新技術の奇跡的な出現を期待する気持ちがつよまるのだが現実的評価からいえば政策論に組み入れることは無理であり、またまだ30年近くもあるからなんとかなるだろうという根拠なき楽観論にすがってはならない。

2050年実質排出ゼロに取りかかる前に資本主義の暴走をくい止めなければ

◇ ということで、森林と海洋が回収する分だけ化石燃料を燃やしていいが、のこりは再生可能エネルギーと温室効果ガスをださないエネルギーでまかなっていくことになる。ここで、「ではどのようにしてやればいいのか」という議論の前に決着をつけなければならない大きな課題がある。それは現在の資本主義体制をどうするのかという大仕事で、どうするのかといわれてもどうしようもないではないかといいたくなるが、ではこのまま平均気温が2度以上あがるのを見過ごすのか、それでは取り返しがつかないぞという強烈なジレンマに身もだえするのだ。

◇ 資本主義の原理は資本の増殖にある。資本は消費と生産過程で増殖するから、消費と生産は常に拡大しつづけなければならない。また、森羅万象をこの過程に組みこもうとする。海も山も川も森林も土地もそして人の不安も愛情も趣味も娯楽も見栄も嫉妬も友情もスポーツも善意も悪意も憎しみもそして心もすべてが貨幣に交換される。「ありがとう」も小銭かポイントに替えられる。

 これはだれかの陰謀ではない。もともとの仕組みである。この仕組みはすべての人が、所持している貨幣あるいは資産が少しでも増えればいいと思い願っていることから創りだされ支えられている。増えればいい、増えろ増えろと願いつづけるばかりで、増えることを止めたりケチをつけたりする者がいないからこの仕組みは100パーセントの支持を受けているといえる。いろいろ口ではいっていても誰しも内心は増えることはいいことだと思っている。だから富の増殖は喜ばれ尊重され優先されつづけ、そしてそれが私たち人類の基本原理になっているのだ。

 つまり資本主義が暴走するのは人々の願いに応えるためで、すべての人が富裕層をめざし、その可能性がどんなに小さくともゼロでない限りまた夢見ることが許されるかぎりそしてみんながそうしているかぎり資本主義は安泰である。

 酷なようだが「あなたが富裕層になる確率は今あなたが所有している資産に比例するからとても小さなものです。それは絶望的といってもいいものです」あるいは「あなたが成功するためには宝くじを買いなさい、でも当たる確率はもう絶望的といえます」というのが95パーセント以上の人々の現実であり真実なのである。とキツくいっても、人々は小さな小さな可能性であってもそれを信じ人生をかけることを止めようとしない。これが資本主義が不死鳥のような生命力をもっていることの真相なのである。

 アメリカンドリームとはゼロでない確率に人生をかけながら消耗していく無数の人々の汗と涙の結晶を資本が吸着する仕掛けで、格差は漸進的にまたは指数関数的に拡大するようにできている。

◇ つまり富が増殖しなければ資本主義は成立しないから経済成長が必要になる。経済成長がエネルギーも他の天然資源も人も大量に消費していることはここ200年の資源の消費グラフを見れば歴然としている。これを止めることができるのか。資本主義の暴走を止められないのに2050年実質排出ゼロを達成することができるだろうか。地上のすべての政府が経済成長をやめ逆方向の縮減へと路線を変えることができるだろうか。それで選挙に勝てるのか。人々の不満から生じる激しい政治混乱や社会崩壊から逃れることができるのだろうか。 これらの問いに多少不十分であっても納得のいく答えを見いだしてから排出ゼロの方法論に取り組むのが通常の手順ではないか。

 ここに述べていることは空想の産物である。そして空想であることをどんなに非難されても動じることはない。なぜなら、2050年実質排出ゼロこそが空想の産物ではないかという反論に自信があるからで、まあ論理的帰結といえる。

◇ 資本主義という超人あるいは妖怪や怪物がいるわけではない。また、すべての責任を資本主義におしつけて済ませられる問題ではない。さらに資本主義を否定したり破壊してみても混乱と無秩序をもたらせるだけで百害あって一利なしということに他ならない。

 現在の資本主義がもたらす物質的豊さが大いに私たち人類の助けとなりゆっくりと生活改善をすすめていることは、『ファクトフルネス』(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンダンド著日経BP社)にたいへんわかりやすく書かれている。「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」を身につければ資本主義の10の内の1に問題があったとしても、その1を解決するために残りの9を捨てさるような馬鹿げた判断はしない、つまり資本主義以外の仕組みを取り入れてもほとんどの場合解決にはいたらないどころか大損をすると理解できるであろう。

 つまりいろいろあったとしてもうまくいっているのだという声が聞こえてくっるが、しかしそれは地球が有限でありこの先持続不能と認識された瞬間から事情は大きく変わったのだ。いいかえれば持続不能というレッドカードを突きつけられた「今日の世界」が煩悶しながらも貧しい「明日の世界」へ移行することができるのだろうか、という問いかけを2050年実質排出ゼロは議論として突きつけているのである。

◇ 結局、この問いかけには答えられそうにない。経済学も社会学も政治学も工学も私たちが心の中に飼っている欲望を十分抑制することはできないだろう。まして資本主義は欲望をかき立てることはできても抑制することはできないのだ。それは哲学、宗教、倫理の担当であるが、残念ながら私たちはそれらをながらく使ってはいるものの欲望の抑制には完全に失敗しているのであって、その結果が現れているのが「今日の世界」なのである。

◇ 次は人類の理想主義の結晶である国連の持続可能な開発目標(SDGs)と2050年実質排出ゼロ目標の関係を雑考する。

◇多摩河原風冷たくも水温む  

 

加藤敏幸