遅牛早牛

時事雑考 「COVID-19下で臨機無能があらわに?ショボいことに」

◇ なんとなく調子が悪いこんなはずではなかったのにとつぶやきながらこの先どうなることやらと闇夜に向かう夕暮れどきに感じるような不安。体調ではない、世の中の動きである。サイコロもわるい目がではじめるととうぶん続くと誰かがいっていた。世の中のネジがゆるんでいるのか、そろそろ鬼か天狗か猩々がでてくるぞ。

◇ 医療逼迫だと聞く。3月21日、1都3県に残されていた第2次緊急事態宣言が解除された。なお関西、中部、福岡の6府県は3月1日に先行解除されていたが皮肉にもその大阪が第3次の発端となった。とくに一部の医療現場の逼迫状況が衝撃的に報道され隣接する府県も厳しい状況にいたっているとも伝えられ、病床の逼迫が入院前重症者や死亡者の増加につながっているとさわがれるなかで政府、自治体、医療機関への圧力は日をますごとに厳しいものとなっていった。

 もちろん第2次解除後も対策のレベルを維持しひきつづき準緊急事態下にあるという姿勢を政府も強調してきたが残念ながら緊張から弛緩へと人々の行動はゆるんでいった。とくに大阪を中心とする都市部の感染拡大がいっこうに収まらず3回目の緊急事態宣言を4月25日東京、大阪、京都、兵庫を対象に発出したが日々発表される感染者数は全国的に増加傾向をしめしている。

 緊急事態宣言が数次にわたることを責めることはできない。問題は内容である。施策がもつ説得性が国民の協力を引きだすのであるが施策が離反を引きおこしているようにみえる。

 また急速に比率を増している変異型が強い感染力をもっていることそのうえ若年者の発症例が増えていることなどから危機感がひろがっている。これまでの政府の対応が不首尾であることからこの先も不安だと思う人々が増えている。

 いっぽう頼みの綱であるワクチン接種は遅れぎみだが、調達はファイザー社から4月に1226万回分が入荷ずみで、さらに5月4300万回分、6月4300万回分以上が予定されている。残りの4500万回分がいつになるのか不明であるがいずれにせよ年内契約なので秋口までには納品されると思われる。またアストロゼネカ社(12000万回分)、モデルナ社(5000万回分)が承認申請中であり量的には十分確保されているといえる。

 そこで問題は接種である。現在の接種状況は1日あたり20万から25万回と伝えられているがたとえば5月の供給分4300万回分をこなすには1日あたり140万回程度つまり6倍ぐらいの能力が必要となる。それにしても医療従事者の接種はどうなっているのだろう。まさか非接種者が接種作業に当たることはないだろうと祈りたいが笑い話ではすまされない。また接種に当たっては事前の個別聞きとりなどが隘路になるといわれている。いずれにせよ現場での対応に委ねられた形でいつものことではあるが最後は現場の努力で間にあわせるということか。都合のいいことは中央集権で面倒なことは地方、現場まかせといった無責任政治は終わりにして欲しいものだ。それにしても英国や米国の集中力はすさまじいがどこが違うのかこの際よく考えてみてもいいのではと思う。

◇ 国民ひとりあたりのベッド数はだんとつの世界一であるのにこの医療逼迫はどういうことかしら、と首をかしげるのだが、ようするにベッドだけが多いということか。ようやくパンデミックには役にたたないベッド数だと気がつき医療経済の舞台裏を見た感じがする。それにしても医師会の代表がいつも深刻な面持ちでいろいろと発言しているがなぜか響いてこない。それは政治的影響力の強い団体だという印象だけでありがたい団体という記憶がないからなのか、不思議なことである。この一年あまり医療についてうまくいっていない理由をさまざま聞かされてきたが、でどうするのと聞きたい。医師会には国民のために強力な政治パワーを使って欲しいのだが。

 ここ何日か、病院にたどり着けずに亡くなる方が急増している。医療従事者も介護従事者もエッセンシャルワーカーも限界を超えていると聞くが、政府として打つ手はないのか。さらに死者数が増えると政権ランプが赤色になる。冗談じゃないという思いが政局をうごかしはじめるだろう。そして有権者はひどく感情的で不機嫌になるだろう。家族の悲痛な思いあるいは慟哭が国会や官邸にとどいていますか。

 ここ二十年パフォーマンスが表にでた政治家選びがつづいたが、無駄だった。国民のためにならない目だちたがり屋をすすんで議員にしていただけのことだったのか。オリパラ東京大会を誘致して小躍りしていたが今度こそ苦しんでいる人たちに寄りそってもらいたい。与野党をとわずなにかを変えるときがきたようだが、そのなにかがわからない。

◇ 古来パンデミック対策は難しいものである。被害は確実に存在しさらに漸増あるいは急増し手がつけられなくなる。経済被害も甚大である。有効な策はあとからしか見つからないので対応が遅れるのは常のことであり、時の政権は難儀をかさね崩れることも多い。政権の命脈はつきているとしても為政者を血祭りにあげても感染症は収まらないので人々は遠慮している。ただ修羅場は遅れてやってくるのは害を受けたものが恨みを膨らませ報復の機会をうかがっているからで、感染症の収束が見えてくるころがあぶない。時をえらぶのは統治される側の狡さである。

 だから秋頃の総選挙は微妙に「ヤバイ」のである。つっかい棒なしでは大敗と思われる。政権政党は主権者の怒りにもっともっと敏感にならなければならない。おそらく野党第一党がいまいちなので大丈夫と高をくくる向きがおられるのだろうがだれが勝つかは問題ではない、スガが負けることが大事なのである。アベならもっと負ける、人々がそう望んでいる。そう望む人々がたとえ5パーセントの少数であっても投票場に足を運べばそうなるだろう。

 5月連休の人出の予想外の多さに驚きの声を聞くがそれは人々の本音を聞きとろうとしないから驚くのであって、なかには政府、自治体への非協力の表明が紛れこんでいると思える。真摯さに欠け、不誠実で知恵がないと思われてしまった首相、大臣、知事たちよ、侮ってはいけないのだ。

 猛省と恭順の意を示さなければ次の選挙は大変事となるだろう。だって苦しむ国民に対してこれほどまでに冷たい政治家の群れを見たことがないのだから。株高で潤っている人は別世界に住む少数派である。そのほかはがまんしている、苦しんでいるのだ、この現状を忘れてはならない。

◇ だから野党の議席はのびる、とくに立憲民主党は軽く50は増える。こんな有利な情勢で激増しないものなら根本からやり直すしかないだろう。心配なのは天佑ともいえる議席増を実力だと勘違いしてしまうことである。そうなると選挙に負けても自民党のチャンスはつづく。 

 立憲民主党に現実感つまり世間と折り合う感覚が戻らないかぎり怖れることはない。それでも大きく負けるのはつらいと思うのなら「つっかい棒」を探すしかないだろう。今の時点では台湾有事をネタに安全保障が「つっかい棒」になると考えられる。不謹慎ではあるが危機にあっては外に危機をつくるとの定石にならい安全保障、外交をきれいに争点化できれば負けは最小限にとどまるであろう。きれいに争点化するには党内左派が主導するしかない。憲法改正に熱心な連中が表にでると簡単にこわれる。まあ昔のコウチカイの出番なんだろうが今ごろどうしているのかな。

 ところでわが国の政界に親中派などいないと思うが、もしかしたら親習派がいるかも知れない。媚中派はどうだろうか、とかいいながら興味があるのは政権政党として対中外交をどう考えているのかということで、習主席来日ハンタイだけでは物足りない。2千年をこえる交流をもつ隣国である。過去の研究蓄積だけでも膨大であるのだから与党たるもの深みのある見解があってとうぜんではないか。

 そういえばバイデン大統領の施政方針演説に対し「そろそろわが国も対米追従ではなく自らの外交方針を米国に理解させる時期にきているのではないか」といった識者の声を聞くけれども、これも『「NO」といえる日本』(石原慎太郎、盛田昭夫著光文社・カッパ・ホームス1989年)の流れなのか、もっともないいまわしではあるが具体政策におよばなければ議論にならない。

 とくにリベラル派の対中政策がこれからの焦点であろう。伝統的に反米親ソ親中の流れにあると考えられるが、1989年以降状況がさまがわりしていることから本格的な議論を聞く機会がなく不案内な事情にある。

 また対中外交を論じることはすぐれて共産党の支配する中国を論じることであり、とうぜん共産党を論じることになるであろうから、世界の共産党に対する今日的評価を議論のなかで外すことはありえない。左右の全体主義といった表現があるがその意味するところはなにか、民主主義体制といったい何が違うのかといった何十年ぶりかの議論が必要となってきた。

 

◇ この一年間、感染症に苦しんでいながら残念なことに不確かな情報と情緒による断定にまどわされた。統計、確率、論理という人類の英知に背をむけた独断と集団心理、思惑と営利優先など頭に思いうかぶ言葉にはネガティブなものが多く、鬱々とした悲観の海に漂っている思いであった。

 ということで本当のところ一年余のあいだに何がどう前進したというのか。たしかに医療面では試行錯誤による知見の積み上げが成果を生みだしていると感じられるがそれ以外はあいかわらずの泥縄ドタバタ劇ではないか。多くの対策が実施されたが実証データがとぼしく知見として採用できるものが少ない。とくに死者数の急増をどう説明するのか。なんとなく積み上げてきたものがなんとなく崩れていく。それが残念でむなしい。古希を過ぎたこの齢で自分たちが作りあげてきた社会の弱さ政治のふがいなさを目の当たりにしてほんとうにさえない気分である。

 ところで「コロナは社会のレントゲン」とはポーランドの哲学者の言葉と聞くがつくづくそうだと思う。たしかに今日のわが国が抱える課題が少しずつ見えてきたが、問題は課題や患部が明らかになっても処方がままならないところにある。大勢でボヤだ火事だと大騒ぎしていても消火する人はいない、また消火の術も策もない。

◇ そもそも感染者数とはどういう数字なのか、これがわかったようでわからない。検査母数のとり方も検体の採取日も検査日も明らかでないなど判然としないことが多いのに政策判断の基準として重要視されているのはどういうことなのか疑問である。(その曖昧さが気になって仕方がないとは杉下右京みたい)

 それにしても、みんな統計、確率、論理がきらいだから、ある程度曖昧であっても(よくわからないから)容認しているのかも知れない。しかしそういうだらしのない数字の扱いがその場かぎりのカゲロウ議論を生みだしているように思える。こういった場面でこそ厳密な議論をつくす流儀を確立しなければこの国はいつまでたっても曖昧模糊なる世界から抜けだせないであろう。

 人はたまに理性的になることもあるが普段は感情的である。感情的であることが悪いということではない、それでは間違う場合があるということだ。

 だから科学的、合理的議論を中心にしなければと思う。報道も感情の応酬や水掛け論をスクープするのはほどほどにして、事実や論理を中心に伝えて欲しい。メディアは流す内容によってあたかも別の国会をイメージとして送っているのではないか。「国会ではこんなことをやっていますよ」とことさらレアな映像をとりあげ不信を助長していくことは抑制した方がいい。あくまで公共の電波を使用するのだから議論の大綱を正確に伝えることで政治監視の任務をはたすべきではないか。予断や恣意的なシナリオの押しつけはとくにパンデミック下では害をなすことがある。最近ではSNSなどにおされテレビも新聞も退潮傾向にあるが、社会対話はSNSだけでは成り立たない。ということで新しい役割を見いだすいい機会と思うのだが、けっこう難しいことかも知れない。

◇ たとえば「ゼロコロナ」という主張は論として時宜にかなったものではあるが、ではそれはどういう状態を指し、どういう条件が整うと達成されるのか、またゼロ以外に許容できる水準があるのかないのかなど政策の基盤となる議論が不足していると思う。

 またワクチンの副反応の出現比率をいかに評価するのかなどこの際リスク概念の整理が必要であろう。それぞれ立場の違う者が共通の理解に達するためには用いる概念の定義をしっかりとおこない厳密な論理展開を心がける必要がある。パンデミック対策の議論は科学にもとづかなければ役に立たないと思うが、そう思っていない方々がハンドルを握っているからなのかしっくりこない。また専門家がいつも科学的とはかぎらない。科学立国といったってちっとも科学的でないではないか。報道も同じだ。「嘘でない」ことでも二重三重に重ねれば「必ずしも正しいとはいえない」ことになる。毎日あおり方教室をやってどうするのだろう。

◇ 史上最速でワクチンが開発されその接種が進んでいる。他国の話だが画期的といえる。この瞬発力は資本主義ならではのもので、とくに開発、製造では資本主義のいい面がでている。しかしワクチンの配分では早い者勝ち資力のある者勝ちの悪い面がでているのではないか。また接種率はある意味国力の反映であるから、途上国へは特段の配慮が必要であるのだが、今の国際機関にそれだけの力があるのか、また国連を構成する各国がどのように判断するのか、気候変動対策においてもおなじ問題構造すなわちいずれの国も自国第一ではあるが、その本音をいかにうまく包みこんでいくかという姑息な競争のなかで、国境をまたいで人々が助けあうという理想論は残念ながらはるか後景にかすんでいる。

 そんな状況にあってワクチン開発、接種ではわが国は予想外の低位、後発に位置しているが、それは基幹技術がないのではなく仕組みがまずいからであろう。がっかり感が強いなかで、偉そうなことをいったって自国でワクチンできないじゃんという声は政治的にキツいものがあるのだが政府も買いつけだけではなく開発に知恵をだすべきではないか。とにかくなんとかして欲しいというのが国民の声である。

 さて購買力があるからワクチンの予約はできる。しかし本当に手にすることができるのか。さらに接種を円滑に進められるのか。当初計画から半年遅れぐらいなら上出来ではないかと国民は思っている。まあいい訳は山ほどあるとしても、仕組みの悪さ柔軟性の無さを目のあたりにしてこんなことで大丈夫かと国民が心配するのはあたりまえである。国民の心配を思えばオリパラ東京大会はすでに射程外となっている。

 コロナレントゲンは期せずしてわが国の医療行政の弱点を映しだしているといえる。

◇ オリンピック・パラリンピックの誘致は愚行ではない。本来祝福されるべき快挙である。ただ悪いのは新型コロナウイルスであり感染抑止に失敗した某国ならびに各国政府といいたいが証拠どころかまだまだこの感染症については不明なことが多いので断言できない。まるでもらい事故のようでもあるが他国のせいにして済まされるものではなかろう。

 それにしても誘致という歴史的快挙が逆に国民の重荷になるなんて誰が想像したであろうか。こんな形になるとはまるで悪夢のようである。

 ところで新型コロナウイルスに打ち勝った証としての大会開催などと根拠なき言葉をまるで朝の歯磨き水のように吐きだせる才能が不思議に思える。同時にそれがリベラルな者の軽口に似て聞こえてくるからなおさらおかしい。まるで不思議の国に迷いこんだ感じがしてならない。つまりはゼロコロナに通底するリベラル楽観主義、根拠なき優越意識とそこから生まれる無責任症のなせる技なのか。まったくのところ保守主義者には発することのできないフレーズである。

 そんなこんなで結局のところ、パンデミック下でのオリンピック・パラリンピック大会がどのようなものになるのか、身を挺して完遂する道しか残されていないようで、今さら是非におよぶものではあるまい。是非にはおよばないが恨みを残す大会になることは避けられない。ところで、ある社会学者が大会中止を決断し直ちに総選挙をおこなえば決断力が評価され大勝するのでないかといったアイデアを披瀝しているようであるが、現下の状況を政治的思惑につかってはならない、これが原則である。なぜなら国民にとっては生き死にの問題である。また休業から廃業への瀬戸際であり、従業員の雇用をどう守るかという切実な場面なのである。ああでもない、こうでもないと頭の中には選挙しかないのか。解散して感染症が収束できるのならともかく、冗談もたいがいにして欲しいものだ。感染症対策に失敗してどうにもならないから解散するなど失礼にもほどがある。

 まあ政局からいえば地獄八景である。地獄ではすべての風景が地獄であるから慣れてしまえば何のことはない。が、地獄は地獄救いようがない。

 買うよりも売るほうが、拾うよりも捨てるほうが、始めるよりも終わるほうが難しいということか。東アジアの老大国にとってボデーブローがじわじわと効いてきそうである。

◇ ところで新型コロナウイルスが人為的に生成されたという証拠は見つかっていない(専門機関を信頼してのことだが)。したがって生物兵器にかかわる言説(某国の陰謀説)は正しくないだけでなく有害であり厳しく指弾されるべきである。

 さて問題は実験室において遺伝子技術により新型ウイルスとワクチンが生成できるということであり、それは比較的簡単に兵器化できることを意味する。

 現下のパンデミック下においてウイルス兵器の開発を企図する邪悪な勢力がいるやも知れない。現在禁止条約があるといってもテロあるいは脅迫の手段として使われることの可能性は否定できない。かつてのオウム真理教団による地下鉄サリン事件を思いおこせばある条件のもとで起こりうると考えるべきであろう。

 信じがたいことが起こる時代である。空想が現実になる時代においては従来以上に国際的な監視体制の強化が必要ではないか。

◇ COVID-19の直接の産物ではないかも知れないが、4月28日の米両院合同会議でのバイデン大統領の施政方針演説は100パーセント以上中国を意識したものであった。とくに民主主義国と非民主主義国の対抗関係を踏まえたうえで中国との競争にうち勝つことを戦略目標としたことによりトランプ前大統領が着火した米中対立が当面どうにもならない事態にいたっていることが明確になった。そして事態はより困難なステージにいたったといえる。

 とはいっても将棋でいえば中盤段階にある駒組みを一挙に変えることはできない。にわかに急戦もようになったものの盤上は相互依存関係を保持している。この関係をほどいていくことが簡単にできるとは思えない。長期戦を前提にしなければサプライチェーンの組み替えなどとてもできないであろうし、同盟関係を従来以上に重視するのであれば関係国とのきめ細かな調整も必要であり相当に手間ヒマのかかる作業となる。

 くわえて強く外に向かうときはまず内を整えなければならない。内を整えるためには外に大きな敵を作らなければならない。まさに定石通りの展開である。

 しかしながら、そういうことであるのならもっと早く手を打っても良かったのではないかと思うのだが、「戦略的忍耐」というスカスカの概念をつかって自らをごまかしていたのか、足踏みが長すぎた。この手の話すなわち覇権争いは着手が一日遅れれば対策は一日分を超えて手こずるもので、今はギリギリのタイミングかもしれない。

◇ 民主主義国対非民主主義国という構図は直感的でわかりやすいといえばわかりやすい。しかしそれは入り口がくっきりと目立っているからそう思うだけのことで、出口についてはほとんど闇の中、はたして出口が有るのか無いのかさえもわからない。

 経験的に二項対立型の設問には無理筋が多いと思っているので反射的に引いてしまうのだが、バイデン大統領の指揮棒には多少興味がある。もし民主主義国が停滞あるいは退潮傾向にあると考えるのならそれは直截にいってGAFAのせいであろう。とはとんでもない飛躍だが、このぐらい飛ばないと書く方もつづかないので容赦願うとして、GAFAは仕組みで利益を得ているわけだから、またその仕組みに厳密にいえば道義にもとる怪しいギアが組みこまれていて、まあ富の集中が終わることはないだろう。それに表にでている収益だけでもまるで空気に課金している錬金術に見える。

 この富の集中は結果的に地球のあちこちに富の真空地を作っていると考えられる。そこで富の真空に遭遇している国々は民主主義国のセールスポイントである富の再分配原資に事欠くことになり、場合によっては外国からの支援に頼ることになるが、頼った先が非民主主義国であれば民主主義国の優位性はおろか有用性も説得力を失うことになるだろう。中国の基本戦略の一つは支援による支配すなわち与えることは取ることという古典の応用にあると思われるが、現実は性急すぎるうえに野心まるだしで気の毒なほどに不細工なことになっている。もちろん不細工であっても効果はのこる。

 もともと富の分配が適正でなければいかなる体制も長続きはしない、まして再分配機能が不調である国が民主主義国として生き残れるはずがないと思うのだが、最近ではなぜ独占禁止法が必要なのかといった資本主義が民主主義と共存するための枠組みについて大雑把な話でさえ聞く機会もないことから両者のハイテンションな関係が忘れられている。そのためか世間には浅薄な議論だけがはびこっている気がする。

 重ねて述べるが、もし国際社会の現況を民主主義国の後退と憂えるのならその原因がグローバリゼーションの進展の中で富をえられなかった国々が国内での再分配に失敗し人々の気持ちが政府だけではなく民主主義からも離れていかざるをえないというところにあることをしっかり受けとめるべきであろう。人々が支持しないものを為政者が支持することはなかなかないのだから。

 いいかえれば労働への分配が低く抑えられ、くわえてグローバリゼーションにより国家間、地域間の富の格差が大きくなり富める国や地域はさらに富み、貧しい国や地域はさらに貧しくなっている。資金需要は旺盛であるが多くの国や地域では資金が不足している。民主政治をささえるためにも人々の生活を改善するためにも国内の富の再分配が欠かせないのだが現実は厳しい。

 個人でいえば労働の対価である賃金が長期間にわたって低くおさえられ、また最低限の生活を維持すべく国に頼っても国自体が手元不如意でお手上げであるから公助に頼れない。そのうえいかなる政治主張をおこなっても事態の改善には結びつかないといった状況が日常化する。となれば誰だってコスト高の民主主義に愛想をつかすことになる。この愛想づかしは緩慢なものではあるが、いや緩慢であるがゆえに民主主義の本質的危機なのである。ここで抜本対策はおいて応急措置ということであればインセンティブをもって民主主義国を支えることの他に手はないだろう。

 しかしインセンティブとはいえ国家間援助が民主主義を支える切り札になるとは誰しも思わないだろう。国柄によっては援助そのものが非民主的に扱われ最悪の場合反民主グループの活動原資になることも珍しいことではない。

 だから経済全体のありようとして労働への分配を増やすこと、課税回避(タックスヘイブン)を封じること、増税などにより再分配原資を増やすことなどを世界同時におこない今日の資本主義の病弊をただすことが優先課題であり最重要事項である。このような基本的対策を抜きに民主主義国の退潮を憂えてもそれはぼやき以外の何物でもないから対中国関係での切り札にはならない、それどころか瞬時に足許を見られるだけである。という文脈でいえばバイデン大統領の方針は妥当であると思う。問題はやり遂げられるのかということでこれは米国民にとっての課題であろう。

◇ パンデミックが貧しい人々をさらに窮地に追いやっていることが現実問題として遅すぎると思うがようやく認識され始めている。貧しい人々の窮状にかかわる問題はひとまずおき、ここではいっそうひどくなっている局部窮乏化が民主政治の動向といったいどのような関係にあるのかあらためて考えてみたいのだが、世に現れている議論の多くは表面をなぞるだけに終わっているように思える。

 つまり深部を直視するものが少ない。それは評論する者が一向に窮乏していないからであろう。どこまでいっても他人事なのである。だからパンデミックによってひどく困窮させられた立場からいえばそんな議論なんかどうでもいいほんとうに「やってられない」のであり、また民主主義については「それが何なの、関係ない」ということではなかろうか。

 法を説くまえに水を与えよとは真理である。たしかに局部窮乏化に押しこまれた人々が今さら民主主義を議論しても意味がないと考えても非難できない。つまり「だれが今さら民主主義を擁護するのか」という問いかけに答えられなければ民主主義国対非民主主義国というゲームを提起する意義はうすれていく。

 暗黙あるいは無意識に民主主義国の優位性あるいは有用性を信じていることが問題だといっているのではない、その恩恵を体感し感謝の念をいだくものが今日どのくらいいるのか、いいかえればなまなましい思いで民主主義の価値を信じる人々の力がなければ非民主主義国の筆頭である共産党中国には対抗できないであろうということであり、また民主主義の恩恵に浴していた長い年月が生みだす錆がどんなものであるのかわが国もふくめ民主主義国はそれぞれの歴史を振りかえりながらあらためて考えなければならないということである。でないと足元をすくわれるやも知れない。

◇ 英国エコノミスト・インテリジェンス・ユニットが毎年世界各国(167カ国)を対象に民主主義指数を発表している。何でもかんでもランク付けしておのれを高見におき悦にいる厚かましさには少し鼻白むがそれでもがまんしながらランキングを眺め「そうまでして民主主義を守る動機は何なのか」と自問する。また下位にランキングされたとても無残な成績の国々には「意図的に民主主義を忌避するのはなぜなのか」と、しかしいずれにしても167(国)のいいわけが陳述されるのであろう。ここでさらにと続けたいのであるがこの調査の手法そのものにわからないところがあるので今回は「ちょっとだけの」紹介にとどめるが、この手の調査はウイスキーとは相性がいい、あとを引くから。

 もし民主主義国対非民主主義国の対立構造を表にだしたいのなら是非ともさきほどの問い「だれが今さら民主主義を擁護するのか」に答えて欲しいものである。しつこく衝くのは、まず民主主義を支えているのは公正な分配であり、それを求め実現するための体制が民主政治であると考えるなら、現状における地球規模の分配構造のひずみはどこからきているのか、原因はなにか、ここにメスを入れなければ話は進まないということになる。

 だから先ほどは恥ずかしながらGAFAに原因ありと妄説を呈したが、その意図するところはすべての物質がブラックホールに吸い込まれていくようなすさまじい富の一極集中に国家といえどもあらがえないつまり分配の当事者たりえないという無気力空間にあってどうやって民主主義をまた民主政治を守りぬくことができるであろうか、というものである。公正な分配が保証されない状況で民主主義を守るのは土台無理な話であると思う。民主主義では公正な分配が肝心であるのに国際経済はこの土台をスカスカに崩しているのだから民主体制を死守できない国がでてくるのはある意味とうぜんではないか。そしてそれはだれの責任なのかが問われるべきではないか。

◇ 多くの国、あるいは人々はそれらの矛盾は米国発だと素朴に思っている。その張本人と思われている米国自身が分配構造のゆがみに身もだえし始めているのである。暴走する資本主義から民主主義を揺るがす神経毒が放出されている。そのもっともホットな炎症地である米国が民主主義国に結集を呼びかけているのだから見方によっては紛らわしいことであり、しらけ気分を催す人も多いであろう。

 さて気分がしらけるのは同感ではあるとしても、とはいっても中国流の一党独裁型覇権国家が東アジアをわがもの顔で仕切ることを許容できるのかといえば是とする者はいないであろう。場合によっては仕方がないと答える者が幾分かはいるだろうが多くは中途半端な態度でさえ受けいれられないと答えるのではないか。これが自称民主主義派の橋頭堡となっている。であるから覇権主義が無害、無力になればいつでも反覇権主義の旗は降ろされる。今語られているのはあくまで平和共存をもとめる条件闘争であって人類共通の課題である気候変動への共同戦線構築の入り口での地固めにほかならない、といえばお気楽すぎるであろうか。

◇ 覇権国家は上書きを得意とする。あるいは既成事実をもって上書きすることを常套手段とし、自分たちの勝手な理屈を力ずくで正当化したがるのである。困ったことにあらゆることを示威的に押しまくるのが外交であると本気で信じている、さらに力の外交の世界に染まってしまうとふつうの外交ができなくなる薬物効果さえあるのではないか。覇権主義とは末端の官吏までもがそのように染まってしまう仕組みでもある。

 しかし強そうではあるがそれが弱点で、ふつうの外交ができない国に友人はできない。できるのは金で歓心を買うことかあるいは敵の敵を味方にすることぐらいであろう。

 では覇権主義をとる専制国家にはどう向き合えばいいのか。この議論は単純ではない。とくにわが国にとっては苦手な部類の議論であろう。

 それは戦争を避けるために戦争に備えるという方策が矛盾をふくむのではないかと疑われ戦後の大衆運動には受けいれられなかったこと、また軍国主義の悲惨な歴史体験から戦争に連なることが強く忌避されたこと、同時に憲法第9条の桎梏(しっこく)がよく効いていたことなどから自国防衛にたいしてさえ否定的な反戦平和路線がおそらく3割を超える国民から継続的にまた安定的に支持を得ていたことなどまさに国民意識からもたらされた政治状況が近隣国を仮想敵国とする文脈や規模にかかわりなく戦事に巻きこまれることを徹底的に回避させるもので、いいわるいを超えて結果として巨大な議論の不在が生じてしまったといえる。

 当時から専制国家あるいは非民主主義国の危険性を国民の多数が感じておれば事情は少しは変わっていたのかも知れないが、国内世論における親米反ソと反米親ソの対立構造が妙に長持ちして認識の固定化が著しく、その固定化により逆に世情は安定していったといえなくもないのである。

 ただ安定は評価されるべきものではあるが反面次の時代つまり現在の準備が手薄になったことも事実である。

◇ 戦争を避けるために戦争に備えるという抑止論にもとづくこの理屈を終始受けいれなかったのが日本社会党であった。同党の初期における非武装中立論が未完のものでさらにひどく現実性を欠いていることから政策論としては問題があったのだが、おそらくそのファンタジー性がある種の吸引力を持っていたのかも知れない、とにかくわが国の安全保障の議論に多大な影響をおよぼしたことは事実である。もちろん多数の支持するところにはならなかったが、左派支持層に長がらく影響しつづけ、結局現実を踏まえた安全保障の議論にとって最大の障壁となった。これは左派にとっては望外の成功ではなかったかと思う。もちろん東西冷戦がソ連の崩壊をもって終わり、共産党の支配する中国も毛沢東時代の経済停滞により近隣国にとって大きな軍事的脅威にならなかった幸運の存在がわが国の安全保障に関する重要な議論をまるで歌舞伎にあるお決まりの形式対立化させていったと考えればこの国の安全保障にかかわる議論が外殻だけの硬直化したものであったこともそれはそれで理解できるような気がする。

 しかし、それはわが国として安全保障についての国内コンセンサスを構築する機会を逃すことになったともいえるわけで、結局のところ1990年半ばまでは実質的に空白期であったといえるのではないか。

 要するにわが国の安全保障のベースラインは信じがたいことではあるが、当時の日本社会党を中心とする左派勢力のソ連や中華人民共和国あるいは北朝鮮に対する認識が主導し規定したも同然であって、近隣国に対する無防備で大甘な認識はそのあたりを発生源としているのではないかと思う。

◇ さて21世紀に入ってからの中国の経済発展には目を見張るものがあったが、同時に中国政府の自信も年々高まるなかで、国力に応じた国際社会での処遇を希求するようになったことは自然な流れであったといえる。しかし問題は、自然な流れをこえた極端な国家自意識の膨張と国際規範からの逸脱といったおおよそ大人(たいじん)らしからぬむしろ無法者に近いふるまいに見られる何かしら異質で不快な国家の態度が、それが多少子供じみた承認欲求から生じるものなのかあるいはもっとやっかいな本質に由来するものなのか判定困難な状況に今もあるということである。ほんとうに悩ましいかぎりである。

 とくに習体制になってからの変わりようは周囲に恐怖心を覚えさせるほどの強烈なもので、何かしらX的なよくわからないものが醸す恐怖放射体の様相を呈している。

 端的にいえばこれまでは張り子の覇権主義であったのが本物、本気の覇権主義に変貌してしまったのである。強いていえば中国は習体制によって自己認識の変革をなしとげたといえるのではないか。超大国として近いうちに米国をも凌駕し世界のリーダーとしてとくに途上国から絶大な支持をえる大中華の実現は歴代王朝が成し遂げることのできなかった偉業であると、まあそう夢想するのは自由であるが。

 しかし、国家自意識の膨張が全能感をたぎらせ不測の行動におよぶことがあっては一大事である。また国際規範からの逸脱が国家間紛争を引き起こすものになってはならない。のであるが、現実は石油缶のそばで火を焚くという状況に似て「危険だというならおまえたちが退けばいいのだ」という姿勢に国家指導層の本音があらわれているのではないかと香港問題を陪証としながらとくに先進諸国では疑念がひろがっている。

◇ 戦争を避けるために戦争に備えることの本質は政治的団結と決意である。考えてみれば矛盾をふくむ決意となるが歴史に学ぶならば当面これがベストチョイスであろう。チェンバレンの対独宥和政策がヒトラーにポーランド侵攻を決断させたように現状下における安全保障上の対中宥和政策はおそらく台湾有事を誘引するであろう。

(ただし台湾有事という用語については注意深く用いるべきで、武力行使あるいはそれにいたる緊張状態を有事と解釈すれば十分起こりうることではある。しかし、いわゆる台湾島侵攻がありうるのかについては安易に議論すべきではない。要は海峡の両岸が一つの中国を主張しているかぎり本質的緊張は解消されない。さりとて二つの中国もありえない。もし台北がそういえば独立宣言であり北京がいえば放棄すなわち独立容認となる。つまり選択してはいけない禁忌事項である。ありうべき姿を問われれば実存的共存としかいえない。平和裏に二島嶼の処分ができれば平和の海峡が実現する可能性がでてくるが現状のままだと地政学上の条件が整うことはないだろう。)

 要するにいずれの側にも間違った判断をさせてはならないのである。だから緊張下のあいまいさは現状維持の良策であり値千金である。いいかえれば霧が晴れれば軍は動くあるいは動きたがるので悲劇の幕が開くことになる。であるから霧が晴れてはならない、すくなくとも軍がいる間はということである。

◇ ここで対応を間違えれば巨大な軍事国家が誕生しその被害は中国人民におおいかぶさるであろう。また対外冒険主義に成功の味を覚えさせればそれは際限のない対外侵攻を許し取り返しのつかない事態となるであろう。場合によっては米国をして西太平洋からの撤退をも決断させることになるであろう。

 わが国の苦い経験からもいえることであるが内政のために外征を講ずることの愚かさ、真実を隠蔽した報道、世論の封殺と圧政などある種の条件は十二分にそろっているといえる。もし新疆ウイグルでの人権侵害を指弾するのであれば一衣帯水の諸国にも同様の危険が迫っていることをも視野に入れるべきである。 

 あまりにも大げさであると反論する向きには、ではそうはならない確証はあるのか、また中華人民共和国の何を信用するのかと問いたい。とくに香港についての約束は守られたのか。それはまさに信頼に値するのかという問いかけにつながり、さらにその根拠はと問いつづければとどのつまり非民主主義国の本質にかかわる議論を誘発することになり、その国にとってある意味耐えがたい展開となるであろう。

 ゆるやかな包囲網による○○○○を図るのは作戦としてありうるが結局権力首座のありようを衝くことになれば何が起こるかわからない。バイプレーヤーのわが国には想像できないオペレーションをチームバイデンはすでに掌中にしているのか。机上の思考であったとしてもいずれにせよ重大事態であろう。

◇ 米中いたばさみ論が盛んではあるが、それはある時代のトラウマからくる被害感情にほかならない。米中デカップリングは机上の空論でありおよそ実行不可能であることは周知の事実である。また規制すべき戦略分野はすでに絞りこまれている。

 全品目やサービスを規制対象にしたのではさすがの米国といえどももつはずがない。つまり戦略的選択が必要なわけで日用品は国民生活に直結するから関係しない。ただ長期トレンドでいえば緩いペースで内作化が進むかも知れない。しかし製品の競争力を考えれば強引なことはできまい。

 また同盟重視の旗印との整合性も無視できず、一方的な自国主義は全体戦略を傷つけることから、そこはバイデンのジレンマと呼ばれることになるだろう。

 トランプほどの急ぎ足は転倒の危険があるので避けるだろうが牛よりは速い歩みを目指すのではないか。

 企業としていたばさみを心配するよりも人権問題などへの基本姿勢を改めて整理することのほうが重要ではないか。たしかに欧米、とくに欧州系の企業のいい草にはすくなからず偽善を感じるがそうはいってもそれには反対できないではないか。

 世界企業に求められるのは人権基準、安全基準、環境基準であり利益追求モロだしは通用しない。中国企業への圧力はその3点から始まるであろうから紛れないためにも企業活動の理念を明確にする必要がある。おそらく倫理基準が最終的に取りざたされ社会貢献性が問われることになると思われるが大体が欧州系企業の生き残り戦略であるからうまく対応するしかない。

 焦点は中国政府の対応である。基本は相対相応主義でやられたらやり返すということで中国政府の担当部門が理不尽な対応を始めたならばどうするのかあらかじめ対策を準備する必要がある。一罰百戒が伝統的手法であるからいじめられる企業がでてくるかも知れない。この場合旗幟鮮明に対応することがベストであるので政府は特別に支援すべきである。すべての企業をいじめることはできない。つまり中国政府にも対応に限界があるし雇用問題もある。

 在中国外国籍企業としてまとまることが大切であろう。恣意的にスパイ罪で引っ張る国柄であるから用心が必要であるが、今始まっている事態は中国政府にとってもリスクぶくみでいままでの理不尽な手法が通用するのか、正直見ものである。事態は中国にとって厳しいほうに振れたのである。場合によっては共産党による統治構造の修正が必要になるかもしれない、というほど中国にとっても厳しい事態となっている。従前の手法に走ればさらに厳しさを増すであろう。経営者にも団結と決意が求められるのではないか。相手よりも一日だけながく団結を守ればいいのだが、これがとっても難しいのである。

◇花粉去り黄砂に焼ける燧灘(ひうちなだ)

(私事、転居のため一月半欠稿となりました。古希すぎての引っ越しはそれなりの負荷でしたが、ウイルスに追われるよう芦屋に帰ってきたのに阪神間も油断ならないことに。落ち着きしだい掲載をつづけます。)

  

加藤敏幸