遅牛早牛
時事雑考「2021年5月のあれこれ、妄想からの離脱」
よくわからない内閣支持率だけど、不支持率の高さは危ないよ
◇ 「そりゃ下がるさ」、内閣支持率のことである。あってもなくてもいいレベルをゼロとすれば、いまの政権はマイナスつまり「なくてもいい」から「ない方がいい」に大きく傾いている。不支持率から支持率を引いた数字が政権自体のマイナス度をしめすと考えるなら、政権支持はいま水面下にある。要するにスガ政権でなければとは思われていないのである。
マイナス評価に傾いた原因は感染症対策の不手際であって、これほどわかりやすい失敗例は昨今珍しい。明らかな失政であるが問題は国民の失望感が不安感に変わることである。期待があるから失望が生まれるのであって、期待することがなければ失望もない、それは無関心の世界である。しかし無関心ではいられない事態がおこっている。ほとんどの人がわが身に累がおよぶという不都合な日常がつづいているのである。その不都合なるものの過半が政治の世界からやってきている、いってみれば政治家のご都合主義が原因ではないかと、だからジツニケシカランと思っているのである。
ケシカランはともかく、これからさき大丈夫かと心配になる。なんとなく悪いほうに流れていく感じが不安をまねいている。
パンデミックで思いしる国力・知力の低下、とまらない負の連鎖
◇ 「ずいぶんと堕ちた」と思う。包んでいえば国力なんだろうが、行政もこんなはずではなかったろうに、だれかれが悪いサボっているといったことではなく、医療もふくめ仕組みがまずいのだろうか。人々のおぼろげな感覚が時として的を射ている。良くない、いやそうとう悪いと感じていることが現実なのであろう。
そもそも政治が上流から案配よく流れを差配していると考えるのは単純すぎないか。現状は流れを差配できているようには思えない。考えれば政治はいつも下流で後始末の手腕を誇っているだけである。だから後始末が要らないほどの手際の良さで何事も早め早めに手をうつといったことを期待するのはひょっとして過剰なことかもしれない。あるいは無いものねだりにあたるのか。
しかし、パンデミック下にあっては何事にも早め早めの対応が求められる。また、生き死ににかかわることなので人々は緊迫感のなかで感受性を高めている。にもかかわらず、「例年インフルエンザで亡くなる方が一万人ほどおられるが、それが新型コロナウイルス感染症のためか激減している」ことを不用意にアナウンスすれば「あわせて年間を通しての死者数はあまり変わらない」といったゆがんだ現状肯定を強要する文脈に道を開くことになる。それでなくとも積み上がる死者数への感性は摩耗していくのだから社会全体としては意図的に高い緊張を維持する必要がある。そしてそのことを為政者は率先してしめさなければならない。ところが口先はともかく態度、行動において不徹底である。
なにげないあるいはふとした慣れが感染防御水準を下げる。自粛を要請しながら範を破りステーキハウスに行ったり大勢で送別会を開いたりまた政治パーティに駆けつけたりとか、せっかく人々が苦労しながら全身で支えている緊張をわざわざ崩してどうするつもりなのか、とてもパンデミックを迎えうつ態勢とは思えない。
大事なことは政治家まかせにしないという流れが出てくるのか
◇ 専制政治は上流で流れを自分につごうよく差配し、民主政治は下流でもろもろ後始末に精をだす。昔から川の管理は村人の仕事でこれを領主や役人にまかせるとたびたびひどい目に遭う。領主様の屋敷は高い土地と決まっているではないか。だから切迫感がなく、人ごとなのである。
大事なことを政治家にまかせるからひどい目に遭うのだ。だから「おまかせ」もほどほどにしなければという気づきがあるのかないのか。気づいてもなにもしなければなにも変わらない。今はそういった潮目にあると思う。
◇ ひょっとすると政治意識に構造変化が起こるかもしれない、という感覚が8年ぶりによみがえる。アベスガニカイ時代に脂っこい食事がすぎたのか動脈硬化症がかなりすすんだようで息づかいも苦しそうである。
だからなのかなにげに「岸田がんばれ」というフレーズが浮かんでくるのだが、えっどうして参議院補選広島選挙区で鼎(かなえ)の軽重を問われ今度の総裁選では消えたといわれている人が浮上するの。うーん、それは見えない世論が進路は中道、地味でいいからまっとうな政治を取りもどせといっているもようで、心霊現象などではなくきっと民意の啓示ではないか?ここまでいうと今回も妄想に近いか。
いつまでも福袋にはいっていては、どうもならんよ
◇ ところで立憲民主党の枝野代表が自分は保守だと強くアッピールしていると聞く。「わたし待つわ、いつまでも待つわ」と待っている人がいるのかはともかく、本気で政権を考えるのであれば進路は右であろう。
ところで、「共産党は中国だけでもうたくさん」というのは一種のぬれ衣なんだろうが、そうはいってもぬれ衣であることを明らかにするのは日本共産党の仕事でしょう、とは市井の声であろう。中国共産党に親しみを感じる有権者がどのくらいいるのかを考えれば選挙でのあつかいは自ずから明らかであろう。「あれこれいっても共産党に変わりはないでしょう」というフレーズが選挙戦での決めセリフになるようでは困る、それでは中身の議論が抜けてしまうから。
といってもその中身がよくわからないのも問題ではある。
さらに米中対立が激化すればするほど宣伝戦も激しくなるから思いがけないとばっちりがくるかもしれない。ということで名前だけ一緒というのは気の毒である。それとも名前のほかになにか共通するものがあるのか、ここは立ちどまって考える必要がありそうだ。
まさか敵の敵は味方というだけで選挙協力をするわけではないと思うが、ともかく野党第一党たるもの手をくむ相手についてはよく考えるべきで、わけても政権奪取を目指す場合には歴史観などにも思いをはせるべきではないか。もちろん議席拡大だけに特化するのであれば論評することもないと思うが。
選挙制度が自公協力をもたらせている
◇ 野党が選挙区を中心に選挙協力を押しすすめることは与野党の力関係をみればやむをえないといえるだろう。
(ふりかえってみれば)1994年に衆議院の選挙制度はそれまでの中選挙区制から小選挙区プラス比例ブロック区制へと大きく変更され、きめ細かく民意を反映させることよりも民意を集約させるいわば政権交代が起こりやすい方式が選択された。その結果衆議院選では得票率以上に議席獲得率が高くなる第一党への傾斜が強まり単独過半数確保が容易になったが、参議院での過半数確保が選挙時期もふくめ単独では難しい現状をふまえ参議院での過半数確保のために連立を組むことが常態化している。要約すれば、衆議院第一党からみて両院での単独過半数獲得はかんたんではない、また衆院で単独過半数を確保しても参院では伯仲ないし少数与党ということが多々おこりえる、さらに政権への逆風が強まれば衆院伯仲ないし少数与党で参院単独過半数維持という下り坂現象にくわえ、両院で少数与党ということもないとはいえない。といった組みあわせのなかで政治の安定性が強く求められることからほとんどのケースにおいて連立政権が重要な課題となるが、連立協議をめぐり事前に政策協議と選挙協力を経る事前方式と選挙結果から過半数を呼び寄せる事後方式が考えられるが、現在の自公政権は事前方式でありその全面的な選挙協力は他に例をみない強力なものとなっている。
この自公体制はとくだんの理由のないかぎり解消されることのないものと広く受けとめられている。(ふりかえりはここで終わり)
野党の協力関係は再定義が必要ではないか
◇ さて、これに対する野党サイドは右派系野党と左派系野党の親和力がきわめて低く、とても連立協議がまとまる状況にはない。ということから野党第一党としてはゆるやかであっても全野党をつなぐ「ゆるやか方式」と左右いずれかにしぼる「しぼりこみ方式」が考えられるが、議論の曲折はおき勝手にいわせてもらえば「あいまい方式」になる公算が強いと思う。根拠はしぼりこむ気持ちがあるならすでにそうなっているだろうというだけのことで、しぼりこめないから今こうなっているのが真相ではないか。ここのくだりはこうあるべき論ではなくこうなる論での話である。
よく玉虫色と表現される。これは玉虫の作戦であって立ち位置で見え方が変わるつまり見るがわに責任を転嫁している。またヌエ的ともいわれるが、ヌエはその正体がはっきりしないつまりヌエ自身が不明なのである。ヌエなのか玉虫なのか。いずれにしてもその色も姿も定まらないから評価不能なのである。評価不能なるものへ信頼を寄せることはできないから支持の低迷は避けられない。ということでそろそろ海のものか山のものかぐらいはということではないか。野党の話である。
◇ ところで、状況を変えるためには決断が必要であり、決めれば状況は変わるのである。であるのにそうしないのは責任回避のためと勘ぐるむきもあるだろう。また優柔不断というより責任恐怖症ではないかとも。有権者はあんがいそこを見抜いているように思える。そうとうにヌエ的で、やけに自民党に似てきたと思う。ということで立憲民主党もいよいよ「成党」となったのであろうか。支援団体もあお虫でもさなぎでもない「成党」を相手にしている現実、たとえば暖簾に腕押しにちかい状態を直視しないといつまでも振りまわされるだけではないだろうか。まあヌエはヌエなんだから強くいってすむ問題ではない。
政治ばなれではない政権ばなれである、ちょっと微妙だが
◇ 心霊現象などではなくリアルに政権ばなれがそれも離れるだけではなく否定感をふくむ対抗現象としてあらわれはじめているのだから普通にいえば政権交代の気運が雨上がりの山裾がにわかに明るさを増すようにふくらんでくるはずなのだが、残念ながらまだ山の向こう側にとどまっているように思える。
来るはずのチャンスがなかなかやってこないのは、自らを政治上の右、左とは考えていない中間層、あるいはどちらかというと支持政党なし層、また従来からの中道層が内心いだいている規定点数に野党がまだ達していないつまりゼロエントリー状態にあるからであって、端的にいえば野党が規定点数に達すれば事態は大きく動くと思われる。
そこで野党それぞれがどうすれば規定点数に達するのかというここでの議論のミソは評価者を中間層とすること、つまり既存の支持層からの評価からはなれることである。もっといえばてっぱんといわれている支持層の存在をゼロクリアして、思索対象を中間層に絞りこみそのうえでどういう政治方針や政策が求められているのか、と一から考えはじめればいいのではという提案である。
もちろん現に選挙があるので既存の支持層から離れることはたとえ思考実験だとしても至難のことと思えるが、新しいマーケットを目の前にして古きを温めてどうするのか。新しきを知ることがいやであるならあるいは怖いと感じるのならさっさと古巣にもどり二度と天下を臨まなければいいのだ。
ここ数年、このコラムで述べてきたことは社会的存在としての中間層、政治路線での中道層の支持なくして政権交代は不可能であること、逆にいえば中間層中道層の支持を糾合すれば現下の野党であっても政権獲得が可能であることにつきる。わが国はそういう国がらであり、これはいいわるいの議論の外のことである。
感染症を制することなしに権力を語ることは無駄である
◇ 各国の感染者数と死亡者数の推移図をしめし、わが国のはまだ「さざ波」程度であるというのは一つの表現ではある。しかし国民の大多数はさざ波程度とは思っていないから、政治、行政サイドからの偉そうで情のない口吻(こうふん)にはおおいに気をわるくするに違いない。ここで「さざ波」と発信した本人を「かの氏」と表すが、その意は素材として使いたいだけのこと。(余談だが、炎上して困ることはない、炎上すればするほどネット上の価値があがるから意図的なものも多い。変な時代である。)
さて、かの氏の理屈は「周りを見ろ、大火事だろう。それにくらべればうちのはボヤではないか、騒ぐな。」ということか。つまり、騒ぐのは本格的な火事になってからといいたいのかもしれないが、しかし世間ではボヤのうちに騒がないと手遅れになることが多いということで、ここに大変なギャップがある。波にたとえたのは勝手ではあるが的確とはいえない。
問題はオリンピック・パラリンピック東京大会の中止とかの段階ではないという主張にある。この主張が俎上にあげられるためには、ではどのような段階であれば中止の議論をしていいのかという質問に明確な基準をしめす必要があるのであって、それをしめさずに単にさざ波だから中止などという野暮な議論はやるべきではない、というのは説明不足もはなはだしいと思うし、まして笑笑は失礼である。
説明不足というのは不足しているだけで、論として間違っているということではない。間違っているかどうかは未決である。したがって、客観的な状況把握なしに情緒的な(オリパラ東京大会)反対論がだれかによって醸成されるのは大いに問題であるという主張であるならそれはそれで理解できる。そのうえで、中止を判断する場合の基準あるいは決行する大義とはなにか、またそれは国民参加の場で議論されるべきものかについて、かの氏のご見解をぜひ聞いてみたいと思うのだが、本来は官房長官が答えるべきものである。(かの氏はこの24日に辞任したようだが)
もちろん、ボヤが大火事になるのではという国民多数の不安の解消が先ではある。政権としていずれ開催についてなにかを語らなければならない。
禍福はあざなえる縄のごとし
◇ 歴史にイフはない。が思索にイフはつきものである。だからもし東京が開催都市に選ばれていなかったなら感染症対策はどんな風に展開されていたであろうか、やや早いかもしれないが、という架空の設問が浮かんでくる。ほとんど変わらないというもよし、大きく違っていたというもよし、いずれにしても現実は変わらない。ゆえにカゲロウよりもはかない思索ではあるが試行セットの一つに付けくわえても不都合にはならないだろう。
空想ではあるが昨年2020年の1月にタイムトリップしそこでオリンピック・パラリンピック東京大会の不存在を条件として設定してみればとうぜん目にはいる景色はおおいに変わってくるのではないか。もちろん国威、経済そして政権浮揚としての東京大会がなければ時の宰相は感染症対策に政権のすべてまた自らの政治生命をかけたことはまちがいないと思われるし、政略家としておおいに力を振るったものと思われる。(下線2021.6.29追記)
さらに東京大会の一年延期が中止であったならもう少し重心の低い対策を講じることになっていたかもしれない。これ以上かもしれないかもしれないを重ねるわけにはいかないので文切りにするが、2020年から政権に漂いはじめ今日なおつづいている焦慮の原因が何であるのかほとんど自明となっているが、批判や批難ではなく歴史が紡ぐ皮肉あるいは禍福の因果現象として捉えてみたいというのが偽らざるところである。
栄光と挫折、それが国家にもおこりえるドラマとして冷静に顧みられる日はまだまだ遠いのかもしれないが、権力者においても絶頂にあるときほどつま先だって歩くべしとの古人の教えをあらためて噛みしめたいものである。
正直いってオリンピック・パラリンピックだけなら背負えたであろう。しかしパンデミックと重なってはどうにもならない。栄光の大会誘致が政治の活力を封殺してしまったのではないかとしかいえないのが残念なところである。
追悼と反省
◇ 感染症で命を落とされた12407人(24日20時)の方々のご無念とご遺族の悲しみにどう応えていくのか、さらに悲報はつづくと思われるなかで、タイムトリップまで持ちだしての奇論の展開は筆者なりのせめてもの追悼心の表明ではあるのだが、奇論についてはご容赦願いたい。それにしても気の重いことには変わりない。また事態を少し日常化しすぎたのではないかと反省している。あらためて亡くなられた皆様へ哀悼の意を表すとともにご遺族にたいし心からお悔やみ申し上げます。
ヨレヨレの経済、年度後半の個人消費の回復に期待
◇ 2021年1-3月期の経済成長率はマイナスとなり通期もヨレヨレの内容となった。予想よりも改善したのは年度後半における感染症対策がそうとうに経済浮揚策に傾いたことによるもので、逆にそれが感染拡大の道をひらいたと思われる。とくに変異型への警戒をおこたったことが悔やまれる。(下線2021.6.29修正)
原因は合理的に存在する。よかれと強行した経済浮揚策が結果としてマイナスを生みだす。またすべての施策に共通する不徹底さは水もれのおそろしさを侮った心癖(こころぐせ)がまねいたものと思うが、今の政府は心棒が外れた独楽の動きに似てフラフラしている。しかしそうであってもワクチン接種は現場の底力でなんとかのりきると思われる。そして秋風が吹くころには収束の気配となり、個人消費の復活が期待される。半年から一年遅れ、これがわが国の客観的な実力値であろう。これは政権選択によるものではなく、わが国の地力であるから、復活させるには時間をかけて仕組みを変えていくほかに手はあるまい。
こくみんと政府が甘えあってどうするの
◇ われわれが経験したこの一年半は、国の制度からはじまり社会や政治のあり方まで多くの問題が見つかりこれからなんとか修復と改造をしなければと思うのだが、それにはすくなくとも20年から30年の歳月が必要でまるまる一世代を費やさなければならない。しかしその要点は簡単なことである。簡単なことほど難しいのだが。
まず、第一はこくみんの自立であり、第二は政府のこくみんからの自立である。こくみんの自立とは「精神」をもつことである。精神とは内なる自分の世界を確立することである。人に合わせてもいいが好き嫌いを決められる自分を育てることである。難しいことではない、好き嫌いぐらいは自分で決めろということである。
もうひとつの、政府のこくみんからの自立とは媚びを売るのもいいかげんにしろということである。こくみんに媚びを売る政府は最後はこくみんを裏切るものと決まっている。異心があるから媚びを売るのである。金がなければないというべきであって、言葉巧みに借金をすすめるものを信用するこくみんに国家をかたる資格はない。金がなくとも共助がありそれは自分たちで作りあげるもので先祖はそうしてきたのだから自分たちにもできるはずである。
あまりにも民主政治に期待しすぎるからそのせいで民主政治が窒息しかかっている。民主政治は打ち出の小槌ではない。負担は命がけのことである。こくみんと政府が甘えあって未来が切りひらけるのか。
◇ その余のことは自在である。必要に応じてやればいいだけのことで応用は千変万化、世界はそのように動いていく。わが国にかぎらずいずれの国も変わらざるをえないのだが、今日と明日は連続してはいるが非連続でもある。この非連続面を見いだすものこそが時代の先駆者である。
(ふろく)
◇ 一年前の本欄2020年5月1日「新型コロナウイルスがもたらす三層構造の災厄」において「まず、有効なワクチンが完成すれば、それは数年間戦略物資となるだろう。理想をいえば、国連あるいはWHOが管理をすべきだと思うが、はたしてどうなるのか、国連が試されることは加盟国が試されることである。
とくに、治療薬とワクチンの生産と分配は重要事項であり、外交の修羅場である。激突する国益をめぐる駆け引きは壮絶で、決して美しいものではなかろう。できれば中立国とか北欧において成功すれば気が楽になるのだが、それはわが国でもいいのだが。」と記したが、いま思えばそうとうにお気楽であった。
その一つは、メッセンジャー型の驚異的な開発スピードであり、在来型で治験に透明性を欠くものの中国の対応の早さである。どの時点からの着手だったのかは興味深いが、それはおきウイルス感染症対策の裾野の広がりと総合力が感じられる。二つは、現在の提供国が仏をのぞく国連常任理事国であり核保有国であることで、わが国はそうではないということである。三つは、パンデミックが変異を加速していることで、予想はしていたが季節性インフルエンザなみに落ちつくまでにはまだまだ波乱があるかもしれない。変異をすこし侮っていた。四つは、貧困国あるいは途上国またアフリカ諸国がもちろん多くの課題をかかえてはいるが予想をこえて健闘しているように思える。逆にインドの惨状が予想外であった。
時に振りかえって自らの思考を反省することも必要であろう。たとえ雑考といえども。
◇ 鵜とサギが海を切りつつ漁を為す
加藤敏幸
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