遅牛早牛

時事雑考 「2021年6月が始まった、なんだか崩れていく統治に不安」

この国の統治に生じているほつれや荷くずれ

◇ とりわけ深刻な事態というわけではない。しかし、緊急事態宣言下にあって人々には政府や自治体からの要請にたいし聞きたくないという気持ちが高まっている。もちろん人さまざまであるから大波のような変化がただちに生じるとは思えないが、それでも要請を無視する人が少しずつ増えているのは気になる。昨年の春から梅雨にかけて人々はおびえるように感染動向を見まもっていたが今ではふてぶてしいわけではないがけっして初々しくはない「手慣れたあつかいぶり」で世紀の災厄をやり過ごそうとしているように見える。

 素直には要請を受けいれたくないといった心情についてはある程度予想されていたが、それはあくまで概念としての予想であって実感としての肌触りをもったものではなかった、だからその実感に直面した今こそ正直衝撃を受けている。

 その衝撃を細かく解いてみてとくに「この国の統治」を揺るがしかねない小さいが大きな「なにか」がチクチクと感じとられどうしても気になってしまう。 

 またぞろ話が飛び跳ねて申しわけないが、この国の統治については日頃からおおむね良しと思っているので話の中心はどうしてもトラックに満載の荷物がどのように崩れていくのかといった感じの「荷くずれ論」になってしまう。いってみれば、荷くずれという微細現象から統治のありようつまり全体を批判しようというミクロtoマクロ談義で、すこしうがち過ぎになるかもしれない。

 さて、この荷くずれはセーターでいえば袖裏のちょっとしたほつれといったものであろうか、しかしちょっとしたとか小さなとかいくら綾をつけてもほつれはほつれ、放っておくと広がっていく、そしてやっかいなことになるかもしれない。とくに荷くずれとなると一旦停車し積みなおしが必要で、一旦停車には覚悟が必要であるが、この覚悟が難しい。

法治国家としての財産は法的土壌、今は食いつぶしているのではないか

◇ わが国は法治国家であるから人々は法令に従う。その法令は厳格な手続きで作られている。また公正な選挙で選ばれた議員からなる国会を唯一の立法機関としている。

 その国会は慣例を重視しながら謹厳に運営されているが、さらに利害関係者や専門家の意見を聞き、審議をつうじて問題の所在を明らかにし法執行における規矩(きく)をしめしている。といった厳格な手続きが人々に遵法のよりどころつまり動機を与えている。これは法の権威的側面といえる。一方法令を守らない場合には事実にもとづき罰を与えるか、あるいは強制することが予定されている。これは法の権力的側面といえる。権威と権力をかねそなえた法令は手作りなので量産されることはない。

 さらに、「悪法も法なり」といいつつ遵法に価値をおく社会風潮もあり、為政者にとって決して悪い土壌ではないむしろ恵まれた環境にあるといえるがこれは一朝一夕にそうなったものではなく評価はさまざまだとしても歴史産物であり遺産であり先人のなみなみならぬ努力によるものといえる。

 それらの遺産総体の恩恵によって現在の与野党をあわせた政治アクターはそこそこの実績を残せることができていると筆者は認識しているのであるが、近年はなにやら怪しげなことになっているのではないか、端的にいえば遺産を食いつくすことに終始しているように思えてならない。先人が築いた政治遺産をどんどん蚕食し糞である政治不信を垂れながしている。これは永田町だけのことではない、法曹界あるいは学会また報道評論の人士においても法的土壌の涵養を軽んじる流れがあるのではと疑っている。

 法的土壌のありがたさとは立法から執行あるいは司法判断などのプロセス全般への信頼が人々のあいだに保たれていることから諸々の問題を集中的にまた効率的にさらに効果的に解決できるという、万民に利益をもたらすところにある。またそれはできることなら守りたいと思うひとびとの心情にも現れているのであって、ある意味空気のようではあるがまことに至宝ともいうべきものであろう。

 それが守ることができないとなると為政者なり立法者としてはどうしてそうなのかとあれこれ細かいことまで反省心を持って振りかえらなければならない。それがそうなっていないつまり政治における反省心の欠如に今日の政治の堕落が見えているともいえる。つまり主権者である人々が法律を履行できないという芳しくない状況が起こった場合は大いにその事情は勘案されなければならないが、それはともかく責められるべきは主権者なのか、為政者なのか、それとも立法者なのかと深く内省しながらことの次第を精密に点検するべきであろう。とくに感染症にかかわる立法と施策についてはその都度都度においてそういった趣旨の議論を深める必要があると思われる。

 そのような重要な議論の場において、本来のまっすぐな思索をおきざりにし、わが国が某国のような専制国家でないから強制できないといった呆けたいい訳なり痴れた解説が流れたりしているが、事の本質は国家体制などではなく為政者、立法者の当事者意識と能力の問題なのである。というのもこの一年半の対応が最善、最良の方策ではないつまりそこまでは求めないとしても、現実目にしたのは口にするのもはばかられるほどの粗悪なしろものであったと多くの国民は思っているのであり、くわえて世界を見わたせばけっして国家体制に起因するとは冗談にも思えないことも周知のことである。だから、何もかも体制やシステムのせいにするなということである。

政治家が言葉を大切にしないかぎり感染症対策への国民の協力はないだろう

◇ パンデミックの渦中にあって日々を苦しみながらしのいでいる人々がさらに行政からお叱りの文書を受けとったり過料を科されたりするのは決してあってあたりまえの景色ではない。しかしそうせざるをえなかった人々の判断にはどういう事情と理屈があるのかなどていねいに推しはかるべきであろう。最近はこういった一桁下の単位で測り直すといったキメの細かさやていねいさが永田町から消えてしまっている。だから仕上がりが悪く売り物にならないのだ。

 また自分のことは切り上げて他人のことは切り捨てる、自分の60センチの魚をメーターものだと平気でいいつのるからおかしくなる。とくにこの10年言葉で事実をねじ曲げていく政治流派によって言葉が実相を失い空虚で論理のタガがゆるんだ「おしゃべり言葉」に堕したのである。つまり言葉と現実との正しい写像関係がバラバラにされ国会では質問と答弁が符合しているようで合っていないおかしな言語空間が作られてしまった、のである。

 言葉と現実がつり合わない、あるいは言葉から魂が抜かれるように正しい意味が抜きとられ、だから引っぱられた現実が逆に宙に浮くそんな言語空間が政治界に築かれた。

 だからなのか、感染症対策においても嘘ではないけれど嘘にまみれた言葉たちは人々の耳には音として聞こえてもさっぱり意味が伝わらないつまり「口パク」と変わらない事態に陥っている。

 これは失語症なんかではない、失意味症である。だからだいじな要請が失意味となり響いてないとそしられるのであろう。

 「統治のほころび」の根っこには政治がつかう言葉への不信がある。それは政治にとって最も大切な言葉を不祥事のいいつくろいのために惜しげもなく大量消費してきたこの20年の沈殿物であり、あたかも重金属が食物連鎖をへて濃縮されそして悲惨な害をなす仕組みに似かよっている。その害がもたらす最大の被害が民主政治の破壊ではないかとひそかに危惧している。

 政治家の言葉が信用できないと人々が感じた瞬間、感染症対策は空気が抜けていく風船のように急速にしぼみ、たとえ妙案であったとしても役にたつことなく消えていく。

 結果としての「統治のほころび」が原因となりさらに「統治のほころび」を広げていくという悪循環が社会や国を摩滅させるのである。政治はすぐれて言葉であり、政策は政治家の言葉で紡がれていく。言葉を大切にすることが感染症対策の第一歩ではないか。

肩すかしを食らう要請とは何なのか?解釈に苦しむのだが

◇ さて、では国とか地方自治体の要請とは何であるのかということになるのだが、例によって論理の飛躍を気にせずにいえば、聞いてもらっているうちが花ということであろう。つまり聞いてもらえなければしおれた花のような無残な姿となり、それは惨めなだけではなく政治そのものの存在意義を部分的にしろ無視されることではなかろうか。

 したがって、今日深刻な事態を回避するためになされる要請がどうして聞き入れられないのか、法と国と個人の関係がずいぶんと成熟していると思われる現在にあって、たとえば総理であれ知事であれ為政者がメディアをとおして大仰ではあるがまともな要請を言明しているにもかかわらず、それへの答礼が大幅な人出増とはどういうことなのか、筆者のような昭和世代にとってはある種理解を超えた事態なのである。

 とくに、感染拡大を抑制し医療体勢を回復させ国民の生命や生活をまた経済を守るためというだれが考えても国民の共通利益に直結する施策への反応がよそよそしく非協力的であるのはどういうことなんだろうという大きな疑問が頭の中をぐるぐると回っているのである。

 単なる無関心なのか、しかし感染は人を選ばず万人におよぶから無関心でいられるはずがないと思うのだが、要請する側の論理は論理として確立しているつまり合理的であるうえに、要請される側の状況も客観的にいえば要請に協力することが最大利益につながるという構造であるにもかかわらず蓋をあければあちこちで人出が増えているのである。このシーンだけをみれば何かしらいたずらゲームのような対応なのだが、それほどの底意地の悪さは感じられない。では厳かにおこなわれている要請は人々にどう受けとめられたのか。これもぐるぐると頭のなかを回っているのである。

要請が放つ「逃げ臭」に足元を見透かされたか、強い法制の方がすっきりした

◇ 一段強度を落とした要請からはじめるという行政技術としては何かしら高等なようではあるが、状況によってはまともに受けとめられずにスルーされ無残な結果になるという今回の体験からなにを学ぶべきかが新たな課題となった。

 そこで要請をはさんで統治者と非統治者が対峙する模擬構造を仮定し両者の関係を今すこしつづれば、要請がお願いベースといった曖昧なニュアンスをふくんでいることが要請される側に一拍の逡巡を生み、したがうべきかしたがわざるべきかという葛藤の隙間が生じたと考えられる。しかし為政者としては人々には自主的な判断の上で100パーセントしたがって欲しいと思っているのだろうが、切迫した問題は要請受け入れが生活破綻となるケースにおいてはとうぜん生存権を盾に要請拒否となることはやむを得ないといえる。

 そこで生存権と公衆衛生にかかわる公益との激しいつばぜり合いをあらかじめ調整すべき任務は為政者と立法府にあるのだからそれを個人の判断に丸投げする要請方式はもともと欠陥を内在しているから、先ほどのように多くのケースにおいてトラブル化しやすくさらに長引くと手がつけられないことになる。詰めていえば要請だけでは無理であり、不徹底な状況をまねくことになる。という意味で施策執行上大きなリスクがある、いやあったといえる。

 とりあえずビールでとばかりに法的にソフトな要請からという逐次投入に似た状況後追い型の戦術は多くの場合勝敗を決めきれず結果投下資源を無駄にすることが多い。政治家が決意を示さないのに人々の協力がえられるものであろうかという初歩的な疑問の答えはすでにしめされたのである、残念ながら決意の足元をみられる形で。それが昨年末からの感染拡大ではなかったか。もちろんGO TO ○○という政治ではなく商売に軸足をおいた施策への懐疑と嫌悪も非協力への気分を支えていたようであるが。

仏の顔も要請も三度まで、受けいれられなければ施策は失速する

◇ 仏の顔も三度までとは今では古い表現になっているが、人々の心底にふれる秀逸な表現だと思う。つまり第三次緊急事態宣言の延長は事実上4回目といえることから人心は「いい加減にしろ」と怨嗟をふくみはじめたという意味で三度までとはあたっているといえる。ポイントは3回まではがまんしたのであって、だから4回目は許せないとなるのであろう。

 したがって要請も三度までが限界であって、これ以上のことには法令の権力的側面を前にださざるをえない。権力的側面をだすとは政治が全責任を負うことである。安易に国民の規範意識にただ乗りするのではなく、政治の責任において厳格な基準を提示しできる限り公正な運用を図るという本来の役割をしっかり果たすべきであったのではないか。それをすっかり忘れて場あたりの安易な判断に走ったことがコロナ禍においては他国では政府への信頼が高まるケースが多いというのに逆に政治不信を呼び込んでしまって、国全体を不公平、不公正な現場に仕たてあげてしまった。

 先憂後楽であるべきがはじめに楽した分大きなツケをつくったということである。

 また一度くずれた統治を立てなおすのはとても難しく立てなおし作業自体があらたな混乱を生むリスクも大きい。つまり要請が聞きいれられない事態の発生がすべてをぶち壊しに導き、それならはじめから強力な法的措置をとる体制にしておけば良かったではないかと批難の声に変わっていくのである。

 つまり要請は無効化しその施策は失速し政治の権威は地に堕ちるのである。同時に緊急事態宣言による効果も虫食いになろうとしている。ここで最悪なのは要請を無視した飲食店に客が列をなし、大きな収益が見込まれることで、遵法店は一時的に裏切られるのである。正直者が馬鹿をみる事態がなにを招くのかという立法者がもっとも注意を払わなければならない急所についてどのような事前分析がなされていたのか。

 そして正直者が馬鹿をみた事実がもたらす後世の災禍について立法者にたいし強く指摘したい、政府はどちらかといえば正直者が馬鹿をみる事態を作ってしまうものなんだからそれを防止するのが国会の役目でしょうと。これは与野党の別なくいえることではないか。

大事は些事からはじまる

 袖裏のほころびやトラックの荷くずれなど小さなことが気になるのは杉下右京、エルキュール・ポアロ、刑事コロンボだけではない。世の安寧を願う者にとって明日の世を揺るがす重大事はいずれも些事からはじまっているのだから油断できない。

公平公正が担保できてないから人々は受けいれない

◇ 正当な手続きを経て成立した法令であれば無条件で法的権威を獲得できるのかといえば必ずしもそうではない。あたりまえのことではあるが評価は内容しだいである。また根拠が問われる。今回は感染症であるから医学疫学あるいはウイルス学によるいわゆる科学的根拠が必要であったのだが、残念ながら的確な説明はなかった。GO TO ○○をやって良い理由も説明されなかったし、逆に人流抑制の根拠もその効果もしめされなかった。PCR検査を何のためにどの程度やれば適切なのかについても未だに納得できていない。

 困った世帯への30万円より早く全国民へ10万円を配ることのどこが正しいのか未だにわからない。10兆円近くが不要給付ではないか、大借金国家がやることだろうか。すくなくとも公平公正基準の議論が抜け落ちている。筆者は当時「なんでキシダ(氏)はもっとがんばらないのか」と思ったのだがパンデミックに名を借りた究極のばらまきに負けたということか。すくなくとも課税所得にすべきであった。

 さらに居酒屋がウイルスの温床なのか、酒類の提供の有無が感染にどういった影響を与えるのか、人流抑制に百貨店の高級品売り場閉鎖がどの程度寄与するのか。理不尽というより検証不足が人々の疑念をかき立てていると思われる。何のためにがあいまいすぎる。などなど納得できないことだらけでせっかくの遵法心もヒビだらけになっている。良質の法的土壌や国民の規範意識の上にあぐらをかき、根拠なき楽観主義や期待感による意志決定、その場しのぎのいいつくろいなどいいかげん食傷している。

 しかし、人々はなお寛容である。統治者と被統治者とが対峙したとき統治者は求められているものを与えなければ被統治者に罰せられるのである。どんな罰なのか今はわからない。どんな政治体制であれ使命を逸脱した統治者はいつの日にか罰せられる。もともと統治の基本構造はポピュリズムである。今大切なのは統治側の理屈ではなく非統治側の理屈で与えるべきものを見いださなければならない。

 でなければ「本当にダメだね、馬鹿馬鹿しくなるさ。そのうえ五輪問題が乗っかってくるのだから、もう嫌になっちゃう、おまけに梅雨が長引きそうでうっとうしさも半端じゃねえよと向かいのホームのおじさんがうだっていた、なにかしらわが国が大切なものをどんどん失っていく2021年6月の昼下がりの光景」が統治者にとって悪夢となるだろう。些事が重大事変を呼びよせる。

ワクチン接種が事態を好転させるだろうが、臨機無能は消えないだろう

◇ まずはワクチン、てんやわんやではあったがワクチン接種がようやく軌道にのりはじめた。変異株の反撃がないかぎり秋口には収束のめどがたつと思われる。またワクチン接種済みであれば行動規制が緩和されることから消費活動も次第に活発化するであろう。黒雲は去りつつある。

 しかし完全に元には戻らないだろう。とくに高齢者にとって閉じこもり生活も悪くはない、いつでもいけるという担保さえあれば活動規模を縮小してもいいのではないか。煽られるような消費とはとっくにおさらばしているがそれでも不要不急といわれて気づいたこともあった。なんとなくとか見栄の部分は思い切りはしょったり、断捨離ではないが生活のダウンサイジングを考えてみようか。あくまで質にこだわって気候変動やSDGsを視野に入れればすこし違った道すじがあるかもしれない。と団塊の連中はつぶやいている。それにしても俊敏に対処した自治体も少なくないことから人々の目には政府や知事の臨機無能ぶりが記憶に深く刻まれると思う。

◇大雨に葉を裏がえす葵かな

 

 

加藤敏幸