遅牛早牛

時事雑考「2021年6月はあわただしく難しいものであった」

◇ 2021年6月はあわただしく師走のように駈けていく。身の回りでいえばワクチン接種が一番、都会地では宣言解除、それから内心トホホと思いながらもオリンピック・パラリンピック東京大会(オリ・パラ東京大会)関連とあいかわらず刺激臭のある話題にことかかない。

 ほかに国際ものではなんといってもG7。イギリスのコーンウォールの崖っぷち感がすごくマッチしていて快感すら覚える。で隠れた主役が習氏ときたが、そんなに偉いのかとグチりながら遠慮せずに厄介者あつかいされていると本当のことをいったらどうなるのかしらと、そういえば世界中から愛されていないと自覚だけはしているようで、でも「そりゃ遅いぜ」だよね、友達のいない国がお金で友達を増やそうとしているが嫌われている原因はなんだろうか。世界の七不思議とはいわないがバイデン政権はそこを衝いている。

 国会閉幕から都議選、オリ・パラ東京大会そして自民総裁選、総選挙と重たいテーマがつづく。さて気がつけば今年もすでに半折、残りの心配事は猛暑に台風に変異型でしょう。それと都知事の体調も気になる。

客の寄らない小屋になってしまった「国会」、与野党有志で再建せにゃならん

◇ 「何をいったって聞きゃしねぇんだからしょうがねえや」と親父が息子をグチるのが落語の世界。いまでは国会閉会時の世間の感想であろう。それでも150日間、土日祝は休みでも「まことにお疲れさま」といいたい。何が疲れるのか、聞くほうも答えるほうも同じことの繰り返し、これが一番堪(こた)えるだろう。半端じゃないリフレーン、それでも滅入らないところがすごい。そのかわり国民が滅入っている。

 そこをメディアがつつき、あれこれいちゃもんをつけているが、これもまた変わり映えしないワンパターンないいまわしで「またかよ」と思うのだが、変わり映えしなくとも好みの芸風だとすこしは我慢できそうなのに、失礼ながらコンマ何秒か遅れての突っ込みが気になる、そう感じるのはわが身を映しこんでの共感反応かもしれない。

 さて、政治評論家の今風は官邸のお友達兼代理人に間違いはなかろう。これはアベ時代から生まれたようで二十年前にはなかった芸である。同業者のやっかみもあると思うがそれでも日々悪びれもせずに励んでおられるのは実にエライ。近ごろの報道やバラエティ番組には欠かせない存在になっている。先駆的であったがただ尊敬されることはないようだ。《じゃだれが尊敬されてんだ。そもそも尊敬なんてあるのかこの業界に。昔からいった者書いた者勝ちなんだよ。》と件(くだん)の評論家がいうことはないが明治の世から報道業界の商業主義は変わっていない。戦時を煽れば部数が拡大することを不本意ながら学習してしまったのだが、これを変えられない止められないのが商業主義であろう。

 ともかく国会の議論が迫真のものであれば報道する側も工夫し乗っかってくるだろう、やはり「一寸先は闇」の真剣勝負が常在戦場の核心でしょう。

 「そういえば何日か前に新聞社のチラシが入っていた、値上げである。べつにかまわないが、そのかわり読者の声、識者の意見おまけに歌壇、俳壇のスペースを3倍ぐらいにできないかしら。論壇ではなく分壇か断壇と銘うって、どうでしょうか。」

 

芸能界も政界もひいきの世界、ひいきが過ぎると芸が萎える

◇ 演芸では客筋が大事だが、政治の世界ではどうであろうか。どうもひいきの筋ばっかり強くて芸風などどうでも良さそうである。政治的分断が芸よりもひいきを推すから芸が育たない、ひいきの筋の品定めが甘くなると芸も甘くなる。厳しく対立はするが競争はしない、これでは劣化するばかりでしょう。

 悔しかったら芸で勝負しろというのははるか昔のこと、今では支持率で勝負、らしい。しかしそれって風頼みで風船と同じだわ。時には風に立ち向かってほしいものだが、ポピュリズムを批判しながら風を読むそんな風読人(かぜよみびと)が増えている。それが憲法改正を云々(うんぬん)というから大丈夫かと思う。パンデミック下の感染症対策は憲法改正なしではできないのか、なんか自分たちの思慮不足、能力不足を棚に上げてのいいつくろいに聞こえて仕方がないのだが。

これ以上世襲議員が増えるならくじ引き方式でも導入したら

◇ とりあえずの公募でたまたま手を上げたのが息子さんでした方式がはやっている。一口で世襲といっても事情はさまざまであるからその一点を衝いた批判は朽ちやすい。条件を満たせば立候補できるのだから、文句があるなら出たらといわれそう。なんのかんのいわれても結局選挙で選ばれているのだから。《文句ねえだろう》というのが世襲議員を増産する側の論理であろう。

 政(まつりごと)の任にあたる「人」の部分が世襲化しやすいのはいずれの社会においても同じようである。この傾向に普遍性をみるのか、あるいは合理性を、はたまたこういった政治権力の分掌をどういう機序で原理化できるのかなど、ときどき悩んでいるのだがなかなか手がつかない。

 また、このままいくと事実上の爵位復活になるのではと例の妄想癖がはじまったが、それに対し不謹慎だとんでもないという気分が五割、おもしろそうと思う野次馬気分が三割、残りはそんなヒマがあるのならはやく原稿を仕上げろというのが二割、これってなんだろう。

 御三家のうちアベ家とアソウ家は公爵で決定だなと堂々の憲法書きかえをはじめたが、なんか発展性がなくてつまらない。流れがよどむだけである。

 もともと血統による制限が絶対的に機能していた時代はその反射として絶対差別の時代でもあった。だから格差などでは生ぬるいそれでは役に立たないといって、入り口を完全封鎖し権力体への外部からの浸潤を防いだというがこれは権力の免疫反応であったのかもしれない。今では後援会とか「ケンレン」が内部紛争防止のため世襲への傾向を強めているといえる。最後はまとめやすいということか。まとめやすいのはわかるがその分政治全体がどうなっていくのか、活力を欠くことになるかもしれないと心配するさ。逆に多少活力を欠くぐらいがちょうどいいと思っているグループがいるようで、それでは微温湯の頽廃系になるだろう。

 こういった事象にも、部分最適化が決して全体の最適化を意味しないという、例の合成の誤謬がでてくるのだが、ずいぶん多くの地方議員がうごめきあって国会議員の跡目を争うのだから大変といえば大変であろう。

 この被選挙権のあり様は民主政治にとって根幹をなす仕組みであるのだが世間の関心はきわめて低い。とくにその公正さ公平さの担保については議論はまだまだ未熟で、ようやく男女間の機会均等が話題になっている程度である。

 つまり候補者についての現状はむしろ世襲化もふくめパターン化が進んでいるので普通の人にとってはとても狭き門となっている。形式的には公正公平を装っているが内実は不平等構造の最たるものであろう。面倒なので各論には立ち入らないが国会議員便覧をみれば一目瞭然である。

 ということで国会に、国民議会としての本旨を発揮させようとするなら世襲議員とみられる議席数だけくじ引き選出議員を増やすことを考えればいいと思う。これは世襲議員あるいは世襲的議員を否定する論ではない。

 このくじ引き選出議員については民主政治をささえる意味で筆者は肯定的である。一定の比率の議席がくじ引きで選出されるとなれば何が起こるのか、やってみなければわからないとはいえ、問題は現状よりも良くなるのか悪くなるのか、それは議会だけでなく無関心とか支持なしとかいいながら政治に距離をおく人々にも場合によっては議会を構成しなければならないという機会の確信を与えることが政治参加の意義を根底から考えていく何かしらを生みだすのではないかと期待している。現状のままというのは閉塞気分の過飽和で深呼吸すら許されない石棺に閉じ込められたようなものだから、何でもいい空気くれーと叫ばなければならないのだ。くじ引き選出議員はおそらく新鮮な空気になるだろう。

 

共産党との連立政権構想はデメリットだけが目立つ

◇ 立憲民主党の枝野幸男代表は6月17日、共産党との連立政権は考えていないと連合の会議で明言したと伝えられた。また18日のTBSラジオ番組で共産党と連立政権を作った場合、その政権はすぐに倒れる旨の発言をし同時に共通する政策は連携して実現していくとも語ったらしい。と文章の語尾の切れが悪くみっともないが、この手の発言や報道には政界の不確かさがつきまとうので筆者の気分としては「確定した事実」というあつかいにしたくないのである。まあ癖といわれればその通りで、報道のプロとは違った作法なんだろうと日頃思っている。

 まず、共産党との連立政権への思惑を語るのは自由であるがその可能性を考えれば語る必要があるのかと疑問に思う。連立政権は合計議席数が過半数を超え衆議院での首班指名選挙で勝利することを前提にする話である。確率が低くとも、ということであるがそれにしても無理がある。もともといわずもがなの話で混乱したとは聞いていないがすくなくとも不快に思った支援者も多かろう。損な話ではないか。

 

 でその総選挙であるが、10月21日までが任期であるから、任期満了選挙であるなら10月17日投票が最終ラインである。頭の体操でいえば、10月21日に解散すれば40日以内であるから11月28日投票が理論上の最終ラインということになる。こういった事務手続きの詳細は素人にはわからない、また最終判断は総務省ということで、先走りは禁物である。

総選挙は後ずさり、遅いほど有利と考えはじめたか?

◇ 「選挙はいつ頃と思いますか」と昨年来問われてきたが真顔で「コロナ次第です」と答えてきた。これは今もこれからも変わらない。国民の審判をあおぐ選挙で主権者である有権者の安全安心の確保は必須要件である。選挙日程についても同じことがいえる。だから、ワクチン接種率と日々の感染者数が決定的要因となる。7月中に65歳以上高齢者(3600万)の接種を終了できれば、医療従事者等への接種済みを約500万とすれば後は8500万となるから1日100万回のペースで85日目が10月24日である。12歳未満年少者と接種を希望しない人を考慮すれば10月になれば「接種いきわたり感」がでてくると思われる。またこのペースがキープできれば9月中に接種率80パーセントに達し、日々の感染者数も低位安定の可能性が高くなると予想できる。

 ということで変異株の逆襲がなければ収束宣言も可能となる。だから安全安心をいうなら11月選挙が望ましい。それが可能かどうかは「ようわからんけど」。

解散は総理の専権事項といえばいうほど責任が重くなる

◇ 選挙の日を決める側は有利である。しかし、責任を負う。不適切な日を決め、そのために感染が拡大したならば責任をとらなければならない。従来の解散とは政治的な意味が大いに違うので、まあいい逃れは難しい。となれば極力無責任ゾーンに日程を設定せざるをえない。任期満了による選挙は恣意的に決めたものではないという意味で一番の無責任ゾーンである。さらにワクチン接種率が上がればあがるほど安全性が高まるので可能な限り選挙日程を先送りするのが仕掛ける側の上策である。9月より10月、10月より11月。この策はワクチンの確保にめどがついたときに思いつかれ、地域、職域接種が軌道に乗ったときに確信されたと推察している。

 今日までまことしやかに囁かれてきた解散日程はかくして全部ウソになった。ふりかえれば5月の選挙は野党に有利であった、すくなくとも11月よりも。野党への支持は感染症への不安に強く相関するのだから収束が射程に入ればその時点から野党の勝ちつまり政権におよぶ議席増は視野から消えていく。

観測しているだけではダメで、感想ばかりもダメ。行動の時間ですよ。

◇ ということで立憲と共産との連立なのか連合なのかよくわからないが、いずれにしても俎上に上るべくもなく消えていくであろう。もともとは選挙協力それも共産党から第三の候補を立てられては勝利の方程式が成り立たない、できれば擁立を見送り、投票は反自民反与党でまとめて欲しいという主に立憲側の都合からはじまっているのだから政権云々というレベルのものではない。また当選めあてのご都合主義だ野合だといった批判がでてくることが目に見えているので、共通する政策は連携して実現していくというのも予防線的にとうぜんの流れではある。

 だからなにも変わっていないのである。ただ問題は「わかりました、その代わり何をしていただけるのでしょうか」という代償取引に紛れこんでくる、なにかつまりサムシングXが強力なアレルゲンを含んでいるのではないかという支援者側の疑念から生まれてくるところにあって、これが難物なのである。事の起こりがたとえ単純であったとしても取り巻く人の考えによって事件は複雑化していくというよくあるパターンである。

 だれがどう考えても立憲と共産の交わりは単品主義を超えることはない。単品が数個揃ってもフラッシュやストレートなどの役にはならない。だからたとえば安全保障において2015年の安保法制反対では歩調が揃っていたように見えたが、反対のために揃う歩調は反対だから揃うのであって本質的な同調ではない。連立とか本格的な選挙協力における同調は賛成できることを基本にしなければ前に進むことはできない。18日のTBSラジオ番組での枝野発言はその理(ことわり)を述べたのではないか。たとえ上を向いていても下を向いていてもまた左を向いていても歩む道は変わらない。が、同じ方向を向いているからといっても歩む道が違えばいずれ離れていくわけで、そのときに向いている方向が同じだったからと騒ぎたてても今歩いている道が違うのだから詮ないことではないかといえばいい。

 それにしてもそれだけのことだったんだからもっと早く表明しても良かったのではないかと思う。連合での会合だったと聞くが、昔のよしみでひと言つけくわえれば、覆水盆に返らずといってもこぼれた水とこぼれなかった水があるわけで、こぼれなかった水が甘く、こぼれた水が辛く感じられるのは人情のなせるところであって機略家の好むところではない。また人の上に立つものは吞水家でなければならない、こぼれなかった水を飲み干した後どうするのか。さらに先々を考えれば、もっと大きな盆を用意し多様な水を大量に収めてから大切なことを語っても遅くないのではと思うのだが。

オリ・パラ東京大会は静かに協力を、そもそも論は後回しに

◇ オリンピック・パラリンピック東京大会(オリ・パラ東京大会)の成否を選挙の争点にするのは愚かしい。筆者らは誘致段階から消極的ではあったものの復興とコンパクトを条件にしぶしぶ納得したもので、その後もなにかと疑問を覚えながらことの推移を見まもっているのだが、だからといって失敗して欲しいとはよほどの変わり者でないかぎり思わないであろう。そういうものである。

 

 それに、関係者がどれほど脚色を重ね成功だと大騒ぎをしてみても、この間に起こった悲しみと矛盾は消え去らない。また、大会が盛会であったとしても感染症の犠牲者が生き返ることはない。さらに遺族の悲しみが消え去ることもない。くわえて突発的な不況クレバスに飲み込まれた人びとの苦境はつづく。そして悲しいことではあるが大会開催中も死者が増えていくかもしれない。くわえて世界中でワクチンを求める人びとが減ることはないだろう。いってみれば不平等、格差を痛烈に浮き彫りにした災厄の中の祭典である。追悼と祈りの場であるべきだ。

 一年延期の根拠がよくわからなかった記憶の中で、中止にならなくて良かったという雰囲気があったがこれも闇雲な楽観主義であって「どうして2年でなく1年なのか」との問いには一向に答えがなかったが、すべては決める側の都合であったというのが真相ではなかったか。つぎはぎだらけの論理をぎっこんばったんと回すものだから平仄は乱れにみだれ今日にいたっても整然としない。人智には限界がある。はじまってからもゴタゴタするであろう。「事実は小説よりも奇なり」であるから、いい訳の想定外ではなく本物の想定外が起こるかもしれない。だから、なによりも謙虚でなければと思う。

オリ・パラ東京大会の運営は条件式、条件が変われば結果も変わる

◇ オリ・パラ東京大会の今日的議論は条件式となっている。それは条件によって選択肢が変わるだけのことで信念とか政治価値はこのさい関係がない。条件とは感染者数とその傾向、重症者数そして死者数である。

 いずれの数字も未確定であるから今日おこなう議論はある推定つまり仮の議論である。だから、感染者数が急激に増えればすくなくとも無観客にせざるをえないし、報道エリア内でクラスターが発生すればさらに厳しい行動制限を求めることになる。逆に、開会式2週間後において感染者数がなお漸減しているなら緩和策を求められるかもしれない。臨機応変に対応していくだけのことではないか。

 ここで医療専門家が無観客を提言するのはべつにおかしな話ではない。医療の筋でいえば都市封鎖がもっともな正論であり感染抑制の切り札であることはその通りでだれも否定しない。しかしそれでは別の理由すなわち経済上の理由で不測の事態、悲劇が発生することへの対応はどうすればいいのか。ということから中途半端な施策にならざるをえないということを理解した上での専門家としての献言だったと思っていたが、最終コーナーでの先祖返りなのか、それも悪くはないと思うが今日の状況下で採用されることにはならないだろう。

 推察するに両者の間に推測値に開きがあるのかもしれないが、仮に無観客と決めたとして一月後に感染者数が予想外に落ちつけば必ず有観客でやれたのではないかという声があがり、中にはせっかくの機会を失ったと声を荒げる人もでてくるかもしれない。この世界的な行事が商業主義なくして成立するのかと考えればそれは不可能であって、現実的な配慮は必須であろう。だから今の段階でもし可能性があるなら有観客に挑戦することはあってあたりまえで決して批難されることではない。逆にやれたのにやらなかった不作為の罪は後発のものつまり後からわかるものであるが、もしそうであると指摘された場合の責任は医療専門家が背負うべきものではない。それこそ政治家が背負うべきものである。

 足元である都内の感染者数が千人を超えるようだと状況は一気に厳しくなるだろう。とくに直近でいえば東京の独歩高ともいえる感染者数は不気味であろう。最悪の場合には無観客にするという特約をもっての危険負担(リスクテイキング)であるなら、くれぐれも空気に流されて判断を間違えることのないようにと念を押しながら是認するのが一般的な判断ではないか。

 尾身会長はじめ専門家の提言は提言として受けとめられていると思う。方針がそうならなかったからといって、聞く耳もたずとか見切り発車だと第三者がなじることには違和感を感じる。一部のメディアは対立構造に焦点を当てすぎのように見える。それとも大会が感染拡大の引き金となり空前の政治スキャンダルになると予想しているのか、報道メディアとして想定の幅を広げるのはわからないではないがいささかあざとさが感じられる、あくまで主観であるが。

 ここまできたのである、そもそも論でいえば存続にかかわる論点が多々あるのだがそれは今日の話ではないだろう。あらためてオリ・パラ東京大会が外見上のできばえだけでなく真に人類に英知あるいは希望を感じさせる意義深いものにならんことを祈るのみである。

◇ 波状雲名を呼ばれるや夏至の空 

加藤敏幸