遅牛早牛

時事雑考「2021都議選の結果から今後の政局、総選挙を占う」

◇ 7月4日には都議選の結果を受けさまざまなコメントが賑々しくでまわっているが残念ながらすべてに目を通すことはできないでいる。しかし何かしら潮目が変わる予感もある。例によって妄想的感想を中心に総選挙までの政局に注目しながら雑考をつづる。長引く閉じこもり生活の憂鬱がランラランと解消すればいいのだが。

都議選を最後につかんだ小池知事が奏でるメロディーに注目

◇ 「どこも勝っていない、勝者なき選挙結果」といういい方は勝手なものだと思うが、獲得議席一覧をながめればたしかに平凡な結果である。

 さまざまな「予想」が断続的に披露されてきたが、今回は小池知事の入院報道直後に「都民ファースト有利」と機敏に修正した予想者が高率的中の栄誉に輝き、それを無視した者は大きく外したといえる。

 2017年の都議選では都民ファーストがいきなりの第一党となる大躍進を遂げ小池知事も騎虎の勢いで10月の総選挙に希望の党で臨んだいわゆる小池劇場の記憶が生々しい。そこで、小池氏の影響を肯定的に受けとめる立場と否定的に受けとめる立場の違いが今回の情勢急変にたいする対応つまりグラブさばきに影響を与えたと思われる。親小池と反小池に分かれる独特の政界感情が漂うこの空気感がここ何ヶ月かのわが国の政局の主旋律(メロディー)になるかもしれない。「なる」と断言してもいいのであるが露骨に嫌な顔をされる方々がおられるのでここは忖度的に「かもしれない」と一呼吸おいてみた。しかし事態の重大さは、嫌な顔をされる方々のほうがよりわかっておられるはずで、ひと言でいえば小池劇場はまだ完結していないという不発弾状況こそがこれからの何ヶ月間の政局そのものではなかろうか。

「2017年の希望の党」事件は不発弾?だった

◇ 不発弾といいきってしまうと余計な解釈がまとわりついてきてややこしいのだが、思いきって話を先に進める。よくよく考えれば完全燃焼しなかったこと、回収されなかったこと、条件が整えば爆発すること、その爆発(火薬)の正体がいまだ解明されていないことなどさまざまな疑問が残っている。これらの小さな疑問はどうでもいいといえばいいのだがある人たちにとってはとても重要なことなのである。

 ◇ ということで、まず回収しなかったのはどこかで役立つかもしれないという未必の故意に近いものがあったのではないか。だれとはいわないが。あるいは再発必至とみていたのかもしれない。必ず同じような事態が発生するという見立ては素晴らしい勘によるのだろう、それにしてもそこまで読んでいたとしたら人間離れしている。

 次に完全燃焼(爆発)しなかったというのは与党の認識であって、野党方面では被害は甚大であった。あたりまえのことではあるが爆弾を身近に抱え込んだら被害甚大となる、論より証拠が民進党のその後である。

 さて、条件が整えば爆発するのだから一刻も早く信管を抜く必要があるが、問題はだれが信管を抜くのかであり今のところ見当たらない。近づかなければ作業はできない。いろいろ甘言を弄しながらうまく近づきタイミングをみて信管を外す、どう考えても難しい作業である。この小池不発弾処理が、小池劇場第二幕の見所の一つであろう。

都民ファーストの爆発力はどこから来るのか

◇ つぎに最大のテーマが爆発力の源泉すなわち火薬の正体である。多くの場合不満の蓄積が政治的爆発の原因となるが、今回のは単なる不満だけではなさそうで、つまりそういったときおり出現する政治波動がそのときの政治的不満や怒りだけで引きおこされ広がるとは思えない。既存政党や政治アクターでは吸収しきれないなにかがあるのではないかというのが話の核心であろう。

 また、イデオロギー的にみれば都民ファーストあるいは2017年の希望の党はあきらかに左派系ではない、むしろ非左派という自己認識をもっているようである。そのうえ自民公明の保守的実利主義にたいしては賛成反対といった次元を離れむしろ趣味が合わないといった感覚で距離を置いているように見受けられる、そんなところに集まろうとする目に見えない情動の集合体がどうも火薬の原料のような気がする。

右方面を制圧した自民党は国政選挙に連勝してきたが、左方面はどうなのか

◇ この国の右翼をどのように定義すればいいのかよくわからない。ただ、安倍晋三氏が2012年暮れに復活したが、それまでの不本意な日々をもっぱら右方面の開拓に費やしたことは間違いないだろう。彼自身にどれだけの右翼性があるのかといった議論はさておき、報道事実を注意深く見ていると失意の時代に彼が試みていたことの一つが右方面の開墾であったといえる。それは新田開発、露骨にいえば票田開発で確かにこの後自民党は右側からの支持の鉄板化に成功したといえる。

 細部の分析はおき、これらの右方面開拓は支持基盤全体の安定化をもたらすと同時に余力を左方面にむけることを可能にしたことから組織論的にはもっと評価されるべきである。たとえば春の賃金交渉などへの口先介入は自民党政権としては踏みこみすぎとすくなくとも筆者は思っているが模式図的にいえば左方面への展開には間違いない。

 他方、野党の工夫はどうであったのか、前提として一ついえることは右翼政党は存在しないが(自民党は右翼的ではあるが右翼政党ではない)左翼には最古の政党である日本共産党がそのあたりでは高いシェアをもちまた組織的に活動していることから、開拓開墾というわけにはいかない。

 ただ2017年希望の党から選別されたとして枝野氏が立憲民主党を新たに立ち上げたが、その新党の立ち位置でいえば既存の日本共産党と重なる部分も大きかったことから両党の境界線をどう扱うのかこれは当初からの重要な課題でありえたといえる。つまり両党が今後のこともあわせ紆余曲折を経ながらも候補者の一本化を現実問題として取り扱うのはそれぞれの支持基盤に重なるところつまり共通性があるからで、いいかえれば票の共有化が可能であるとの認識があるから成り立つものと考えられる。逆にいえば票の共有化ができないのに候補者の一本化云々は意味がないといえる。

なぜ都議選の流れが次の総選挙に影響するのか、不思議な空き地論

◇ さてここで改めて首都ではあるが一自治体でしかない東京都の議会選の結果と知事の動向が次の総選挙に多大な影響を与えるがごとき議論を呼び込んでいるのは、論者さまざまではあるが要は政冶領域に広大な空き地が広がっているからであって、その地はかつて鳩山氏小沢氏はじめ有力政治家が割拠していた地域にほかならない。今は涼やかな緑風が梢を揺らせている。まるで無主地に見えるがここを治めるものが天下を臨むのではないかといった三国志演義ではないが興味深い陣取り合戦を多くの人が想像しているというよりも期待している。で、そのストーリーにおいて小池不発弾は重要な役割を果たすのではないか、いや果たして欲しいといった有象無象の願望的な集団期待があたかも星間物質がぐるぐると周回しながら濃密化していくような、まあこれ以上筆は走らないがそういった状況が生まれつつあるといいたい。

 この星間物質の分量は全体の三割程度であろうか。低くて二割、多くて四割これは破壊的比率である。これが火薬の正体であろう。

2017年小池劇場は未完である

◇ 以上の文脈は小池氏がどうのこうのという話だけではなく「これしきの話」であれほどの大事(2017年)になってしまったのは、そのときの時代背景だけではなく人びとがなにか物足りないと感じていた政治状況などがあったからこそ信じがたいほどの誘導電流が流れたわけで、励起した当人もその取り巻きも想定以上の誘導電流のすごさにおそらくは正気を失い「選別」という言葉だけではなく欲ぼけの右派主導に足をとられ高転びしたわけで稚拙な君側の奸の所業として総括されたと思っているのだが詰めれば「これって終わってないでしょう」ということである。未完であったからすっきりしたい気持ちも残っているだろうし期待感もあるだろう。ということで小池劇場第二幕は上演されなければならない。ただ座元はいろいろ考えられるし、今度こそA級のシナリオ作家が必要である。

 話が長くなったが、そういったいわく因縁を考えれば奥が深く広がりもあるので決して目が離せない。ここはややランララン的であるが、だから都議選について意外な結果と騒ぎ立てているのはいわゆる当てが外れた方々の歯ぎしりではないかしら、と思う。

事前調査で脇がゆるんだ自民党に刺さった手裏剣?

◇ まず、自民で50程度自公で過半数超えとの下馬評だが、6月半ばの自民党の独自調査をふまえた期待まじりの予想だったと思う。とうぜん調査には調査時点での真実があるので自民党にとってはひなたぼっこのようないい感じであったと思う。それも一面の真実ではあるが、都議選は都政が第一であるから小池知事との関係こそがファクターとして大きいと考えるべきで、そのことをあらためて思いしらされたのが突然の知事入院であったと思う。もちろん疲労困憊は事実であろう。また切れそうな感じで支援者をやきもきさせた「小池・都民ファースト」関係も投票前日の電撃行動であっという間に疑念が払拭され、逆に支援者を奮い立たせた。一時は一桁惨敗とまでいわれていたのに30台まで盛りかえし、これを善戦と見せたのも小池マジックのなせる技か、逆に一桁惨敗説の根拠が本当だったのかと気にはなるのだが、この間ずっと小池知事の支持率は決して低くはなく、直前のA新聞社調査では57パーセントとかで不思議な安堵感を醸したりしたが内閣支持率とは風情が違っていたのだからここは自民党の読み落としではなかろうか。

自民都連は政府すなわち官邸のとばっちりを受けたから苦戦したのか?

◇ そもそも都政の中心課題はコロナ禍とオリパラでその多くは政府の守備範囲にあり今日までけっして十分な対応とは国民から思われていなかったのが、職域や地方自治体での接種加速でようやくプラス評価に反転したのもつかの間降ってわいたような突然のワクチン不足による接種中止によって人びとの不安と不満はおおきく煽られたといえる。

 感染症対策におけるこのような戦略企画は驚くほど稚拙なものでこれでは大本営の機能が果たされているとはいえまい。また広報のまずさというか機能不全もひどい。危機における対応の要諦は正確な情報の提供と人心の掌握であるのに現状を思えばよく平気でいられるものと、その鈍感さには驚かざるをえない。

 そうしながらも政府はただただ吸引器のように不安や不満を分別せずにどんどん吸い込んでいったといえる。吸い込むだけ吸い込んで発信は控えに控えているのだから、国民の多くはいざとなれば現場はがんばるのに大本営である政府はだらしない、今回もやっぱりそうだったとひどく落胆したのである。この落胆はおそらく為政者を困らせるやっかいなものになると思われる。

 オリ・パラ東京大会への不安は都民の間ではずっと高かった。で政府はそれにまともに答えなかった。だから見方を変えれば自民都連は政府にやられたといえる。逆に都連として党本部に反抗した方が良かったのではないか、いやせめて無観客と強く主張すれば風向きが変わっていたと思う。しかし都連にしても結局都民の気持ちがわかっていなかったのだから33でもおおいに感謝しなければならないだろう。

 政府と地方自治体との関係はいつも微妙なものではあるが、「代表取締役社長と思っていたのが中間管理職だった」という小池知事の感想コメントは考えれば考えるほどに切れ味鋭いまるで魔剣のようであった。これ以降知事は批難の矢面から逃れている、悔しがってもしかたがないここは役者が違う、だけである。

低投票率をどう考えるかも大きな課題

◇ 史上第二位の低投票率だという。42.39%で前回より約9%ポイント下がっている。この低投票率が結果にどの程度影響したのかについて詳しい分析が待たれるが、一般論として組織型の政党にはプラスといわれている。その意味で直前予想では1から3議席減といわれていた公明党が23と全員当選を果たしたのは低投票率が幸いしたのかあるいは機微に触れる協力があったのか、いまは知るよしもない。4年後について予想するのも野暮な話であるがあと2、3%ポイント投票率が高ければという声もあるが都議選よりも総選挙の方が投票率が高いとすれば考えるだけでもシビれがきそう、いずれにせよ新たな変化が目前に迫ってきているのかもしれない。

 一方、選挙協力では共産党と立憲民主党において功を奏したとの報道が多かったが、枝野代表が「自民党に代わる選択肢はわれわれしかないということが、都民に届き切らない選挙になってしまった」と語る次元と都議選という現実との違いに戸惑う人も多いのではないか、それというのも都議選と国政との絡みがいまいちわからないうえに重要事項が二つほど抜けている気がする。

 共産・立憲のイメージは普通には左派グループと認識されているのだからその選挙協力をベースに「自民党に代わる選択肢」というのはそうとうに飛躍が過ぎると思う。都民に届き切らなかったところに問題があるのではなく共産党との共闘イメージが妙に鮮明になったことが政権政党としてのラベルを傷つけたのではといった指摘にも耳を傾けることが必要ではないか。深読みすればの話であるが、言外に枝野代表の懊悩あるいは政局寓意を聞いたような気がする。

 それにしてもほぼ倍増とはいえ15はどうだろうか。某国対委員長の「リアルパワー」をどこに求めれば自民、都民ファーストに拮抗する30台にのせられるのかまちがいの無い議論を期待したい。国政都政に仕切りをつけるのかまぜこぜでいくのかよくわからない、都議選を選挙協力の実験台に使ったとすれば何をかいわんやである。政党としてのレンジが狭すぎると思われる。

総選挙への備えは、足元の景気と感染症の状況が決め手

◇ 今回の選挙結果には国政への評価の側面がある。といって次の総選挙を占えるほどのものではない。オリ・パラ東京大会も感染症も東京でこそ感度百パーセントであるが地方のそれはじつにさまざまであって、たとえばオリ・パラについてもほとんどの国民はテレビでの観戦が前提であるから関心の方向が異なっているように思える。

 総選挙との関係でいえることは感染症対策の実効がどれだけ上がるのか、とくに投票日にどれだけ実感として改善がはかられているかが選挙結果に大きな影響を与えるであろうということだけで、10月にもなればオリ・パラ東京大会は感動もふくめ過去のものとなっているからたとえ開催が感染拡大の要因になったとしても同規模のイベントは各地で開かれていることもあり選挙の争点としての鮮度を保ちえるのかといえばまあ時間切れとなる可能性の方が高いと思われる。

 後は変異株の逆襲次第であるが、ワクチン接種率が上がればゆっくりと個人消費が増えすくなくとも景気が回復することは確実であるから選挙環境としては与党に有利である。ということで次回総選挙の基本構造は(このままであれば)与党有利の情勢の中で挑戦する側の野党がどういった争点を形成できるのかがポイントとなるだろう。

では選挙の争点をどうするのか 感染症が収束しはじめると野党は苦しい

◇ さてその争点であるが、消費減税が時宜をえているかどうかは判断が難しい。減税であるからおおむね歓迎されると思われるが今なぜ消費減税なのかを理路整然と説明できるのか、全体政策との整合性とくに財政規律との関係を整理できるのか。足元の景気はとりわけ高齢者の消費が急速に回復すると思われることから右肩上がりで景色が予想よりも良くなってくるのではないか。たまには景気の過熱を心配してみたいものだが、そうなるかどうかは置き、消費減税が必要というよりも貧困家計へのピンポイント支援の方が良さそうである。

 そういえば2012年の消費増税をめぐる民主党内の大論争、国民の支持を失った大論争を思いだす。元来税率を上げたり下げたりするのは国民にすれば怪しい話で無責任を連想するのでとりあつかいを誤れば永遠におさらばといわれるかもしれない、それぐらいの危険物である。共産党は消費税にはいつも反対で一貫しているから願ったり叶ったりであろう。

 感染症対策のために国の財政はさらに追い込まれているが与党も後始末が大変であろう。切り札はMMT(現代貨幣理論)しかないのか。それとも新機軸を提案できるのか。仮に大きな政府を目指すにしても財源が必要で借金で予算組むならだれにでもできるわけでありここでは本来の政権担当能力が問われる、だから逆にチャンスでもある。チャンスといえば野党も同じことで、ここは過去を遮断し大胆にMMT的政策を提起すれば勝負ができるかもしれない。異次元の金融緩和で安倍政権は隘路を抜けだし長期政権となった。その分日銀は存立にかかわる大きなツケを背負っている。2000兆円に近づいている個人金融資産残高を架空担保にさらに借金を続ける道がないわけではないが、うまくいくかどうかは確率二分の一でまるでサイコロ政治のようではないか。怪しい誘惑のように思えるが、愚直に踏みとどまるのかそれとも大胆に踏みだすのか、政権を目指すなら挑戦するしかないと思うが、まじめな立憲民主党には難しいであろう。となれば大きな政府論は陽炎のように見える。

選挙の争点に外交安保がからんでくると野党協力は液状化しやすい

◇ さらに、一部の野党にとってとんでもなく不利な争点が米中対立構造下でのわが国の安全保障問題のあつかいで、新憲法下における初めての本格的な議論が避けられない。一時流行したネトウヨの論調とは立場を異にする根源的議論すなわち民族の盛衰と国家の存続を視野の中央におき国際協調を基調とするも自由人権民主といった政治価値を堅守し平和的問題解決に徹しながらも日米同盟にもとづき過不足のない責任を果たしていく、といったひどく肩の凝るテーマについてリアルな臨場感のなかで建設的な議論を進められのか、が問われている。

 ここは「親米反中か反米親中か」といった単純すぎる極論にはならないと思うが、それでも挑戦者である野党としてはキリっとした政策が必要で、自由人権民主といった価値観をどのように掲げるのか、それとも是々非々といいながらごまかしごまかしやっていくのか、ここであえて指摘するがごまかしごまかしという方法にも理屈があるもので比較劣位の国家の戦術として一つの選択肢ではあるが選挙期間中に野党がそのような主張をして票が集まるのかは疑問である、このように考えれば考えるほどに悩めば悩むほどに難しさが増すといえる。

 悩ましいのは与党も同じで野党攻撃に用いるのはそれはそれでいいのだが、ではどういう議論を仕掛ければいいのかとなると考え込んでしまうであろう。両刃の剣になるかもしれない。あいまい戦術が戦術として活きるのは手を隠すからである。国内外の議論の斉一性を問われるのは民主主義国家の宿命であり矜持ででもある。だからといって公開すれば手は手でなくなる、しかし野党との差別化を図るなら外交政策で一発ぶちかましたいと思うであろう。これもジレンマである。

今与党は油の中にいる、火をつける者はまだいない、安心安全ですか

◇ 自民党あるいは与党にとってそういったジレンマぐらいはなんともないであろう。普通にいえば政党支持、地方議員、経済界の支援、政治資金など十分すぎるほどの充実度ではないか。本来なら野党第一党の攻勢に呼吸困難の一歩手前といった状況になるはずであるが、それほどひどい状況であるにもかかわらず守勢ではあるが例外的な余裕の中にいるのではないか。野党が弱いことの恩恵を全身に浴びている与党議員とくに自民党議員に告ぐ、暗黒の時代は目の前にあると。

 静かに目を閉じ胸に手をあてて考えて欲しい。赤木ファイルが閉じられることはない。複数の現職大臣が辞任し実刑判決を受けている。信じがたい選挙買収事件の原資について政党交付金由来の疑惑があり、堂々と頬被りを続けている。驕慢である。政治を私している。国民の命を軽んじている。行政力は世界に劣後している。コロナ禍への対応はお粗末のひと言ではないか。国会議員としての責務を果たしているのか。いうべきことをいっているのか。与党内にあって事なかれ主義に陥っていないか。状況さえ許せば誠意を落としても何食わぬ顔で生きていくのか。また恥じることがないのか。

 いま与党は相対的関係において小康の中にいる。それは絶対的ポジションではない。いずれ相対的関係において煉獄に落ちるかもしれない。潮の変わり目は瞬時であるから知覚したときは手遅れである。

 この8年間のツケが津波のように押し寄せるかもしれない。細かくはふれないが考えれば考えるほどいいかげんな政権であると批難は理不尽に襲いかかるものである。民主党の時がそうであった。

 あのときは水浸しだと思っていた。政権末期である。だから抜けだすためにも必死になって消費税について出口のない論争を続けた、それが水ではなく油であったと気がついたのは火がついてからのことでもう手のつけようがなかった。なぜ水と油の区別がつかなかったのか、今でもわからない。真面目すぎるから水と油の区別がつかなかったのか、馬鹿な話である。環境によっては人は水と油の区別がつかなくなるということか。

 今与党は油の中にいる。幸いにも火をつける者がいない、それだけのことである。しかるべき政党が現れたら50%の確率で200議席を割る。と多くの人が思っている。だから小池不発弾の信管を気にするのである。スガ政権の迷走が続けば新型爆弾が現れるかもしれない。

 

 蛇足であるが共産党主導の連合政権構想(詳しくはまだ不明であるが)については全面否定するつもりはないが、現下の国際情勢を考えれば立ち上がりにおいて間に合わない、経済システムなどとは辻褄が合わない、致命的なのは米国と噛み合わないといった三つの合わない無理があると思う。立憲-共産グループの範囲でどんな絵を描いてみても政権実現の可能性は低い。批判政党としての価値と政権政党としての価値を有権者は峻別しているように思われる。

 ということで当面の議論は閣外協力にしぼられるが表面上議をつくしてみても本音が党サバイバルであるならつきあった方が損をする。過半の議員はそこはわかった上で自分の選挙区に対立候補を立てて欲しくないから黙っているだけの話で、政権云々のレベルではなかろう。与党としては立憲-共産協力に是非とも塩を贈りたいと思っているのではないか。そんな永田町界隈の暑い昼下がり、ときどき大雨。

今日のわが国にとってどのような議論が必要なのか整理をしたら

◇ 新型コロナウイルス感染症による災厄(コロナ禍)から多くのことが学べるが今なお収束への途上にあるのでどこまでの議論が可能であるのか確定できないが10月前後に予想される総選挙では行政の基本機能が問われなければならない。それは保健所機能の充実だけではなく官民医療体制のあり方などパンデミックに適切に対応できる改革が求めらるし、その改革は中央・地方の全組織におよぶものと考えられる。

 また自然災害の激甚化が日常化していることをふまえ国民の生活リスクへの対応を再考する時期が来たと考えられることから、科学的判断あるいはエビデンスにもとづく政策立案過程の導入など従来の御用聞き的政策立案過程を抜本的に見直す必要がある。加えて、漸進的な国力減衰過程にあることを直視し実力相応の施策に照準を合わせることも必要であろう。

 国を取り巻く環境も穏やかではない。隣接国との難度の高い課題はなかなか出口を見いだしがたく、加えて米中対立が激化する中でわが国の立ち位置と向かう方向について国民的合意をはかることも大切であろう。

 さらに国家形態についても民意の受用と権力の行使だけでも多様多彩な形態が現実として存在する世界状況にあって民主主義国としても自由人権民主をどこまでどのように称揚していくのかについて必ずしも方向が固まっているとはいえない。まあそれぞれに揺らいでいるといえる中で、その自由人権民主のわが国の実情を今一度振りかえってみる必要があるのではないか。はたして万全盤石といえるのか、ほころびだらけではないか。

◇晴れ間にはからす争う半夏生

付録

◇ 政党間の票の共有性を具体的に表すものとして投票日当日あるいは期日前投票時における出口調査などで、候補者をもたないA政党支持者がB政党候補者へ投票した率が開票報道の中でよく使われるが、これがスイッチ率である。この場合AtoBとBtoAのスイッチ率が同じように高ければ双方向型で共有性は高いといえる。他方スイッチ率の差が大きい単方向型共有性はケースとしては稀である。また政党間での選挙協力が明言されているにもかかわらずスイッチ率が低いケースも起こりえるわけでこの場合もともとが低共有性ということで選挙協力の実効は上がらないといえる。

 概略的には、自民-公明の選挙協力は高共有性、立憲-共産のそれは中共有性、立憲-国民のそれは昔は高共有性であったが今では低共有性となっているようで、共産-国民のそれは低々共有性といったところであろうか。もちろん選挙区事情や候補者の属性などの影響が大きいので定式化することもないと思うが、候補者調整にあたっては十分考慮されるべき要素といえる。

◇ また有権者の投票行動が与野党対決構造の影響をどの程度受けるかは定かではない。とりわけ支持政党なし層ではそういった区別はあまり鮮明ではないだろうと思われるのであらかじめ予想することは非常に困難といえる。

 先ほど述べたように立憲-共産の高共有性と国民-共産の低共有性は親和性、疎外性ともいいかえられるもので、今風にいえばデファクトであり簡単に変えられるものではない。とくに国民-共産における候補者の一本化は票の集積よりも散逸をもたらす可能性が高く効果的とはいえない。もっとも事例としてもレアケースであろう。つまり野党候補の一本化がことさら良策であるとの俗説が流されているが、低共有性の関係にある野党間では画餅としかいいようがない、時間の無駄である。

 また、都議選において立憲-共産をグループ化したことにより、従来は両党間にあった壁を立憲の右側に移動させたと考えられ、それにより国民-立憲の壁が必然的に高くなったのではないかと思われる。さらにこの壁を国民の右側にまで移動させることが集票力を失わずに可能であるのかが現在の野党間における協力関係の肝にあたる議論となっているが、伝統的な議論の流れでいえばむしろそうするためには現在低くなっている立憲-共産の壁を民進党時代の高さにまで戻すべきではないかといった指摘も少なくない。

 単純な視点として立憲を中心に左右つまり右側の国民と左側の共産がそれぞれ立憲を連結ピンとしてつながるブリッジ方式もありうるが、「敵の敵は味方」論は彼我の関係が未定の場合にいえることであって関係が既定の場合は成立しないと考えるのが妥当であろう。

 現実的には野党候補の一本化は足元の選挙情勢次第であって全国規模での定式化は難しいといえる。もともと、この一本化論は前回の投票結果の票数から遡るタラレバ論であって選挙区事情や主義主張による違いあるいは選挙争点などを考慮すれば簡単に成立するものではなかろう。

 したがって、野党領域においては自民党で成功した右方面開拓に匹敵する未開地は左方面には存在しないといえる。ということから野党の勢力拡大の対象は右であり野球でいえばセンター域あるいはセンターライト(右中間)域となる。この基本図を念頭に当面の票田開拓の戦術と行程を立案すべきといいたいがまだまだ山谷があると思われる。

注)➀MMT(現代貨幣理論)下線を追記。➁赤城→赤木に修正。③改革が求めらるし 下線を追記。⑤センターレフト→ライトに修正。(2021.7.16) 

加藤敏幸