遅牛早牛

時事雑考「2021年猛暑に気候変動問題を考えるーさまざまな疑問その1」

◇ 2021年の猛暑はまだまだ続くであろう。その猛暑とCOVID-19が生き物である私たち人間の生態環境をいちじるしく悪化させている。そんな中COVID-19の収束がゆらいでいる。もちろん感染予防行動、ワクチン接種、治療法(治療薬)の三点セットの効果が発揮されいずれ落ちつくと思われる。問題は呼んでもいないのに勝手に登場する変異型でこれが油断ならない。しかしよくもまあこんな「たちの悪い」ウイルスが出現したものと恨みがましく思うが、ここは発生メカニズムをしっかりと解明して欲しいものである。

 さて2021年11月には英国で第26回気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)が開催される。パンデミック下であっても気候変動問題の重要性は変わるものではない。とくに2030年にむけての各国の取り組みについて議論しあうこの会議はきわめて重要なものとならなければならないのだが、国内における関心はまだまだのようである。取り返しのつかない事態になってから「早くいってよぉ」と叫んでもダメである。国民ひとりひとりがわが事として真剣に考えなければならない、決して政治家まかせではいけないテーマであることを強く指摘したい。

◇ 経済を成長させながら温室効果ガス(以下GHG)の排出量を減らすことができるのか。というテーマは語順を変え、GHGの排出量を減らしながらあるいは限りなくゼロを目指しながらも経済成長を可能にできるのかと軸足を排出量削減に置きその実現をはかる「はじめに削減ありき」とする強力かつ強引な気候変動対策が始動しはじめたといえる。これはさまざまな懸念を宙づりにしたまま発車ボタンを押すもので理由は「そうしないと間に合わないから」である。

 2050年カーボンニュートラル(排出吸収均衡)を最終目標としそれへの道程としてEUでは2030年GHG排出量1990年比55パーセント減、日本政府は2013年比46パーセント減を掲げている。しかし、具体的な計画あるいは手段などの多くが未着手でありCOP26ではどのような議論になるのか準備会合もあわせまだまだ見通せる段階にはいたっていないようである。

◇ 米国の大統領がトランプ氏からバイデン氏に替わったことで一時停滞気味であった気候変動対策がふたたび軌道にのりつつあるが依然として人びとを悩ませている。というのもほとんどの人が「経済活動がエネルギー消費をともないさらにエネルギー消費がGHGの排出を生む」と考えており、これは経済成長とGHG排出削減がトレードオフ関係あることから、GHGの排出減がどういう経路をたどるにしても経済成長を阻害するのではないかと心配しているのである。

 だから一部の識者からGHGの排出量を削減しながらも経済成長が可能であると聞かされても直ちにそのことを受けいれる気持ちになれないのは長年にわたって身についた認識のせいであると思われるが、他人からコペルニクス的転回を強要されることが嫌であるうえにまだまだ証拠不十分ということであろう。

◇ 確かにGHG(総)排出量の傾向は1990年を100とした場合、2013年の110をピークにその後漸減し2019年は95となっている。この間実質GDPは1990年比130と伸びていることから単位GDPあたりのGHG排出量については、1990年を100とした場合2012年が90で2013年が89、その後は2019年の73まで減少している。したがってこの8年間でみれば経済成長を実現しながら排出ガス削減が進んでいるすなわち一応のデカップリング(経済成長が排出増をともなわない)状態にあるといえる。この局面だけでいえばGHG排出量と実質GDPとの比率(炭素生産性)が上昇しており脱炭素化の流れが加速しているといえる。

 しかしこの現象をもってただちに朗報とするのは気が早過ぎるであろう。つまりたとえばデジタルトランスフォーメーションをあつかう専門性の高い企業においては売り上げあたりのGHG排出量が従来型の電気機器製造業にくらべ格段に少ないことは業種の性格からいってとうぜんといえる。したがってITなどのインフォメーションサービス系が伸張する経済では成長点で観察すればずいぶんと省エネ脱炭素が進んでいることから一単位の経済成長によってもたらされるGHGの排出量は大げさにいえば桁落ちするほど減少していることも多いといえる。さらに新規のシステムでは電源自体を再生可能エネルギー(以下再生エネルギー)化することで排出量ゼロの理想状態を実現するなどさまざまな工夫が明るさをもたらせていることも事実である。そういった経済成長とGHG排出との切り離し(デカップリング)をもたらす仕掛けが年間排出量の低下傾向を支えているとみられるが、しかしなお懐疑的な思いが残るのはいわゆる成長点以外ではあいかわらず旧来の仕組みが優位でありまた排出量削減だけを目的に製造システムの脱炭素化投資が経営上選択されることは皆無といえるからである。さらにいえばものづくり産業に見られるように生産物がある程度の物理量を有する場合はさすがに排出量の桁落ち削減は困難なことであり相当な誘導政策を用いないかぎり経営としては対応できないのが実情であろう。

 ということから経済全体で考えた場合排出総量の削減目標を優先させるかぎり何らかの隘路が発生しそのために局部的であれ経済縮小が避けられないと考えることを否定することはできないと思われる。

◇ 経済成長との関係で整理すれば、成長分野において低炭素経済が実現していることはまちがいないといえる。しかしそれはゼロ炭素経済でもマイナス炭素経済でもない、つまり系統電源を使えば平均的な排出は免れないということである。したがって、やや強引な筋立てになるが経済活動の随所に「GHG吸収(マイナス炭素)過程」を準備しなければ2030年以降の目標に到達することはきわめて難しいといえる。ということであればイノベーションあるいはブレークスルー型の仕組みが必要であることは誰しも認め同意すると思われるが、この同意はそれがなければ目標を達成することができないことを表明するに等しいのであり、政府がいくら野心的で意欲的な計画を立てても「できなければできない」という現実を乗り越えられるものではないことは指摘しておきたい。 

◇ GHG排出量を削減しながらなお経済成長を達成するというのは二兎を追うと受けとめられるかもしれない。しかし私たち人類の歴史においてそういった一見無謀と思える挑戦は少なからずあったしまた成功はしなかったとしてもさまざまな成果をもたらせたことは事実である。経済上の動機が中心とはいえ間断ない省エネと政策誘導による再生エネルギー投資の結果前述のとおり炭素生産性の向上が実現しているうえに排出量削減においても2013年比でいえば2019年は指数において15ほどの削減実績をもっていることになるから2030年の2013年比46%減は2019年比に置きかえれば31%減になる。こういった日常的に積み上げられている改善はなにも二兎を追うのだと肩に力を入れた結果ではなく粛々と重ねられる現場の努力の成果といえるもので取り組みの日常化が重要であることを示唆していると思われる。

 ここで重要なのは計数目標への体系だった取り組みと同時に二兎と表現されるニュアンスに含まれている「最終的に経済縮小もやむを得ない」と腹を括ることもあるのではないかということである。もちろん腹を括ったからといって問題が解決することにはならないのであるがすくなくともそれほどの覚悟があれば予想される多くの難問を乗り越えることができるのかもしれない。

 とはいいながら、2020年の世界のGHG排出量(一部予想)はCOVID-19の影響を受け23億トン(6.7%)減とグローバルカーボンプロジェクト(GCP)が2020年12月に発表している。この減少率を国別で見ると米国が12.2%減、EUが11.3%減、中国は1.7%減、インドが9.1%減であった。このことからすくなくとも2020年においては7%弱の削減を地球規模で達成できた、もちろん不本意ではあったが、ともいえるし、逆にあれだけの経済縮小でようやく7%弱の減にしかならないのかともいえる。この実績値をどのように受けとめていくのかについてさまざまな議論があると思われるが経済縮小と排出量削減の相対感を身につけることには役立つのかもしれない。もちろん本命は再生エネルギーのイノベーションではあるが、それができなかった時には経済縮小を選択するのか、先ほどの覚悟とはそういうことであろう。

 ともかく2050年のカーボンニュートラルはさておき2030年の50%前後の削減でさえ経済活動への衝撃については容易に想像できるものではない。まさに空前絶後の衝撃に備える今年もふくめて10年間の大切さを改めて確認する必要があるのではないか。

◇ さて、この一連の議論をつきつめれば一番の大本(おおもと)はエネルギー消費増なしに経済活動を拡大させることができるのかということであり、二番はそのエネルギー消費を信じがたいほど矮小化できるのか、三番はエネルギー消費と温室効果ガスの排出を切り離せるのかということに集約される。

 とくに三番目の切り離しであるが太陽光発電あるいは風力発電などの再生エネルギーがある局面において排出ガスゼロの理想状態をつくりだせることはまちがいのないことではあるが、ではその理想状態を地球規模でかつ365日体制として維持できるのかといえば「それは不確かであり不十分である」といわざるをえないのである。とりわけ再生エネルギー装置と強力な蓄電装置を地球上のどのエネルギーを使って作りあげるかがきわめて重要と思われるが油断をしていると半分は化石燃料で残りの半分は原子力でということになりかねない。

 嫌がらせでいっているのではない、みかけは優等生であっても化石燃料や原子力に依存し続ける再生エネルギーという別の顔についてもある程度認識しておく必要があることを指摘しているのである。

◇ つぎに、再生エネルギーだけの世界においては「どの程度の生活水準をどのくらいの人口におよぼせるのか」という難問が残っている。この問いかけには地球上において開発可能な再生エネルギーがどの程度あるのか、また70億を超える人口を再生エネルギーだけで養うには生活水準をどれだけ切り下げなければならないのかというシュールな設問がふくまれていて、考えれば考えるほどに気分が滅入ってくるのは化石燃料を代替するほどの実力が現在の再生エネルギーにあるとは思えないからである。

 考えてみればわずか50年前には石油の枯渇が当面の心配事であり、石油の次は原子力でその次は核融合と順次発展させていけば重水素はほぼ無尽蔵だからこれでエネルギー問題は(千年は)解決だと当時の科学雑誌にはそう書かれていた。また埋蔵量についても今日とは比べものにならないほどの危機感を背景にさまざまな議論がなされていたし、石油依存に対する危機意識も高かったといえる。それが不思議なことに石油資源の枯渇による限界性の議論が北海油田やシェールガスの開発などにみられるように価格上昇が可採埋蔵量の増大をもたらすことから問題意識としては次第に後景へ退き同時に危機感も薄れていったといえる。もちろんこの間における原子力発電の貢献が石油等への依存を少なからず緩和していったことも評価されるべきと思うが、再処理技術の頓挫にくわえスリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと続いた事故が原子力発電の限界を現実化していったことも事実である。

 そして今日では資源の限界性よりも地球の空間容量あるいは環境としての許容量が石油などの化石燃料の使用を抜本的に抑制せざるをえないという50年前には考えられなかった事態に転化しつつある。枯渇はしないが使用できないのだから同じことであろう。つまり別の理由で石油文明に終止符が打たれようとしている。それは石油文明がもたらせた今日の豊かで便利な生活を石油なしでどうやって続けられるのかということであり、よくよく考えれば必然的に「大幅な生活水準の引き下げ」という破滅的な結論が見えてくるわけで、その文脈における今日的議論の中心は技術革新をともなう再生エネルギーの開発によってその破滅の程度をどこまでリカバリーしうるのかという「リカバリー論」に向かっているように思える。先ほど覚悟があればと述べたがリカバリー論においてもそうとうの覚悟が必要なわけでここは国民の生活に責任をもつ政治の出番ともいえるが「政治にそれだけの大任が果たせるのか」という新たな問いかけも民主政治の危機が叫ばれる時代にあって急速に浮上するのではないかと思われる。

◇ このように主力選手(化石燃料)の突然の退場が予想される中で原子力エネルギーの活用については新たな議論が起こりつつある。この議論は、大手新聞の一部が反原発を金科玉条とする状況にみられるようにわが国では広く関心が高まっているとはいいがたいのであるが後述するようにたとえば2030年での排出ガス削減目標(わが国においては2013年比46パーセント減)を達成するためにはどうしても原子力発電の位置づけを明確にする必要がある。国会議員の中にも2030年原発廃止を掲げるグループもあると聞くが「再生エネルギーの力不足をいかに支えるか」という課題への解決策がしめされない中で「原発廃止」を与件とすれば2030年の削減目標を達成することはきわめて難しいといえる。もちろんはじめから削減部分をリカバリーしない方針であるなら「原発廃止」は可能であるがその場合エネルギー不足が国民生活を破綻させる責任を明確にしなければならない。エネルギー不足、電力不足を容認するほど国民は甘くはない。ライフラインの確保は政治の責任でありそれは世界の潮流である。

◇ 筆者の主張は電源構成における原発比率を30~40%として再生エネルギー比率を同水準とした組みあわせを基本としなければ現在の経済規模相当を維持することは難しい、つまり再生エネルギーの短所を補う補完エネルギーを保持しなければ電力を中心にエネルギー不足や不安定化が常態化しそれが国民生活あるいは経済活動に大きな支障(大規模停電など)をもたらすことになる。

 そうなると個人消費の縮小からはじまる経済悪化が連鎖し対外資産の切り崩し、交易条件の悪化、輸入物価の上昇によるインフレなどの好ましからざる経済事象が急速に進行しその結果として景気後退あるいは雇用情勢の悪化などによる政情不安にいたる危険(リスク)が高まると考えられる。

 長らく原発問題と向き合ってきたが1960年代の導入期は科学技術の発展に資することを大義名文とする政策を首をかしげながらも見まもってきた、それが1970年代には石油価格の高騰をきっかけにエネルギー政策の刷新がはかられ、この段階でようやく主要電源としての地位が確立したといえる。とくに石油などの中東依存が高いことから戦争や紛争また海賊行為などに加え自然災害などがシーレーンを脅かすことを危惧する意見も強くそれへの耐性の確保のために準国産資源との位置づけで原発を評価する方針が定着していったが、筆者もおおむねそれを是認する立場であった。

 1989年冷戦が終了し体制対立の脅威から開放されたことによりエネルギー分野における安全保障の議論も低調になるなかで世界経済のグローバリゼーションが著しく進展しかつて途上国といわれた国々が経済的に離陸を果たしていった。それもふくめ世界的な経済拡大による地球温暖化とその悪影響が国際問題としてにわかに浮上してきたのである。その結果、1990年代には国連気候変動枠組み条約が採択され同条約に基づき1995年から毎年気候変動枠組み条約締約国会議が開かれ1997年の同会議(COP3:京都)では先進国にたいする拘束力のある削減目標(2008年~2012年の5年間で1990年比日本-6%、米国-7%、EU-8%等)を京都議定書として合意にいたった。この後2015年のパリ協定の採択まで大まかにいって足踏み状態であったが気候変動が原因と思われる異常気象が頻発する中で問題に対する危機意識は高まっていった。

 1997年のCOP3京都会議から2015年のCOP21パリ会議まで18年もかかったといえるが、内容的には京都議定書からパリ協定へ大きくバージョンアップしたと評価できる。しかしそれは温暖化がもはや見過ごせないほどの人類の脅威になっていることを意味するもので、私たち人類は21世紀前半の50年間を気候変動問題との格闘に全力であたらなければならなくなったといえる。

 さてパリ協定さらには2050年カーボンニュートラルは真実厳しい目標である。なおさらに2030年の目標も大変なもので実現のためには現在のエネルギー体系の構造変革が必要となる。見方を変えれば化石燃料撲滅運動にほかならない。となれば原子力発電の役割について新たな議論が始まるということであろう。すでに反原発の旗を掲げる人びとには反対する理由があるのだろうが、問題は化石燃料もダメ原子力もダメとなったとき再生エネルギーだけでは足らざる部分を何で補うのかという設問が現実化したときに選択肢として生活水準を大幅に引き下げることを国民にしっかりと提起できるのかということである。

 もちろん最終的には主権者が決定することであるが、ほぼ10年で化石エネルギー使用量をおおむね半減させるに等しい「正義の政策」が人びとの生活にどれだけのダメージを与えるのか、またそのダメージは物質的生活水準に限らず地域、家庭など社会関係のすみずみにまでおよぶもので、詳細を書くとすればとても紙幅に収まるものではないだろう。そのぐらい大変なことでいずれにせよ国民生活を支えるために政府は再生エネルギー以外の排出ガスゼロエネルギーも用意せざるをえないのである。

 という文脈でいえばおそらく中国共産党政府は原子力発電に大きく傾斜すると思われる。中国大陸は広大で水力発電の立地にも恵まれているが昨今の豪雨被害を考えれば新規ダムについては降水量予測の幅が振れすぎて確定できないことから計画・着工が遅れるうえに既存ダムの機能低下にも措置が必要であることから再生エネルギー以外ではどうしても原子力発電に頼らざるをえなくなるであろう。韓国も事情は似たりよったりである。とくに輸出産業の振興を考えれば安定電源は必須であるから原子力発電所の増設は避けられないであろう。これができなければ主要な産業資本は脱出をはかることになるであろう。《次回に続く》

◇ 浜に寄る白きは夏の生贄か

注)下線 3カ所は順に追記、語順変え、追記(2021/08/21)

加藤敏幸