遅牛早牛

時事雑考「2021年猛暑に気候変動問題を考えるーさまざまな疑問その2」

《その2》

◇ 気候変動問題に手こずっている。《その1》が8月8日で、《その2》が8月22日なので(本日)、この分だと《その3》《その4》は9月に突入するのではないかと心配している。さて感染者数はざんねんながら全国で2万人台を大きくこえてしまった。

 「変異株の逆襲がなければ」落ちつくのではないかという秋口にむけての筆者の予想は「~でなければ」文のおかげで皮一枚残ったがけっこう甘かったと反省している。それにしてもデルタ株の威力は恐るべしである。また人びとの対応には慣れというかダルさをふくむ飽き感がみられ、またやや非協力的であったりして、なんともいえないムードにあふれているがこれには官邸も困っているだろう。

 ここは弊欄2021年6月7日時事雑考『2021年6月が始まった、なんだか崩れていく統治に不安』を政治家のみなさんがたに読んでいただきたいのであるが、まあ長すぎるし...無理かしら。

 それをひと言でいえば国民の行動変容についてはおねがいベースだけでは限界がある。なぜかというと権力行使の効果性は政治家の責任に比例するもので、責任がともなわないあるいはあやふやな政治家の発言に熱意や迫力を感じることはない、だから共感しない、そういう意味でいまの責任をともなっていない要請はズバリ政治家としては逃げである、と思う。もちろんアベ時代からのボタンの掛けちがいがあっていいわけは山ほどあるのだろうが、それは人びとにはかかわりのないことである。

 発信力とか応答力とか総理にたいする批判が炸裂ぎみであるのはとうぜんのことと思うが、饒舌であれ訥弁であれ虚飾の言辞をはぎとることがメディアの仕事だと思う。本日の横浜市長選挙の結果から秋の政局がはじまるが「報道すればいい」のであればたれながしとかわらない、虚飾をはぎとる手段は事実の提示であると思うのだが。

(おことわり:今回から漢字の比率を減らしています。べつに中国ばなれを意図しているわけではありません。あくまで表現上の工夫です。)

◇ 「気候変動対策をしんしに遂行することはとうぜんの義務である」とかんがえる政治家や企業経営者は産業構造の大変革にそなえなければならない。気候変動対策を義務と考えるにはそうおうの覚悟がいるということである。つまり社会・経済システムとの連動を視野にいれたおおきな議論になるわけだから、みちびきだされる結論のおおくは実行に困難をともなうおもたい方策になると思われるので、義務だと考える人たちには「本当にその覚悟があるの」とか「議論だけですませていいの」といったことばの手裏剣を用意してまちかまえているのだが、もっとも重要でかっぱつな議論はまだはじまっていない。おそらく有史いらいの大議論になるものと思われる、といえばおおげさだと注意されるだろうが、まちがっていないのだ。

 さて、大議論になる理由の一つはエネルギー体系の転換それも高熱量化や改質あるいは効率改善といった技術発展にそうものではなくGHG排出ゼロというおおよそ過去に経験のない逆向きをめざす不可逆反応をちからずくで可逆反応にするようなものだから、無理筋といえば無理筋なのである。

 二つ目の理由はスポットではなく365日かつ地球上のすべてのシステムを対象にするという斉一性がもとめられること。

 三つ目はかかわっている要素、要因が相互関係にあるつまり複合化されていることから複雑であり、その複雑さをいえば人があつかいうる限界をはるかにこえたもの、ようするに関連する要素が複雑かつ膨大でさらにむつかしいのは要素間に相互関係がある、つまり要素それぞれが原因と結果としていれかわりながらさまざまな状況を生みだしていくというもので、いってみれば神の手を借りるほかにてだてがないのではと思わざるをえないって感じであろうか。

 (三日前には神の手をかりたいと思っていたほどの難問でも三日たてば答えは目のまえに転がっているのだが、問題は答えのよこに犠牲者がやまのように重なっていることだ。犠牲者をださないようにと願うから難問にくるしむのである。)

◇ あるいは、これは後始末と考えるべきではないか。なぜなら国連気候変動に関する政府間パネル(The Intergovernmental Panel on Climate Change以下IPCC)が産業革命前からの気温上昇を2℃できれば1.5℃以内におさえるべきだと提案していることは「産業革命が悪者だった」とはいわないまでも地球温暖化にはじゅうだいな責任があると明言しているわけで、これは結構キツい判定ではないか。1750年ごろからと記すのが正しいかどうかはおき、すくなくともイギリスにはじまったとされる産業革命を、そののち200年以上にわたり喜々として継承発展させてきた「おまえたち」にはおおきな責任があるのだから破滅の道をあゆみたくなければ○○○すべし、と宣下されたもおなじであろう。きっと人間をこえる立場から宣下されたのだとそう思えば逃げ道も猶予もないと観念せざるをえない。

 であればやりとげるしかないのであるが、「んしに遂行している」といっても蝸牛の富士登山では間にあわない。それは問題のおおきさにくらべ選択した方法がきわめて矮小であることから、問題とその解決策の関係において信じられないほどのギャップがうみだされ結果的になんの役にもたたないということになってしまう。つまり部分最適解の積みかさねがかならずしも全体最適解を予定しないうえに「とりあえずやっているからなんとかなるだろう」という錯覚を生じさせることにおいて時間のロスという実害をうむことになる。

 つまり問題のスケールにみあった方法を選択することが大事な勝負所なのに、たとえばあるスマートホンメーカーが自らのサプライチェーン全体の脱炭素化を企図し実行するという一見うまい方策のようだが、それは裕福な街区の要塞化をもって治安対策が完成したと錯覚することに似ていて、しゃもじで狐を追いかけるような観がある。とる気があるなら猟銃を使うだろうし、追いはらうだけならしゃもじは余分である。

 また治安対策をいうのなら裕福な街区をとりかこむ普通の街区や貧しい街区もふくめて全体として改善をはからなければ意味がない、それを街区間競争としてはじめから勝者がきまっている出来レースに転嫁していく馬鹿馬鹿しさを気候変動問題という人類の生存にかかわる舞台に持ちこむことこそ本当のところゆるせないといいたい。このようなつまらないゲームを局部的にくりかえしていては永遠に問題を解決することはできないだろう。

◇ おそらく件(くだん)のスマートホンメーカーの調達系では市場の脱炭素サブシステムをかきあつめれば理想状態をつくりあげることができるのであろう。しかし、いま人類が直面している問題はそういう局部対応では間にあわないもので、逐次ではなく同時にまた地球規模で一体的に解決しなければどうにもならないものである。

 もともと地球の大気は一体であるから局部的理想状態は瞬間的にまわりからのGHGにかこまれて濃度414ppm(2021年7月GOSATプロジェクト)の世界にもどっていくのである。たしかに先見性にあふれた企業の矜持ともいうべきとりくみはやったほうがいいとは思うが、かぎられた脱炭素サブシステムを資金力や市場支配力を駆使して先どりしそれでよくやったと思うのは自己陶酔でいいかえれば「いいかっこしい」の偽善と批難されてもしかたがないだろう。

 このような指摘がきびしすぎるのではないかといった批判があってとうぜんである。しかしあえてそうするのは、資本主義経済にあってちかごろ顕著化している格差拡大がたんに所得比の拡大といった計数上の問題をはるかにこえ、もはや倫理や社会規範あるいは人間の尊厳にかかわる重大問題に相転移している現状が、たとえばGAFAの経営者が膨大な寄付をしたからといってそれで改善あるいは解決されることにはならないということとおなじで、意識高い系の企業が模範生として「こんな風にしたらいかがでしょうか」と当座の格好をつけてみてもなんら本質的解決にはつながらないということを強調したいのであって、そんなのはあだ花でむしろ害をなすものだといいたいのである。

 つまり自己陶酔者の一人が成功したからといって気候変動問題は解決しない。これは全員が成功することが必須なのであって、競争ではなく協働であることをよくよく理解してから政治家や企業家は着手すべきではないか。問題の設定を間違えると取りかえしのつかないことになる。とくに欧州からの発信のなかに競争感をにじませているものが見うけられるが早がけで良好なポジションを狙う意図が見えてくるとこの壮大な気候変動対策は確実に失敗する、そういう構造になっている。競争ではなく協働にしなければならない。

◇ シリコンバレーはリベラルに染まっている、それはいいとしてハイテク企業は日用品を安価に提供することが経済の重要な使命であることを理解すべきであろう。もちろんコーヒーもオーガニックがいいといった嗜好は自由の範囲だろうし、フェアな製品でなければならないといった倫理観は尊重されるべきである。しかし一般論としてもまただれしも否定しないと思われるものであっても、世界の現状を考えればだれのどんな倫理観を採用するのかという問題とはべつに消費者の権利として倫理観をみだりにふりまわすのは時代にそぐわないと考えるべきではないだろうか。とうぜん全否定ではないところがミソではあるが、世界のあちらこちらに発現している「格差拡大」とその結果としての「貧困」を等身大でうけとめるならば、消費地だけではなく生産地でこそその倫理観とやらを実践してみてはとやや皮肉っぽくしかしマジで聞かせたいと思うのである。というのもそのぐらいシリコンバレーは恵まれていると思われているのだ。で、そこに割拠する才能ゆたかな彼ら彼女たちにひと言いいたいのは、いつの時代においても倫理観をゆるがすのは貧困と格差であるというのは常識であって、だいいちこの世に貧困を強要できる倫理観などあるはずがないではないか、また目のまえの格差に目をとざざしながらろうろうと語ることができる倫理観など廃棄してもかまわないのではないか。すくなくとも筆者はそう考えるし、気候変動対策をめぐり「貧困の強要」と「格差の容認」と思える場面があらわれる(絶対あらわれると思っている)のだがこの問題をさけることは許されない。

◇ ところでことばとしての「シリコンバレー」は貧困からもっとも遠い地球上のどこかに純白の広場に面して「ある」のであろう。その純白の広場には倫理的に正しい商品しかならべられていないという、だからそれがどうした、褒めて欲しいのならそういえばいいだけのことではないか。いや地球上にある広場をすべて純白にしたいのならそうすればいいのだが、それはさすがにできないだろう。 

 気候変動問題は好むと好まざるとにかかわらず70億をこえる人びとを勝手にまきこんでいくではないか。またまきこむというのはこの先、日々安価な日用品を提供しつづけるだけの地味な企業に操業停止という有罪判決をどこかでつきつけることを予定しているのであって、ハイテク企業が無罪で日用品を提供する企業が有罪といった判決がまともであるわけがない。日用品をやすく提供することのどこに問題があるのだろうか。

 それよりもプライベートジェット機のほうがはるかに問題ではないか、まして宇宙に遊びにいきたいのならGHGゼロでいけといいたい。つまり倫理観をとうのなら炭素倫理にもふれろということである。やや感情的になったが炭素倫理(Carbon Ethics)が炭素予算(Carbon Budget)とともにカーボンニュートラルを達成するための精神的ガードレールとなるべきと考えているが、倫理観をゆるがすものは貧困と格差であるとさきほど指摘したように炭素倫理をゆるがすのも貧困と格差であるとあらためて指摘したい。

 つまり気候変動対策の前面によこたわっている貧困と格差こそが気候変動対策のできばえを左右する天敵のようなものだと考えている。ついでにいえば、化石燃料撲滅運動と貧困格差撲滅運動がなかよく手をたずさえて前進できるようになればいいのにとも、ここは願っている。

◇ それにしても炭素予算とはわかりにくい。もとは累計CO2排出量(あるいは累積人為起源CO2排出量)と気温上昇(1861-1880年比の気温変化)がほぼ比例関係にあることから、気温上昇を2℃以下におさえるためには累計CO2排出量を2900 Gt(ギガトン:10億トン)以下にとどめる必要がある。しかし2011年までに1900Gtを排出しているので残量は1000Gtとなりこれをこえる排出はみとめないという意味で炭素予算としたのがIPCC第5次評価報告書(AR5)の議論であった。

 この「2℃以下」ラインはパリ協定(2015年)では「2℃よりも十分低く」さらに「1.5℃未満に抑えるための努力」と強化されたが、2019年の国連気候行動サミットにおいてグテーレス事務総長が2018年の『IPCC1.5℃特別報告書』をふまえ1.5℃未満目標を国際規範とするべく各国によびかけたことから、ラインは「1.5℃未満」に強化されたのである。前掲の特別報告書では、66%の確率で1.5℃におえるために排出できるCO2を2620Gtとみつもっており、2017年末までに2200Gtを排出していることから2018年以降排出できるCO2すなわち炭素予算は420Gtとなる。2018年の世界のCO2排出量は33.5Gt(JCCCA資料から)だったことから420÷33.5で約12.5年。これらの数字を前提にするならば、まさに緊急事態である。

◇ 『2019年度の温室効果ガス排出量(確報値)〈概要〉』によればわが国の吸収量は4590万トンで総排出量12億1200万トンの3.8%にあたり、約4%と考えられる。さきほどの炭素予算は2018年+12.5年=2030.5年でつきるから、2031年からは化石燃料の使用は25分の1(4%)におさえなければならないことになる。もちろん前提があっての計算なので絶対にとか確実にといった話ではないが、IPCCの議論は年々精密化がはかられているので誤差はあるにしてもおおきくはちがわないと思われる。

 ということでこれからは温室効果ガス(GHG)をじゆうに排出できないことになり、これは厳格に守らなければならないということである。例外なく厳格に、である。だから世の中変わるでしょう、変わらなければどうにもならないわけで、ここのところがまるで理解できていない御仁が永田町におられるようだが、今年11月の英国COP26はそうとうに切羽つまった会議になると思われる。歴史の転換点である。きびしい変革への第一歩をわが国が確実に踏みだせるように与野党は共通のプラットホームをもうけるべきである。でなければこの国の未来はたいへん危ういといわざるをえない。

◇ それにしても京都会議以降この25年間ずいぶんと排出してしまった、やはりグローバリゼーションというのはGHG大放出だったと妙に得心している。また、2001年の9.11同時多発テロも蛮行悪行にくわえ国際社会の関心を独占しテロとの戦いが焦点となったことから、気候変動対策がわきに追いやられた感じでこれもマイナスであったと思う。さらに2008年のリーマンショックも経済活動と気候変動とのかねあいを考えるいい機会であったのに政治の場ではそういうよゆうはほとんどなく中国の大規模財政出動でひといきついたほどで、世界のリーダーたちにとって気候変動問題はないに等しかったといわざるをえない。

 たしかに当時はIPCCも今日ほどつよくは主張していなかったのでゆるくても仕方がないといえる。まああれやこれやでざっといって30年あまりあった炭素予算のうち何年分かわからないが相当な年数分を無駄にしたようで、ここのところはまことに残念である。

◇ さて炭素予算であるが、これは漫然とつかうわけにはいかない。基本はカーボンニュートラルへのそなえと位置づけるべきである。とくにGHG排出ゼロエネルギーの開発とその設置のためにつかうのが本筋であるが、移行期のつじつま合わせにも炭素予算の相当部分がつかわれることはやむをえないといえる。つじつまあわせは政治の役割であるから今の段階でいえることはすくないのだが、ようはつじつまあわせつまり利害調整に多額の炭素予算をつかってしまいそうで、そうなると日本沈没ははやまることになりそうである。

 国別の炭素予算の配分などはこれからの課題であり、いまはなにもわからない。現時点で再生可能エネルギー(以下再生エネルギー)などのGHG排出ゼロエネルギーの比率がたかい国ほどなにかと有利であると思われる。たとえばフランスは電源の70%が原発由来である。もちろん原発が有するリスクはじゅうぶん考慮すべきであるが、それにしても原発電源がつかえなければ脱炭素社会への移行のためのエネルギー確保に支障をきたし炭素予算小国におちいることから積極的対策をこうじることがむつかしくなる。このばあい予想される悲劇のひとつはせっかくの炭素予算をつかったにもかかわらずひつような再生エネルギーなどが確保できないケースで、このばあいそうとうな生産性向上が実現できなければ経済規模は縮小し、国民生活は崩壊寸前ということになるであろう。

 炭素予算という概念あるいはそれをつかった化石燃料の抑制は展開しだいで鋭利な道具になることから警戒感があることは理解できるが、欧州主導と目されるこの流れをおおきく変えることは不可能にちかい。正直いってわが国は劣位にある。

 それというのも京都議定書のあとのわが国のイニシアチブに不足感があったし、東日本大震災時の原発事故による原子力政策の後退が化石燃料いぞんを泥縄的に助長しGHGの排出をふくらませたことは残念であった。もちろん破格の買いとり価格で急速にすすんだ太陽光発電の普及が財産となっていることは評価できるが全体計画が泥縄であるかぎりさらなる普及は簡単ではないだろう。「再エネ促進賦課金」とちいさく印字された領収書を毎月ながめながら安易であるが仕方がないと思わせる負担のふりかえをいつまでつづけるのかとつぶやきながら、炭素税に脱皮させるとか本格的な議論がひつようではないかと思う。目先のつじつまあわせだけでは欧州がしかけてくる炭素攻勢にほんろうされるばかりである。

◇ カーボンニュートラル時代のさまざまな具体事例はいろいろとうかんでくるが、たとえば遠洋漁業にしても大型帆船に太陽光発電ユニットと蓄電池をつんでマグロやカツオをとりにいくとすれば漁獲量は激減するであろう。農業においてもグリーン革命は化石燃料におおきく依存していることからエネルギー系の転換がひつようであるが、農地を発電と生産に両用する方式が間にあうのか、また収量を確保できるのか課題はおおいようである。

 またわが国の課題として、国際物流コストがはねあがる可能性がたかいことから、食糧自給率についても現在とはちがう次元の議論がひつようと思われる。くどいようであるがGHG排出ゼロエネルギーの手当に失敗すればそれは国民生活の大幅なきりさげをまねくものでその惨禍は食生活といったせまい範囲にとどまらないことだけは確かである。

◇ その食料も水も化石燃料のたまものであって、化石燃料がつきれば石油文明は終焉をむかえ、食料も水も減産となる。という常識はある程度ひろまっていると思われるがその対策は専門家の世界にとじこめられている。という状況にありながら世界は化石燃料の制限的使用から禁止という方向におおきく傾きつつある。まさに潮目のかわる時である。ということであれば「人口増加と食糧増産の上向きのスパイラルはカーボンニュートラル時代にはどうなるのか」という問いかけがでてくるのは自然なことであろう。しかしいまの段階では確たることはなんとも答えようがないのであるが、ただいえることはスパイラルの向きが下向きになる可能性が高いことぐらいであろうか、しかしこれが実にキツいのである。

 現下の人口増加は成人増が中心であるからいずれ減少に転じると予想されている。問題は食糧減産にたいし人口減少がおおきく遅行することである。2050年までの約30年間に水と食料につかっていた化石燃料を再生エネルギーにきりかえていくことに集中しなければならない。さらに不足する部分をどうするのかということであろう。エネルギー配分、具体的には炭素予算をめぐる各国間のかけひきは熾烈をきわめると思われるが、同じく水と食料の配分もそうとうに熾烈になるであろう。熾烈の裏面にはデリケートな課題がひそんでいて、いま問題となっているCOVID-19ワクチンの配分よりも難しいものとなるであろう。

 おそらく、人口減少が確認されるまでの、たぶん化石燃料使用に急ブレーキがかかってくる2025年からのち21世紀中は基礎熱量はともかく生産と消費のアンマッチからうまれる食糧不足にくるしむ時代となるであろう。とくに、食肉用飼料については食用穀物において生じている「貧困と格差」が解消されないかぎり背徳とはいわないが状況しだいで不道徳といわれるおそれがある。なぜなら牛肉1kgを生産するために平均11kgのトウモロコシ・大豆などの穀物飼料がついやされているとなれば食料不足国としては「牛肉でなくていいから、その飼料をよこせ」といわざるをえない。では豚肉が7kg、鶏肉が4kg、鶏卵が1kgとなれば食肉に投下飼料序列が生じることになる。これは嗜好や食習慣によらない序列である。またこの序列が出荷までの生育期間の長短により強化されることになれば食卓に供される動物性タンパク質の種類が格差の現実をものがたることになるだろう。

 また魚肉についてはさらにGHG排出量によってわけられ店頭にならぶときにはかならず来歴と炭素記録が添付されている、そんな2030年代が目にうかぶ。さきほどの序列は価値秩序に転換され最終的には価格体系に反映されるが主要穀物、食肉、魚類、食用油、乳製品、野菜、果物そして嗜好品などの値段こそが脱炭素社会への道しるべといえるかもしれない。

◇ 世界人口はおよそ90億人をピークに漸減していくとの予想が多数派である。問題は人口ピークとカーボンニュートラルとがかさなることで、これが食糧問題を深刻化させるのではないかという懸念については前述のとおりである。このピークをのりきればなんとか安定状態をむかえることができそうである。すでに人口抑制の鍵は貧困からの脱却であることはほぼ共通の理解となりつつある。また化石燃料撲滅運動の進展は経済上の制約や社会構成あるいは心理面での出産抑制効果をもつと思われることからおそらく人口縮小時代へうつると思われる。

◇ 総人口がいずれピークアウトし安定状態にむかうとして、各国の指導者の関心事はとりわけ民族構成にむかうのではないかと多少心配している。人種と民族はどちらも曖昧さをふくんでおり文脈によってていねいに使いわける必要がある。正直いってカーボンニュートラルというのは「不足下における資源分配」に苦労する時代ともいえることから、多いのがいいのか少ないのがいいのか微妙な感覚の中で、国力をささえる人口という視点にたてば多いほうがいいとなるが、かぎられた資源状況を考えれば少ないほうがいいと思う政治家も現れるだろう。とくにカーボンニュートラルへの移行期においては資源配分をめぐり過酷な抗争が生じる可能性もたかいことから抗争管理という観点にたてば、とくに多民族国家においては民族構成比率の安定化をねがうというよりもはかるであろう。また移民、移住者および難民がこんぜんとおしよせてくるとの被害意識にかりたてられるグループも頻出するであろう。しかし、石油のない分人手が必要になるとも考えられることから今世紀後半は予想のそとにあるといえる。

 さらに、気候温暖化はもとにはもどらない現象なので居住条件の悪化が人びとの移動を加速すると予想することは自然であろう。

 といった将来の風景を思いうかべながら2020年代のわが国の進路をみきわめ勇気をもってすすんでいかなければならないのであるが、激しく変化する生活環境のもとで、ていねいに民意をくみとりながらじんそくに民意を集約し、かかんに政策を遂行していくための政治的基盤を国民の理解をえながらつくりだしていくことはなかなかに困難なことでまたその重責をになう集団をはぐくむことができるのか、これも大事業ではなかろうか。

◇ さらに国民にとって金融資産とは何であるのかという怪談話ではないのにやたら寒気をおぼえる話もある。金融資産の値打ちはたんてきにいって未来の化石燃料を動員できるところにあると仮に考えるなら未来の化石燃料は使用禁止であるから交換不可ということになる。であるならかわりに再生エネルギーと交換できるではないかと思われるが、この場合の交換比率は圧倒的に資産側に不利となる、つまり対エネルギーとの関係において金融資産は価値をおおきく毀損することになるのではないかと。まあどのぐらいの時間をかけて脱炭素経済に移行していくのか、時間軸のとりかたによっても事象のでかたはかわってくるので極端なケースを提示するのはひかえたいが、数%のマイナス成長でも政権がゆれる国だから「どうすりゃいいのよ」と総理大臣が毎日ぼやく日がくるかもしれない。

 すでに投資の世界では「座礁資産」とかいいながら石炭火力発電への融資が難渋しているが、発展途上にある国にとって電源開発は民生の質をささえるたいせつな基盤であり政治的にも重要なものである。もちろん預かり資産の保全をはかることはファンドにとって責務ではあるがそのような先発有利後発不利の露骨な投資姿勢がゆるされるのか、こういったながれがひろがり発展途上国への投資が制限されるようになると「石油による経済発展の恩恵にいまだ浴していない国」のとうぜんの権利として未使用分を炭素予算として追加割りあてせよという要求がでてきておかしくはないといえる。さらに安価な石炭火力をとめるのならかわりに同等の性能をもつ再生エネルギー施設を用意すべきと主張するかもしれない。このような議論がおこりはじめると世界全体として予定の炭素予算におさまりきらないのでまとめるのが困難になる。「貧困の強要」とさきほど指摘したことの事例のひとつが気候変動対策をたてに発展途上国への投資を抑制することで、これから頻発するおそれがある。ことほどさように底知れぬ溝が横たわっているのである。

◇ 化石燃料でためた金融資産を先進国がえらそうにふりまわしている、という反感を放置することはあまりにも危険である。という危険は国家間にかぎられるものではなく国内にもとうぜん存在する。国内における「格差の拡大」にどう対応してきたか、たとえば『21世紀の資本』でトマ・ピケティが所得課税の強化や資産課税を提起したがまともにとりあげた国は皆無ではなかろうか。もちろん学者の言辞にいちいちつきあっていたのでは仕事にならないのはそのとおりであるが、残念ながら「格差の拡大」は放置されているのも事実であろう。  

 世界中にそびえたつ天文学的金融資産はカーボンニュートラル時代には人びとにとってあてにならない、ないも同然のしろものであるから、これは人びとからみればなくてもいい、つまり化石資産といえるわけで、であるなら本当にないことにすればいいのである。ひどい話ではあるが、化石燃料で形成された金融資産はその裏づけの化石燃料が消失するわけであるから、つまり裏がなければ表もないわけで、桁落ちさせてもいいと絶対多数が決めればそうなるのではなかろうか。

 というようにカーボンニュートラル時代には金融資産の再定義が必然といえる、でなければ私たちは新しい時代をむかえられない。

◇ では価値体系はどうなるのか。個別の財貨・サービスの交換がどのように秩序化されていくのか、これはわからない。 

 ただ「化石燃料時代の通貨がおなじように再生エネルギーを動員できる」ことについては筆者は否定的である、理由は説明できないが。逆に大量の化石燃料でつくられた物財は希少性をもつから交換価値はたかまるであろう。「ものとこと」といった価値の二極化がつよまり、映画の右半分が石油文明の古い時代、左半分が脱炭素の新しい時代といった感じで屏風のように双曲的に表現されるかもしれない。それは歴史的には断絶であり、ひとりひとりの国民にとっては悲喜劇さまざまであろう。

◇ こういった各論はたいへん重要であるが、それらの議論のプラットホームとなる炭素予算そのものが霧のなかにある。霧でぼやけているだけなのかあるいは実態がないから見えないのか、それすらわからない。

 しかしぼやけているとしても2020年代を、脱炭素社会の構築にむけてよろしく総論と各論を統合しもって効率よく諸政策を遂行していくべきと日々使命感にもえている人びとにしてみれば一日でも早くその方向性や温度あるいは匂いをかぎとることが事の成否を左右する鍵であるのにと、内心焦っているであろう。これは本来政府の役割であるのだから国際的にひらかれた、また連携した国内パネルをはやく設置すべきである。今世紀におけるもっとも重要な国際基準となる炭素予算についての国内議論をそだてることがたかい戦略性をもっていることを理解すべきである。

 この国際基準の重要性はたとえば携帯電話の産業史を分析してみるだけでじゅうぶん理解できるであろう。核となる技術の競争力は国際基準に採用されることで確立するものであり、圧倒的に先行しているのであればその実態が基準となるが、そうでない場合は交渉と妥協がひつようである。この指摘は主題からはなれるのでべつの機会としたいが、いい意味でもわるい意味でもわが国は島国であるから国の指導者は国際基準のことをよく理解して外むきに構えてほしいものである。

◇ さて、炭素予算の運用をどうするのか。定義と配分、権限構造、検証、指導と制裁といっただけでだれでもふつうは茫然とする。しかし気候変動対策の基本は強制である。とキーをうった瞬間から強烈なはねかえりが筆者をおそった。それは「基準を強制する」とは違反すれば制裁を実行することだが、といっても本当にできるのかと自問するのである。現在の国際機関の建てつけはそうはなっていない。プランだけの組織といっていいすぎではないだろう。だから強制調査権なしでなにを検証するのかというWHOの新型コロナウイルス調査とおなじ壁がたちはだかっている。各国ともこの壁の存在を知りつくしているから、おそらくジタバタしていないと思われる。

 しかし人類にとって、あるいは今風にいえば「人新生」の危機ではないか。であるにもかかわらず炭素予算についてはまとまらないかあるいは実効性のないプランにおわるだろうと予想するのはとても悲しいことである。残念だが国家主権の壁はそれほどまでに厚いのである。

 ここで、もし「ていねいな話しあい」で事がすすむと考えているとしたらそれは本気で立ちむかおうとしていないからだと断罪されるだろう。だれが断罪するのかわからないが、くどいようだが先延ばしできるのならそうすればいい、それが世界の平和にいちばん貢献できる、しかし事態は急をようしているというのが専門家の結論であって人類にとって決して失敗できない、失敗すれば灼熱の地獄とはいわないまでも生態系の破壊をまねくのだから必ず合格点をとらなければならないのであるが、そのためには国際社会がどこまで団結できるかということである。しかし国家主義を超克できなかったとか進歩主義が羽根飾りにすぎなかったとかあるいは保守主義が既得権益だけのへ理屈であったといった赤点のオンパレードになりそうな悲しい予感がモクモクともたげてくる。それではダメである。そういうことならグレタ・トゥンベリ世代に全権委任したほうがいいのではないか、そうでなくとも民主政治における世代決定権という難問がひかえているのだから、意図しないとしてもだらだらとした時間稼ぎこそが人類にとって破滅の道であることを思いしるべきある。

◇ 近未来のことではあるが、国には炭素予算の運用という重大な任務が生まれ、個人にもそのレベルにみあった炭素予算への対応がひつようとなる。たとえば個人使用の化石燃料のわりあてと管理であるが、不正を前提にシステム設計をするのなら人権をないがしろにした監視社会が効果的といえよう。という主張があったとしてもわが国では世論がゆるさないであろうから、既存の法体系でなんとかしのいでいくとしても何かしらのシステムは必要であるが、マイナンバーの不人気や利用制限の厳しさを考えればシステム作りはずいぶんと難渋するであろう。炭素税をはじめ価格への転嫁はとうぜんとしても生活必需分の手当はひつようである。価格政策では調整がむつかしいとなると現物給付となるが、実質配給制度ともなれば今のままでは手間ひまがかかりすぎでとてもクールとかスマートとはいえない。国の借金が世界一でさらに化石燃料撲滅運動の結果「エネルギー小国」にならざるをえないわが国としてはせめてIT化ぐらいはまともにやってほしいものである。医療もふくめ国民への各種サービスの生産性がここまでひくくまた発展性もとぼしいとなると、カーボンニュートラル時代には生きのこれないだろう。

 さまざまな意見をたいせつにすることは民主主義国として立派ではあるが実利をうしなっては意味がない、過度のプライバシー保護が国民生活に不便をきたし将来の発展を阻害するようではなにをかいわんであろう。

 遅れすぎているがゆえに統制的手法が逆に幅をきかすかもしれない。わかりやすくいえば個人のプライバシーを守るための抵抗が功を奏した面があるぶんそれを逆手にとった国の巻きかえしすなわちハードランディングを心配するのだが、行政の各面においても省エネあるいはシステム改革がひつようであろう。

《その2 おわり》

◇比叡降り汗吹き出す蕎麦庇

注)下線、いんし→んし 訂正、25分の1→25分の1(4%) 追記、衝立→屏風 訂正。

加藤敏幸