遅牛早牛

時事雑考「2021年猛暑に気候変動問題を考える-さまざまな疑問その3」

◇ 今月(2021年9月)3日、菅義偉総理が感染症対策に専念するため総裁選には出馬しないと自民党役員会で表明した。前回の弊欄(8月29日)では「わるいが、すでに選挙管理内閣的ではないか。」と評したが、結果だけまぐれあたりとなった。突然の転回に驚いている。

 事後に解説するのは報道や評論家の役割である。ところですべての責任をひとりに押しつけ一件落着としたい人たちもいるだろうが、民主政治は共同責任であることを忘れてはいけない、私小説であってはいけないのだ。

 ほんとうに崖っぷちであったがこれで総裁選で満身創痍になることは避けられたわけで「よかった」と思っている。落ち目の王を屠る惨劇を目にしないだけでもよかった。「王殺し」は民心を荒廃させるから避けるべきである。真相は知るよしもないが進言があったとすればそれを多としたいところであるが、他言はいただけない。

 病をもって二度目の途中退場をした安倍晋三氏のあとを襲っての就任であった。筆者は安倍政権のあとしまつ内閣と位置づけたがつかんだ権力に心は千々に乱れたかもしれない。あとしまつに徹しておれば違う道がひらけたのではないかと思っている。それほどに安倍政権のあとしまつは簡単なことではない。それは民主政治の本質にかかわるもので、官房長官として共謀の立場にあったわけだから自分のあとしまつでもある。まあ常人には難しいことであろう。

 しかし、いいところを残すためには自分たちの手で悪いところを取りのぞくことが必須であった。また、感染症と五輪に苦しんだ一年であった。気候変動(削減目標の強化)やデジタル庁また携帯電話料金などは後世にのこると思われる。それでもとうぶんは雑巾のようにあつかわれるだろうが、感染症対策に専念することの意義はちいさくはないと思う。それにしてもはやく辞めろとばかりに責任追及していたのに辞めるとなると敵前逃亡だと批難するのはおかしな話である。総裁任期満了なんだからとやかくいうこともないだろう。遅きに失した面もあるが決断を多とし送辞としたい。

 これで総選挙に自民党は表紙をかえて臨むことになるが「かえてもかわらない」ことになるかもしれない。また、野党がこまることが最高の戦略だと考えているだろうから、新総裁のキャラによっては攻守ところをかえての選挙になるかもしれない、そうなると野党にとって油断のできない事態である。前回の弊欄で「『菅総理での選挙のほうが有利』といったかるい発想ではとんだ落としあなにはまることになりかねない。」と記し、立憲民主党に注意をうながしたつもりであったが、易きに流れる気質はかわっていないようだ。

◇ さて、気候変動問題であるが《その1》《その2》で総論らしきものを述べたので今回は各論としてとくに自動車のEV化などを対象とする。(漢字すくなめ、かな多めについてはすこし弛めることにします。)

◇ そこで自動車はどうなるのか。EUでは2035年にはガソリン車の販売を禁止するという。これは本格的にEV(Electric Vehicle)路線をとるということであろう。EVとは電気駆動車であるから車体以外でいえばモーターと蓄電池が中心部品である。また部品点数も約半分程度に減少するうえに、内燃機関にくらべれば蓄電池プラスモーターはあつかいやすい。また構造も簡単である。さらにトルク特性も優れていることから、設計上も自由度が高い。それにもかかわらず自動車が誕生してから100年以上たってもEVが主流になれなかったのはひとえに蓄電池の性能が不十分だったからで、現在では高性能リチウム蓄電池が普及していることからおおきく道がひらけたといえる。

 ということから自動車産業は蓄電池プラスモーター中心の技術体系に突入することになる。さらに自動運転の開発がすすめば「運転する乗り物」ではなくなることから新概念の移動運搬手段の登場ということで、その利用開発が新規サービスを創造することになるだろうとビジネス談義が活発になっている。もちろん数年先には市街地では5GをこえるICT環境になっていると思われることから、むかしの空想物語が実現する可能性がたかい。他方、楽しみとしての運転はどうしてくれるのよという声がのこる。

◇ 蓄電池の性能が上がればあがるだけその活用が進化しさらに用途がひろがることになる。もともと高性能蓄電池には強いニーズがあったが、いかんせん技術がおいつかない状況にあった。

 それが、ようやくリチウム蓄電池が開発され携帯電話をはじめ私たちの生活シーンをおおきくかえたのである。ドローンも小型軽量モーターと蓄電池があってはじめて実用品となるわけで、さらに電動航空機、電動船舶の開発がすすむと思われる。また数はすくないが通常潜水艦はむかしからヂーゼルエンジンプラス蓄電池でそもそもがハイブリッド型といえる。

 また世界に散在する貧困地域、孤立地、難民キャンプなどの生活電化を考えれば太陽光発電あるいは風力発電プラス蓄電池が最適であることからSDGsの達成のためにも蓄電池の需要はうなぎのぼりと思われる。しかし問題は需要をみたすほどのリチウムが地球上に存在するのかということである。需要増が可採埋蔵量をふやすとはいえ、もとはレアアース、レアメタルであるから供給面で難問をかかえることになる。たらなければポストリチウムに莫大な資金があつまることになるから新しい蓄電池の出現は時間の問題ともいえるが、できなければ致命的である。

◇ さてこれからの世界は高性能蓄電池を中心に産業が編成されることになる。このような技術革新による変革の波はふるくは石器、土器、青銅器にはじまりそれをおうように鉄器、金属、磁器、コンクリート、天然繊維、化学繊維、プラスチックなど新素材の発見がつづき、また蒸気機関、内燃機関が発明され、それらをもちいた航空機、船舶、自動車といった輸送機器が開発された。また、産業機器あるいは生活機器あるいは通信機器や映像機器さらに情報活用や情報処理などソフト技術の発展と普及が通信ネットワークと相乗しながら今日の情報社会の扉を開けた。これらの技術は精密部品や電子部品あるいは半導体素子により高密度化を促進し、超小型軽量化が新たな利用をうみだした。これらの技術革新は相互に連関・相乗しながら急速に発展したもので、現下の技術体系や製造技術の壮大な全貌をまえにしたとき何人もことばを失うであろう。

 まさに人間業とは思えぬ巨大システムであり、完全に全体像を把握するのはなかなか困難である。そしてそのなかにもちろん高性能蓄電池も輝かしい一角をしめているのだが、気候変動問題がそれをさらに重要な主役におしあげようとしている。

 

◇ ということから、EV化がレシプロエンジンを駆逐することにともない樹状に発展していた一連の製品体系と技術体系が不要のものになっていく。できたてのアルミダイキャストの銀色に輝くエンジンの美しさ、さらに研磨されたシリンダーやバルブは芸術品ではないが人びとを魅了する美しさをもっている。またりりしいギアをしたがえたトランスミッションも見あきることのないものである。こういった恍惚の表現もあと十年もすれば本当に博物館へいってしまうのか。

 冗談ではなくこの技術変革のインパクトは広範囲にまた重層的に広がっていく。あわせて技術や技能もあらいながされ仕事を失う労働者もおおいと思われるが、こういった現象は過去においてたびたび起こってきたものである。しかし、何事も変化には時間がひつようで、急激な変化は関係するさまざまなシステムをどんどん破壊していくのである。だからこれらの変化を川の流れとうけとめてはいけない。これは尋常な流れではなく洪水であり山津波である。おおくの人がおしながされ濁流にのまれていくのだ。濁流にのまれていく労働者は有権者であるからこのような生活破壊をひきおこす変化を投票行動で阻止しようとするであろう。労働者にとっていかにも理不尽な濁流ではあるがだれもその責任をあきらかにすることはできない。2016年米国でトランプ大統領誕生の潮流となった「ラストベルト」にちかい政治状況がうまれることになるのだろうか。

◇ 筆者は技術革新と経営と労働の三角地帯にあって労使交渉の実務に携わってきた。日本的労使関係との視点でこの顛末を解説する者、あるいは企業投資という観点から分析をすすめる者などさまざまであったが、企業における合理化施策との見方が大勢であった。

 いまでは古典ともいうべきか、主要エネルギーを石炭から石油に大転換した構造改革を労使関係でみれば三井三池の炭鉱闘争であろう。一方、真空管から半導体素子への転換はダイナミックではあったが経済成長という時代のあげ潮に助けられたといえる。

 ほかにもおおくの事例があるが、技術革新の波つまり発見や発明は「予定できない向こうがわ」の恣意によってうまれさらに他律的におしよせてくるから、こちらがわからの制御は難しい。また強度の競争状態にあるばあい、先手必勝とばかりに新来ものを採用する傾向がつよいことから技術革新は必要以上に導入されやすいといえる。これは競争を内在原理とする資本主義体制の宿命であろう。ということから社会にとって不本意かつ不要な新陳代謝が加速されることがおおかったといえる。つまり必要以上に既存システムを廃却し必要以上に資源を浪費する、ということはGHG排出を加速することをいみする。

 もちろん浪費的ではあるが資本主義体制は他の体制にくらべ技術革新を導入する仕組みにおいては非常にすぐれているといえる。しかし浪費的というのは気候変動にたいしては逆に致命的である。今までは到来する技術革新にたいして寛大な態度でうけいれてきたがこれからはそうはいかない。気候変動対策として役にたつのか、脱炭素であるのかという2点からなる審査がまちうけているのであるが、そのまえに脱炭素社会そのものにたいし自らの仕事との関係からどうなのかという素朴な疑問をもつ人びとの判断が政治的にはおおきな役割をはたすかもしれない。職を失うものは食をも失うのだが、職をつうじての社会参加をも絶たれるとなると心安らかではいられない。民主政治と資本主義の両立がゆらぎ脱炭素社会の基盤があやしくなるかもしれない。「掃きだされる」人がふえると19世紀初頭のラッダイト運動とはいわないが世の中ささくれだってくる。

◇ もし、馬のように駆けたいあるいはイルカのように泳ぎたいということであれば風力車やヨットを使えということになるのか。であればそれは文明の退行現象ではないかとどうしても不本意な気分に襲われるであろう。そもそも脱炭素社会は脱炭素文明と併走しなければならないと考えればその脱炭素文明という名の大物役者についてはいささか議論不足にあることは確かであろう。脱炭素文明がその出自からいって石油文明あるいは石炭をふくめ化石燃料文明とは背反、対抗した位置どりをするのではないかと素朴に考えれば化石燃料の利用が一般的でなかった18世紀以前の文明をベースにあれこれ考えていけばいいのであろうが、それは直感的には似て非なるもののように思える。

 いわずもがなの再生可能エネルギー(以下再エネ)や温室効果ガス(GHG)を排出しない原子力エネルギーをすでに手中にしているのであるから脱炭素文明とは再エネや原子力発電に立脚する文明であってけっして18世紀に舞い戻るといった文明の退行ではないことは確かである。しかし潤沢ではないこともこれもまた確かなことである。

 といいつつも大上段に脱炭素文明の全貌を詳述していくには大いに力不足であるので、さしあたり脱炭素文明における脱炭素的娯楽とは何かという未来志向の疑問に答えることがとりつきやすいのではないかと思う。このような問いかけがすーっとでてくるところがなんともポップな雰囲気であるが、議論の核心は石油の大量消費にささえられた娯楽が脱炭素文明において生きのこることができるのかという、すでに答えが知れわっているクイズ問題のようなものである。しかし論議として沸騰のしようがないわかりきっただれでも答えを知っているこの問いかけこそが脱炭素文明のありようを語るうえで最後まで執拗にまつわりついてくる難問なのである。つまり脱炭素文明は強い規範を内蔵する確率が高いという、ただ聞き流せばいいだけの文章なんだが、娯楽と規範というまるで天敵関係のような文脈の中で脱炭素文明と娯楽とならべられると何かしら憂鬱になるであろう。

 けだし娯楽は文明の象徴である。だから脱炭素文明としてじゅうぶん魅力的な娯楽を提供できるのか、すなわち人びとが日々の暮らしの中で楽しみとして憩いとしてあるいは癒やしとして具体的に提供できるものがあっての議論であろう。

 自動車が自動車でなくなるときに文明は娯楽を失うといえばおおげさであろうか。この議論はとりあえずここで留め置き、本論の自動車の話を続けることにする。

 

◇ さて先ほどまでは自動車という近代からの大発明品をどうあつかっていくかについて、供給側からみて脱炭素社会への円滑なつなぎができるよう、あれこれ作業をおこなってきたが、その作業はとうぜん自動車を欲する需要側からみても脱炭素社会との円滑な接合をはかることと密接不可分であり、両者の有機的結合こそが求められているのではないかと直感するのであるが、よくよく考えればそれらもふくめさらに根源となるのは需要の本来的意味であろう。

 いままでは心のままに、つまり心の欲するままに何でもかんでも供え物のように「需要」を膨らませてきたが、これからはそうではないとキツいお叱りをうけはじめたのである。すくなくとも2050年までの30年間は炭素予算の許す範囲でしか「需要」は認められないということになれば、では供給側はどうすればいいのだろうか。もし欲求の多様性が認められるならこの「需要」においてもさまざまな価値観が受けいれられるか、もしくは公平に扱われるとするならA1、A2、A3、、Anとさまざまに現れてくるこれら「需要の子供たち」すべてを受けいれることのできる大きな「需要」を作り、声をあげているみんなを満足させることを目指すというのがノーマルな思考であったが、しかしそんなことが簡単にできるであろうか。たぶん無理だとだれしも思うであろう。需要における多様性の確保が手間だけでなく多くの資源をひつようとするなら、おそらくそうであるのだから、対応は難しいといえる。逆に資源をひつようとしないならば可能であり、対応できるということになる。

 つまり娯楽としての自動車は脱炭素文明から忌避されることになるであろう。それは脱炭素文明の規範性から発出されるものである。この見解にたいし再エネを使うかぎりは肯定されてもいいのではないかという考えがあってとうぜんといえる。しかし、この脱炭素文明が求める規範の本質は「潤沢ではない」ところから発しているのである。潤沢でないことがノーマルなのである。

 たとえば囲われ隠れた私有地内の広大な敷地に敷設された太陽光発電パネルの列から倉庫の蓄電池にため込まれた再エネをつかい思いっきり壮絶な自動車レースに興じるとしても咎めるものはいないだろう、というのが資本主義である。

 それにたいし、この豪壮な娯楽を脱炭素社会が忌み嫌う理屈はあるのだろうか。あるいは脱炭素文明に内蔵された規範に触れるのであろうか。もし触れるとすればそれはいかなる論理であるのか。と問われるならば、この世の中はすべからく潤沢でないことをあたりまえとしているのに、局部的とはいえよだれがでそうな潤沢な世界をつくりだしその甘美さを味わうことは背徳であり大いなる裏切りであると、そう断罪しなければカーボンニュートラルを維持することができなくなる、という原理なのである。不足あるいは不足気味が支配する文明ではそういう厳しい規範が形成されるのである。

 したがって資源が不足気味であることが文明の表面にどの程度の刻みを入れるのだろうかと問われれば、その文明はおそらく「ヤスリ」のように規則正しい刻みを無数に入れられるであろうと答えるばかりである。

 これらの刻みこみはなんらあやしいものではない。普通の反応である、すなわち豊穣でない社会あるいは文明は限りなく豊穣を憎む、これが文明の原理である。その憎しみの深さは豊穣であった記憶つまり失ったと思われる喪失感に比例するであろう。

◇ すこし、御託をならべた感がしないでもないが、要点はカーボンニュートラル時代とは現在の延長線上に存在するものではなくいわば決然と異なるもの断絶したものとして「べつ」に存在するのである。したがってカーボンニュートラルを実践するべき脱炭素社会も現代社会とはべつの類型であり、カーボンニュートラル時代の脱炭素文明も直前までの化石燃料を放埒に消費してきた石油文明とは一線を画した異質なものとして「ある」べきである。くわえて石油文明の典型的な特質は外部環境の変化にきわめて無頓着、無感受でありながら強い外部展開性をもつ非対称性にあり、また内部では放蕩的資源浪費とそれらにたいする規範の弛緩傾向をゆうしている。いってみれば怪獣の飲み放題、食べ放題にもにたもので、であれば必然的に終焉にいたるといえる。

 このような石油文明から、私たちがのりかえようとしている脱炭素文明は外部環境にたいする無害性とそれを保障する内部規範性を特長とするもので、すぐれて標準的な文明であるといえる。いいかえれば制限的で抑制的また内向的な性格を有するまた自然をおそれうやまうものであると思われる。それは人類にとって経験ずみともいえる。

 

 

◇ さて各論にもどり、EVにつかう鉄はどうするのかという問題もある。とうぜん鉄についても脱炭素が求められる。およそ3500年前にヒッタイト帝国で鉄器の作製がはじまったとされ(製鉄の起源につては近年のトルコ共和国カマン・カレホユック遺跡調査からさらにさかのぼる可能性がでてきている)、いらい鉄鉱石を高温で炭素還元させる方法が今日までつづいている。それを脱炭素にするためには水素直接還元法に転換する必要があり、コストと生産量によっては鉄が構造材の主役から脱落することも考えられる。さりとてあらたな主役があらわれなければいわゆる都市鉱山(スクラップ材)に活路をもとめざるをえないわけでスクラップの価値が高騰するなど、まさにリサイクル化が進展することになるだろう。このように鉄をとりまく世界もさまがわりということになると思われる。

 また他の部材についても脱炭素素材へのおきかえが急速にすすむと考えられることからさまざまな製造方式の変革に遭遇することになる。余談だが木材が構造材として復活する可能性もおおいにあるわけで久方ぶりに林業の復活をみることができるかもしれない。

 このようにEV化をひとつの事例としてさまざまな検討をしたが、どう考えても激変が予想されることから、さらに生活全般あるいは全産業について類推するならば、これはとてつもない事態であることが明らかになってくるであろう。

◇ 「とてつもない」とはいかにもおおげさな表現とうけとめられるかもしれないが、しかしまずもってエネルギー体系が根本的にかわるわけだから社会・経済の基本形がかわらざるをえないのである。たとえば太陽光発電あるいは風力発電などであれば次世代送電網につながりながらも地産地消型あるいは地域完結型に集約されるかもしれない。地域完結型に集約されるならばその範囲内で直流電流が選択されるかもしれない。このように電源の特性とその利用の効率化が前面におしだされてくるとその地域でつかわれる各種機器の仕様がおおきくかわることが産業全体に逆流することも考えられる。

 このようにある種の可能性あるいは従来にない制約条件を前提に産業構造の変革を思いえがいていくことを図上でおこなっているうちはまだ影響は軽微といえるが、時限をきった国の政策としておしすすめることになればどうしても花園をダンプカーでつききるような力業による不都合が生じやすい。

 私たちの計画力はまだまだ発展途上であって、世の中のおおくは試行錯誤で支えられている。つまり、世の中でうまくまわっているのはおおむね経験に支えられた技術、技能をベースにしているといっても過言ではあるまい。たとえば市場が神の手にあって予定調和的な配合が結果としてえられるものであるなら問題はすくないであろうが、ざんねんながら現実にはドタンバッタン、ギクシャクとしたぶつかりあいのなかで、つまり何回もの試行によってえられた最適解こそが正解として採用されているのである。だから未経験の事例において演繹的に最適解がえられるほどには、わかりやすくいえば計画(設計)通り一発でオーケーがえられるほどには人類はまだ賢くはないのである。

 つまりほどほどの正解でさえそれがえられるまでには無駄とも思えるほどの試行錯誤がやまのように積みあげられるわけで、その一つ一つには人びとの挫折というか悔し涙がへばりついているのである。といった苦労のやまをいくつもかさねながら産業構造はあるべき姿に収斂していくのであろう。

 2030年までにそういった試行錯誤のやまをどれほどつくればいいのか。そしていちばん大事なことはそれらの試行錯誤のやまこそがGHGを大量にうみ貴重な炭素予算を消費していく穀潰しであり、そして試行回数はきびしく制限されるのである。「そんなんじゃまともなものはできゃしない」と練達のエンジニアは嘆くであろう。脱炭素社会にむけどんなに使命感にもえていたとしても「まともなもの」をつくることはずいぶんとむつかしいのであり、人物金さえ用意すればなんとかなると漠然と考えている指導者たちには人物金をどんなにそそぎこんでも「できなければできない」という現実を理解してもらわなければと、ここ百年のいちじるしい科学技術の発展があるからと根拠のない全能感をおもちのかたがたには現実はそれほど甘くはないことをわかってほしいと思っている。いずれの成功事例であっても十年をこえる助走期間がひつようであったことをつけくわえたい。そういう意味では2030年も2050年も近すぎるのである。

 

◇ さてここで筆者がもっとも主張したいことを要約すれば、工学は経験科学であり試行錯誤つまり失敗と実験によってしか確信をもちえない文明の実用的手法であることから、製造方式の刷新とか変革にはぼうだいな「失敗」が必然的にふずいするもので、2050年の脱炭素社会の実現のためには炭素予算が「余分に」ひつようであること、またその見積りは推察できても確定できないということである。

 さらにつづければ、脱炭素社会を維持するための「脱炭素システム群」にもちいる装置などを地上のどのエネルギーをもちいて開発、製造するのか、これにも厳しい制約がかかってくるのである。のこり420Gt(4200億t)しか放出できない環境下で、どのような手続きで重要な装置をつくるための炭素予算の配分をうけるのか。うまくシステム化できるのか不安はつきない。

 そのうえ昨日につづく今日をささえるためのさまざまな経済活動にどうしても炭素予算がひつようであるからその配分をもとめることになるが、これは資本主義経済とは異質な世界である。

 また経済の自由とはなにかがあらめて問われるうえに、経済活動の倫理性があらたな制約として以前にもまして、否ますというよりも何倍もの重さで覆いかぶさってくることになるかもしれない。この倫理面での制約は後述する「炭素倫理」ということで検討するが、人類史上過去に類例のない「あらたな規範」の創出をしなければならないほど人類はおいつめられているといえる。すなわち自由にやられたのではGHGの排出をおさえることはできないのである。

◇ 資本がもつ自由とは、資本の責任において資源を調達動員できるから自由なのであって、それが世界の共通財として厳重に管理されている炭素予算のわりあてつまり配給をうけないと新製品の開発製造はおろか通常の経済活動さえままならないとなればそれは地球規模の完全な統制経済であって、いつの間にか共産主義におおわれたような錯覚におちいるまことに前代未聞の事態といえるのである。

 さらにいえば、地球温暖化ガス(GHG)の排出あるいは排出につながるあらゆる活動はその活動にひつような炭素予算の配分(排出許可)を管理機構からうけなければならないことになる。この管理機構とはなんであろうか。またその管理機構の上部組織とは何か、いわゆる世界政府なのかといったいきなりの展開を筆の勝手な動きといいわけしたいのだが、ここはどう考えてもそういうことになるのである。

 そんな短期間に世界政府をつくるなんて、少しでも世界の近現代史を学んでいるのであれば決して思いおよぶことのない、不可能の三乗のようなアイデアにほとんどの人はきっとバカバカしくなるに違いない。しかし、IPCCの議論をそのまま前にころがせばつまり議論の流れにそうならば、炭素予算は必須のものでありその管理運用のためには管理機構がひつようでそうなればとうぜんのこととして世界政府が必然と論理的にはそうなるのである。

 だから根っからの自由主義者の一団が意をけっしてその進行を妨害しようとしても何らおかしくはないのである。ただ妨害運動は問題のさきおくりにすぎず、その間事態がさらに悪化するだけで、それがもたらすものは地球上のだれもが期待していないGHG累積量のさらなる増大であり、妨害運動はガス増大運動にひとしいといえる。

◇ この気候変動問題のむつかしさはいくつかあって、一つは重要な議論のおおくが確率にもとづくもので断定調ではないこと、二つは元にもどすことがきわめて困難であり取りかえしのつかないポイントがあるが正確にはわからないこと、三つは世界が一丸とならなければ対応できないこと、四つは化石燃料の使用を禁止したばあいの完全な代替策がまだないこと、五つは日々悪化していること、六つは大気中から温室効果ガスを人為的に回収することがきわめて困難であることなどである。

 とくに取りかえしのつかないポイントについては産業革命時期との比較で上昇温度を「2℃できれば1.5℃以内に」おさえるとの方針から読みとけば2℃付近では確率的にあぶないかもしれないということで、この場合の確率は66%の確からしさを使っているようであるが、日常的には90%あるいは95%でないと「まあだいじょうぶでしょう」とはいえないのではないか、といった感じの世界である。66%というのは3回に1回はそうではないことが起こるわけで、けっこうキツい話である。だから素人目にはIPCCに参加している専門家は度胸があるというのかすごいなあと思ってしまうのである。

 今回は、供給サイドからの雑考であったが、需要サイドについては炭素倫理をふくめ次回とし、つづいて地球規模での炭素予算の管理や「失敗する予感」という恐ろしい話は次々回と考えている。これはあくまで予定として。

◇ ぴょんと降り蚯蚓ついばむ痩せ雀

加藤敏幸