遅牛早牛

時事雑考「2021年猛暑に気候変動問題を考えるーさまざまな疑問その4」

◇ 9月16日秋分が迫る。今年も大雨が心配である。さて、自民党総裁選がかまびすしい。予想どおり総選挙に向けての紅白試合の様相を呈しはじめている。

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 「ぶっ壊したはずなのにご子息がおなじように語るぐらいの小芸では大向こうからの声はかからない。それにしても優柔不断と目されていた判官が意を決して館の魍魎退治を宣言したところまでは戯作としては平凡ながらも久しぶりの活劇かと一同総立ちになりかけたが、これぞ鬼の霍乱かな関白自ら魍魎に刃を突きつけたものだから魑魅が魍魎を討つなど前代未聞とばかりに床板を踏みならしての大ブーイングに関白こらえきれず扇子を落としたところで幕が下ろされた。いよいよの二幕が上がらぬうちから踊りでたのは河野乃守、振り上げた拳のおろし先を失い暫し自失の判官殿を横目にサッサッと関白跡目を名乗りでたから町衆の喝采のおおきからんことまさに近年比べるものぞなし。さて二の幕が上がりきったその舞台に気がつけばお市の方が高下駄佩剣の男装束にて野郎歌舞伎にあらず娘歌舞伎にもあらずと大剣を振りかざしての一舞いに賑やかし気分もあってかやんややんやの大声援ありいっときの思わぬ盛り上がりに当代役者番付も刷り直しかと世情の苦難を脇においての大騒ぎこそ尋常にあらず、これではさすがの昆濾那(ころな)も手出しができまいと喜びあったそのときに舞台袖に手をかけてしばらくしばらくと声を張りあげるも気づく客こそ少なからん。さように火を吹くがごとき熱気ではあるが小屋外は通る人影もまばらで秋影引きながら懐寂しく家路を急ぐ諸人は昆濾那退散をただ願うばかりなり...」といった歌舞伎演目に沸く永田町芝居小屋は月内活況を呈すであろう。

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 さて、「かえてもかわらない」政治法則を忘れてはならない。党内疑似政権交代がまやかしであったとの知見は国民的財産でなければならない。それを忘れ旧弊になびくのはメディアの商業主義に原因がある。前任への過酷な批判なくして真の交代とはいえない。つまりアベスガ政治の徹底的な反省なくして前進はないのである。という意味において目くらましでありまやかしではないか。

 「かえなければならない」のは政策であり制度であるのに表紙をかえてことをすまそうとするのは民主政治の堕落である。まして人気幻灯劇は厳に慎んでもらいたい。今のわが国はそんな場合ではないだろう、これは小学生でもそう思っている、つまり被害に遭っているのだ。

 手をあげた面々の浮かれた気分にこちらの気分が悪くなりそうで、感染症対策の緊密化を国民に要請しながらあたかも総選挙の予行演習をなすがごとき報道ぶりに「だれが協力するのでしょうか」と問いたい。

 それにしても今ごろアベノミクスの検証かと思いつつも批判あるいは検証のものさしを確認し確定させることは政党にとってきわめて重要であることから急がばまわれということもあるのでここはぐっとこらえて、立党は立論からではないかとつぶやきながら現下の政局については筆をおくことに。

 (今回も気候変動問題についてとくに需要面から雑考しています。引き続き漢字ややすくなめ、かな多めです。)

◇ GHG排出削減を効果的にすすめるためには供給側と連動しながら需要側の改革もおしすすめなければならない。もちろん資本主義体制を前提にしての議論となるが、かりに資本主義体制の本質のひとつが自由な需要構造にあると考えるのであれば、脱炭素経済がみずからの需要構造にこれまでとはちがうものつまり強い抑制を求めるとなれば、抑制の程度によって議論が分かれると思われるが、実質的には「改造」資本主義とよぶべきではないか、つまり資本主義体制の本質におよぶのか、という疑問が浮かびあがってくる。

 この問いにさしあたり答えをしめすことはできない。それは筆者の力不足のせいもあるが、どうじに気候変動問題と経済体制の関係についての議論がまだまだ不足していることにも原因があると思う。もちろん経済学の素人である筆者は労働運動における政策・制度課題へのとりくみをとおしてえられた知見や議員活動における国の経済運営へのかかわりなどの経験を土台にそれこそ雑考を重ねてきたのであるが、いまでも頭を悩ませることのひとつに、ひろく「経済学」がどんな役に立っているのか「しかとわからない」のであり、そもそも経済が経国済民から造語されたといわれながら昨今の格差拡大あるいはその結果としての貧困などにたいして「経済学」がりっぱな役割をはたしているとは思えないわけで、むしろ金融工学などは「大金持ち製造工学」ではなかったかと、冗談まじりにくちばしっているぐらいである。

◇ 「資本主義の暴走、社会主義の堕落、民主主義の危機」という三題ばなしを退任後の講演活動のカンバンとしてきたが、つみ荷のあまりの重さにほぼ沈没状態にいたっている。もちろん『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著)には共感するし、なんともいえない悲観のなかの安定感にずいぶんと励まされているが、これが時代の大勢となることができるのかと心配もしている。

 ところで、今日の世界が「暴走と堕落と危機」といわれながらも甘い爛熟の匂いとかすかな腐爛臭とのベストミックスなる繁栄の極みにあり、それに力を与えつづけているのが化石燃料であることは事実であり現実でもある。その化石燃料がちかく禁忌となる、今日よりも明日、明日よりも明後日と日暦をめくるたびにその禁忌はいっそう厳しくなっていくであろう。

◇ ということは、それらの化石燃料撲滅運動ともいえる禁忌がここ数年にわたり筆者が懸念してきた「資本主義の暴走、社会主義の堕落、民主主義の危機」という基本テーマにどういう影響を与えるのか、とても興味深いことで、とくに資本主義の暴走のエネルギー源が化石燃料であるとすれば、化石燃料撲滅運動が資本主義の暴走を燃料切れに追いこむなんてすごくファンタスティックだといささか興奮している。しかし暴走の原因の解明や後始末をまつことなく資本主義がたんなる燃料切れで暴走をやめるなんてまるで漫画のようである。

 そういった揶揄をうけながら、それでも資本主義の暴走の仕組みとその処方にたちいたることなく脱炭素文明と相性のよいポスト資本主義を手早くものにしようとなりふり構わず立ちまわっているが、しかしそれではすこし虫がよすぎるのではないか、と思う。そもそも資本主義の本質は自由な需要にあり、そして自由な需要の根っこには欲望の開放があると考えている。さらにこれらの欲望の開放を王侯貴族や権力者あるいは大地主や資本家にとどめることなく普通の人びとに擬似的な側面を残しながらもひろめていったのは民主主義や進歩主義だったことも確かであったし、それが近代の時代精神の一面であったとうけとめている。

 そういった視点でいえば人びとの欲望の開放は、表現が直接的すぎるかもしれないがその時代における正義であったと思う。すなわち歴史上類をみない圧倒的な物的生産力、あるいは人力を何十倍、何百倍にも高める機械の発明と化石燃料の存在が、とどまるところを知らない欲望の開放をささえついには正義にまでおしあげたといえる。だから、需要構造を脱炭素の視点で考える時にはまず欲望の種別とその開放のありようについての認識を集約するべきではないか、なぜならそうしないと、たんに欲望をとじこめる「禁欲主義」だと誤解され、それでは近世にかえる時代退行だと思われ、脱炭素社会への誘いという重要なコンセプトが置き去りになってしまうからである。

 つまりあくまでGHGとのかねあいで欲望の開放について議論がおこるのであって、GHGの排出をともなわない文芸活動などは論の外にある。というのが欲望の種別や開放のありようにかかわる議論の重要な側面である。

◇ さてそれにしても、欲望の抑制すなわち禁欲が社会的、政治的に受けいれられるのか、とくに気候変動にかかわる重要な議論のさなかにあって、禁欲を前提に効果的な合意にたどりつくことができるのかが重要なのである。たとえれば不利益変更つきの改訂に賛成してもらえるのかという、労働組合でいえば大赤字をまえに労働条件の大幅改悪に踏み切れるのかという課題にちかいのである。いずれにせよ「欲望の開放から欲望の抑制へ」といった抜本的なパラダイムの変更がなければことはまえに進まないことだけは確かである。

◇ つぎに社会主義の堕落とは、社会主義国として目指すべき目標があるにもかかわらず、なぜか資本主義のまねをして改革開放などといいながら欧米先進国の後衛で小康に甘んじている革命家の末裔にたいし従前にまして格差拡大に成功したなどと嫌みをいうのではなく、そんな風にうまく使われてしまった社会主義自体のだらしなさを衝いているのである。そもそも脱炭素経済への移行にあたって、供給も需要も統制下におくことができる体制をもっていながらなぜか脱炭素社会へ一番乗りできないうえに、気候変動の被害を人びとにまき散らしているのはどういう了見なのかといいたい。とはいっても脱炭素経済への移行が社会主義への原点回帰のきっかけになり堕落から脱却できるかもしれないとすこしだけ期待している。というのも脱炭素経済はベースとなる可処分すなわち自由に使えるエネルギーが再エネなどによって満たされれば資本主義経済色をつよめ、それがおおきく下まわるようであれば社会主義経済にちかづくと思われる。また2割も足らなければ戦時下の統制経済的な手法を取りいれなければ資源配分がゆがめられさまざまな混乱が生じるのではないかとあくまで独断ではあるが、そう考えている。とくにエネルギー資源の配分を政府が差配する統制経済体制の可能性が高いと考えている。

◇ さいごに、民主主義の危機をどのように定義するべきかといった議論のまえに、富の偏在、格差の拡大がだれかの画策によるものなのか、あるいはだれに利益があるのかはっきりさせるべきであり、また想像を絶する富の偏在が生みだしているおぞましい現実こそが民主主義のめざすところであったのかとも、くわえて異様な格差状況のなかでなお民主主義が名実ともに守られるという保証がどこにあるのかとも聞きたいわけであるが、だれに聞けばいいのかが分からない。

◇ 民主主義と専制主義の対立などとおよそ現実ばなれした争いが喧伝されているが「足元を見よ」といいたい。格差拡大とその結果としての貧困は専制政治への志向をつよめるが、ぎゃくに民主政治にたいしては不信をつよめ無力感をはぐくむと思われる。だから、ばあいによっては生活水準をおおきく切りさげなければならない脱炭素社会への移行の是非を選挙で問うとすればかんたんに否定されるかもしれない。すなわち足元の格差と貧困の解消なくして脱炭素社会などかたることはできない、というのが民主主義を標榜する国々への警告である。本当のところをいえば事態はさらに深刻であって、相対的貧困層が民主主義あるいは民主政治を信頼しささえなければざんねんながら民主主義の落城の日はちかい、つまり自壊するかもしれないということである。

◇ もし絶対多数が脱炭素社会を受けいれないとの意志を表明したとき民主主義的手続きだからといって現状の炭素社会にとどまることはとうていできないであろう。もしとどまることが許されるならば直ちにすべての国々はそうするであろうが、それは私たちにとって破滅の扉を開けることに等しいので許されない。

 この問題については国家として孤立主義はありえないし、もともとそんな選択肢などないにひとしいのである。

 ということであれば脱炭素社会への移行を円滑化するための条件整備として格差と貧困に苦しむ人びとの納得が必須条件であるとするならば、たとえば私有財産を制限するといった反富裕層政策を中心とする反資本主義的政策に傾斜せざるをえないといった政治的摩擦がおこりうるであろう。これは筆者の願望ではない、そうではなく大げさにいえば歴史のしめすところである。いずれにしろ反資本主義的政策といっても穂先だけなのか、茎からなのか、それとも根っこからなのか、その判断はとても緊迫した状況でのことであり、おそらく手に負えるものではないと思う。

◇ 最近おとなりの中国ではさまざまな政策転換がみられはじめている。それは彼の国是に由来するもので、時の権力者の独断だけとは思えない。専制体制とはいえポピュリズムもあるはずで、いずれ原点回帰はあるだろうと予想していた人も多かった。「だって共産主義ではないか」というひと言の説得性に勝るものはないようで、だから「共同富裕」はとうぜんの帰結でありりっぱな旗印だと思う。

 もっと早くやるべきではなかったのかとも思うが、ようやく主義主張における堕落に気づいたのか、とはいっても共同富裕の経路は複雑で険しい。いわば改革開放に熟達し資本主義のもっとも甘美な浴泉にひたっていたのだから、富めるものが地上に降りるのはたいへんなことであろう、とくに中国社会では。

◇ (参考) 脱炭素経済とはカーボンニュートラルを受けいれそのための方策たとえば炭素予算などを前提に経済を動かすもので、そういった経済を組みこんだ社会が脱炭素社会である。また脱炭素を基本原理あるいは主要価値とするのが脱炭素文明である、と考えている。

◇ さて需要構造のあり方であるが、まず脱炭素社会においては電気もガスもガソリン・灯油も使い放題というわけにはいかない。使い放題というのは支払い能力の範囲内でという条件があるのだが、「使い放題にしない」というのはたとえ支払い能力があったとしてもまた当人が強く望んだとしても「供給しない」ケースがあるということである。

 とくにEV化がすすめばすすむほど電力需要が爆発的に増えるので、計画的に発送電を増強しなければならず、計画的というのは爆発的にのびる需要をみこして早めに大規模投資をすませるということで、体力の落ちた民間会社単独では難しい。またとうぜんのことではあるが石炭・石油・ガス火力発電はご法度になるので電源種別でいえば太陽光発電、風力発電、地熱発電、バイオマス発電その他ということになるが、それらの新規設置についてはいずれも制約条件が厳しくなることから完成まで時間がかかることがおおくなり、間にあわなくなるのである。

 だからどうしても電力は需要過多となる。すなわち供給不足が日常化するので広域停電というリスクをかかえることになり、文字通りお先真っ暗となるのである。ということから「電力の需要抑制」がうまく運ばなければ脱炭素社会に移ることは夢物語におわる。

◇ この議論は、原子力発電への反対あるいは反感が強すぎて自民党でさえ腰がひけた状況にあることから「生煮え」状態がつづいている。電力を中心にエネルギーの安定確保は国の重要責務のひとつであるが、その主要パートである原子力発電についての議論が生煮えではどうにもならないではないか。たとえば「安全な原発の再稼働は容認」してあげるが「新増設」はダメよという論理性を欠いたラインが相場のようであるが、フクシマ事故の反省から規制基準が厳しく強化されるなかで各事業者は巨額の費用を投じていると報道されている。では新規制基準をベースに新増設されるものが既存施設とくらべ安全性において劣後するのか。建築基準法でよくある既存不適格などは許さないバックフィット(遡及適用)を採用しながら再稼働がすすまないのはどうしてなのかという素朴な疑問についてだれが答えてくれるのか、まったく心もとないかぎりであり、さらに再稼働は容認するが新増設は認めない理由の説明もない、これではまえにすすまない。原子力発電の位置づけを明確にしないかぎり脱炭素社会のアウトラインは描けないと思う。またここは政権をめざす政党ならしっかり説明をすべきと考えるが、現状はストレスがたまるだけである。

◇ ところで先ほどのべた「使い放題にしない」ことをしっかり担保するのはなかなか容易なことではない。ともかくどのような制度を取りいれるのといった合意だけでもむつかしく時間がかかりそうである。もちろん価格による需要抑制の一環としての炭素課税の導入は再エネ開発のためにもひつようである。しかし現実にどのような税制度にするのか、目的との関係でさまざまな意見がでてくるだろうし、また2030年までとその後とでは税の役割が違ってくる可能性が高いであろう。また現行の消費税とのかかわりも微妙であり、そもそもだれが納める税なのかと考えれば難しさが浸みてきて、筆者でなくとも途方に暮れると思う。

◇ また需要口では電気に色がついていないので再エネ、原子力、化石燃料など由来による料金区分はできない。電源構成の具体計画をふくめ政府として電力需要抑制策を提起することになるのだろうが、再エネ投資にまわす課税と需要抑制をはかる課税とでは性格がちがうだろうし、総需要抑制なのかエネルギー需要抑制なのか、はたまた化石燃料懲罰課税なのか具体的なイメージは今の段階でははっきりしていない。

 ところでもうしわけないぐらい昔の話であるが、1950年代は家庭用電気製品の普及もあって恒常的な電力不足になっていたが、よく玄関先のヒューズが溶けていたのをおぼえている。もう半世紀以上まえの話だが需要に供給が追いつかなければ同じことがおこる。家庭であれば炊飯器はとめられないのでアイロンがけを中断するなど工夫の余地があるかもしれないが、病院とか工場はたいへんであろう。今後EV化がすすめば家庭用も事業用もさらに容量増がひつようになるがこれでは需要抑制とは波長があわないことになる。

◇ 電力価格については超過累進制の導入が予想されるが、事業者であればエネルギー価格は課税分もふくめ最終消費者へ転嫁できるが、けっこう感じの悪い制度になるであろう。

 また家庭用ガスについては時間をかけてオール電化へむかうと思われる。これは脱炭素を優先する視点からの発想であって、最低生活をいかにささえるのかといった視点でいえば強硬な価格政策は貧困層の生活破壊につながることから、折衷的ではあるが家計への現金給付のささえがひつようになるだろう。とくに夏期の猛暑、冬期の寒波などは命にかかわるので、脱炭素優先でつきすすむと社会問題化することはさけられないだろう。

◇ 急ピッチで脱炭素経済へ移行するためには効果的な需要抑制策が当面の政策目標として掲げられるのはとうぜんであろう。しかし、どこまでいっても国民の生活が一番というのは多少迎合感がのこるが政治的には「正しい」ことであるから、とりわけ低所得層については生活支援策とのパッケージ化が求められることになる。さきほどの家庭用ガスをみてもプロパンもふくめ煮炊き温水暖房用などなかなか捨てがたいもので、たとえば今後10年間で全国規模でのオール電化を推進するとすればさまざまな費用負担だけではなくガスコンロをIH調理器にとりかえる作業負担も膨大である。こまかいようであるが、飲食業の現場がたいへんなことになる。IH調理器メーカーにとっては特需だろうが一巡すればいらなくなる工場をあえてつくるのかといった声もでてくるであろう。

 さらにオール電化は銅材の値上がりをまねく、といった具合に問題の連鎖がつぎつぎとおこるであろう。このように問題が波紋のようにひろがるたいへんな事態であること、またすべての人を巻きこむ地球規模での大騒動であって、ほんとうのところ出口にたどり着くことができるのか今はなんともいえないのではないか。

◇ ここでの需要抑制策は、すべての需要を対象とするのではなく化石燃料の消費を抑制することが主な狙いであるから通常は炭素税あるいは炭素排出税の導入で落着することになる。炭素税あるいは炭素排出税についてはとうぜん国際的な整合性を確保しながらの議論となるが、新税かつ増税だからあかるい話とはならない。

 また税の価格転嫁については、たとえば娯楽用途は高く、生活用途は低くするといった意見がでてくると思われるが、売買時点での用途証明は手間がかかりすぎるので消費税の軽減税率のようにはいかないのではないか。そもそも電力料金にしても用途別価格などはとても難しくて実現しそうにない。ということで価格政策による需要抑制も各論におよぶとにわかにむつかしくなる。

 

◇ ここでのまとめは需要抑制策として、エネルギー価格を引き上げること、エネルギー種別においては炭素課税によりGHG非排出エネルギーを優位にすること、電力料金は一定の基本量をこえる使用量についてはつかえばつかうほど単価が高くなる超過累進制を採用することなどが重要であるが、しかしこのような仕組みだけではもとめられている抑制水準にはおよばないと思われる。つまりカーボンニュートラルには達しないのである。その理由は生活材や生産材を作るためあるいはサービスを提供するためのエネルギーから排出されるGHGをゼロにするためには、再エネで十分まかなえる体制がひつようであるということになるが、現実はそうはいかない、つまり不足する確率が高いことから不足する分については総需要そのものの縮減をはからなければ帳尻があわなくなる、というのがここでの最大の争点である。

 この議論がなんとかまとめられるための条件のひとつが原発が国民から広く受けいれられることである。つまりカーボンニュートラル達成の条件とは原発を第二の主力電源とし夜間、荒天時など再エネが苦手な時間帯を安定的に補完できる体制が完成することである。不足する電力を価格政策で補うことはできないし、太陽光発電も後発になればなるほど立地が悪化するなど限界発電コストは急速に上昇するもので、とくにわが国は設置については国際的に劣位にあるといわざるをえない。また、既存原発だけでは十分ではなく、新増設についても検討すべきであるが、期待の星である小型炉の開発にしても「間に合わない」、これはハードだけの問題ではなくソフトやコンセンサスの手続きなどからいっても「間に合わない」といえる。もともと立地として難があるところが多くこれからの20年間は電力不足に苦しむことになるであろう。もっとも20年以降も苦しむことにおいてはおなじである。

 余分なことであるが、現在の生活水準を維持するために多くの国は原発依存を加速すると思われる。最終的には政治判断であるが、多くの国はちゅうちょなく新鋭の原発を選択するのではないか。万全をつくしたうえで事故が起これば起こったで適切な対処につとめればいいと考えている国もおおく、国際機関の監視さえしっかりしているならいいわけで、けっしてゼロリスクを目指しているものではない。いい悪いではなく考え方あるいは割り切りの問題であり、ましてカーボンニュートラル時代となれば貧困を克服しだれひとり取りのこさないためにもつまりSDGs達成のためにも多くの国は「小型核融合炉」が実用化されるまでは原発をひつようとするであろう。

◇ さて企業におよぼす影響であるが、これはよくわからない。ただいえることは、エネルギーに余裕のない国が工業国として発展することはむつかしいので、現在の資本のおおくは多国籍企業として世界にちらばるであろう。この20年あまり内部蓄積につとめた企業としては格好の機会をえることになるが、豊富な内部留保は低い労働分配率や負担のおかげでもあるのだが、そこは資本の論理で冷徹に対応していくことになるであろう。(恩知らずとか的外れなことをいってはいけない。資本の論理と労働の論理が真正面から激突する事態が久しぶりに生じようとしているだけである。労働の側もはげしく豹変しなければ働くものを裏切ることになるかもしれないと思うが、そうならないことを祈るだけである。)まあ、人口も急減していくことからいっても2050年には世の中おおきく変わるであろう、とやかくいってもしかたがないことである。

 2030年から2050年にかけてエネルギーも満足に手当できない国が企業をつうじて雇用を守ることなどできるわけがない、と人びとはつぶやくのではないか。

◇ 国際間でおこなわれる排出権取引については、国内では通常価格に排出権部分をふかした取引価格でつじつまをあわせることも考えられる。国内産品についてはその生産にさいし排出したGHG相当分の排出権を海外から購入するのでその代金は国内産品にうわのせすることになる。もしおなじ生産品を排出権余裕国でつくれば排出権価格相当分がやすくなるので有利である。輸送費で逆転することがなければ排出権余裕国へ生産移転するながれがおこり理論上は平準化がおこるが、これも2050年までのことで、カーボンニュートラル時代には再エネあるいは原子力によゆうをもつ国が立地においては有利になると考えられる。

 つまり排出権を市場で売買することで地球規模での最適解がえられそうであるが、排出権といえどもGHGを排出することから時限対策にすぎない。本来炭素予算が排出権の累積最大値であると考えれば、排出権取引は炭素予算のやりとりとおなじことである。もちろん森林や海洋が吸収する分についてはその相当量のGHGを排出してもいいわけで、さしずめアマゾンなどは毎年おおきな収益源となるだろう。

 さて話のおさめかたがみえなくなってしまったが、需要は供給に規定されるあるいは誘導される側面もあり、たとえばEVの供給量が原材料と電力供給の制約により現行の十分の一程度になれば、需要構造自体が変化する可能性がたかいと考えるのが妥当であろう。具体的には自動車から公共交通機関への「むりやり」シフトがおきると思われる。また自動運転EVが時代の寵児になるとも思えない。さらに大衆ツーリズムも航空機をガンガン飛ばしてということにはならないだろう。中世の巡礼とはいわないが質素にせざるをえないかもしれない。 

 それというのも資源不足のなかでの富の分配という難題をかかえているのだから、かつての王侯貴族のような旅行が理解されるわけがない。万力で締めあげられた需要は窮屈ななかで新たな道を模索すると思われる。さしあたってGHGを排出しない分野での文化が芽生えるのではないか。その点短歌俳句は省エネどころかほとんどゼロエネなので有望な分野ではないかと愛媛県出身の筆者としてはひそかに期待している。万事そういうことではないか。

◇ のこる問題は、最低生活を維持するためにひつようなエネルギー消費を国家が抑制することを有権者に是認してもらえるのかというもので、このばあいの政治リスクは簡単にのりこえられるものではないと思われる。そもそも最低生活の基準をだれがきめるのか。自由市場で何をどれだけ買うのかは個人の裁量であって、おおく売れるものはさらに増産されるという自由経済が長年にわたって支持されてきたのは自由の尊重という基本権を優先してきたからであろう。だから、食べ物をへらしてでもあるいはアルコールをがまんしてでも電動バイクで好きなだけ走りまわる快感をぞんぶんに満喫したい人びとが精一杯電動バイクの蓄電器に充電することを妨げてはいけないのである。だから脱炭素社会が認知されるためには再生エネルギー由来の電力は好きなときに好きなだけつかえる状況でなければならないのである。

 つまり石炭、石油、ガスがだめでも再生エネルギー由来の電力がじゅうぶんつかえるという、つまり生活需要だけではなく医療をふくむ商業施設から教育、研究機関あるいは運輸をふくむ公共空間におけるさまざまな電力需要をみたすことができるということであり、それができない場合には需要を統制するという問題がおきあがってくる。

 といっても電力需要の統制は他の物財とは異なりすこぶる困難であり、とくに酷寒時あるいは猛暑時に「電気をとめる」ことは場合によっては生存権を侵害することにつながりかねない。もっといえば電力網の末端でかってに大量消電すれば大規模停電の危険がしょうじることになるから予防策には膨大な費用が発生する、つまり予想外の高コストシステムになる。ぎゃくに不満分子の抵抗運動の標的になる可能性もあり、油断のならない社会となるだろう。

 これはわが国で起きるというより地球規模での問題として認識する必要があるわけで、「社会が壊れていく」地域が出現するであろう。

 また、これは民主政治の根幹にかかわる問題でもある。もし何らかの事情で電力配給制が必要となるならまず政治体制の変革を先行させなければとても統治機能を維持することはできないだろう。

 脱炭素経済が曲がりなりにも動き出したとしても、脱炭素社会が円滑にスタートできるとは限らないのである。もちろん脱炭素経済の詳細がどのような姿となっているかにもよるのであるが、気に入らなければ脱炭素社会とは毎日が地震の世になるであろう。めまいがするほど地面が揺れるのである。

 ということで脱炭素社会ではどうしても政治の役割がおおきくなりすこしばかりの失敗が騒乱を招くことになるかもしれない。抑制は抑圧であり不満の温床となる。さらに資本主義の暴走が人類を不幸のどん底においやったと認識している人びとの行動はずいぶんと過激になるであろう。

 ニューヨークでおきた「99%」デモというのは経済的にもたざるものの反抗運動といえるのだが、政治的には「99%」というのは完全絶対多数であり結集すればすべてのことをなしとげられる強力な権力となるもので、ぎゃくに脅威でもある。今は弱者としての「99%」を意味するプラカードなのかもしれないが、局面転換によっては圧倒的な権力にもなりうる可能性のうえに未自覚な多数が出番をまっているのかもしれない。という状況を隣りあわせにもちながら脱炭素社会とは気候変動問題からの投影図として描かれているが、それだけではないなにか、たとえば「資本主義の暴走、社会主義の堕落、民主主義の危機」の総決算として次世代につなぐことができる社会であるのかというビッグな宿題をも付加されているというのが真実ではないかと思う。

《その4終わり》

◇ 萩の垣押しでて咲くや道狭し 

加藤敏幸