遅牛早牛

時事雑考「2021年猛暑に気候変動問題を考える-さまざまな疑問その5」

◇ もうすぐ2021年9月がおわる。猛暑にあって気候変動問題についていろいろと考えてきたがさほどの猛暑ではなかった。猛暑よりも台風14号の進路と降水量が気候変動らしかったと思う。それにしても文が長くなりすぎたし脈絡に靄がかかったようで反省している。

 さて、自民党総裁選挙がおわり岸田文雄氏が総裁になった。前回あるいは前々回に紅白試合とか歌舞伎演目とすこしばかり揶揄してみたが、公開での議論はめずらしいことからか関心がたかまり、わすれられていた政策をめぐる議論が生にえが多々あったもののそれなりに盛りあがったことは評価できる。この期間メディアジャックといわれるように自民党一色の報道になったがちかづく衆議院選挙を考えれば野党側も公開討論会などをやってもよかったのではないか。野党間の選挙協力がすすんでいるのであればなおさら積極的に取り組むべきであろう。

 もちろん政党間の公平性は担保されるべきではあるが、内閣総理大臣の選出に直結するものであったことから支持不支持にかかわらず注目されたのはとうぜんであろう。政治家はいったことには責任をもつべきであるから総裁選での討論内容をちゅうしんに野党もかっぱつな議論をしかけると思われる。しかし、まえのお二人が議論をしない、かみあわせない達人だったからひょっとして新総裁のふつうの対応がいかにも新鮮にうつるかもしれない。「ちょっとはかわる」のか「かえてもかわらない」のか注目したいと思う。

◇ 気候変動問題は《その5》に突入してしまった。いい残したと思いながらあれこれとおいかけているうちに同じことを繰りかえしているところもあって、また章だてでないこともあり全体像が不鮮明でわかりにくいと自身で思っている。

 たしかに各論の逐次展開ととつぜんの論理飛躍がからまっており良くいってエッセー的評論、普通にいえば年寄りのくりごとであろうか。

 とはいえ本テーマは人類の資格試験それも実技、実演がちゅうしんのとてもむつかしいもので、失敗すれば明日がないとまではいわないが悲惨な事態をまねくことはたしかであろう。脱炭素経済へえんかつに移行してほしいものだが、そのためには人びとの意識変革がひつようでありとくに自らの欲望の抑制あるいは制御がじゅうようとなる場面がふえてくると思われる。

 これからは化石燃料の使用抑制から禁止へときょうかされていくと思われる。こういった禁欲運動をベースにした脱炭素社会にはどうしても社会規範による補綴(ほてつ)がひつようではないかと考えながら、最終的には「炭素倫理」とでもいうべき強固なバインダーかいると思うが、まだ具体的なイメージがえられていない。

 さらに、地球規模での対応でなければ効果的でないことだけはたしかであるが、そうはいっても国家間、地域間の格差問題の解決でさえみとおせないのにそんな上等な芸当ができるのかしらと不安になる。くわえて国連や国際機関の出番であり活躍がきたいされているのだが、かぎられた資源の配分などという腕力のいる仕事をはたして彼ら彼女たちがこなすことができるだろうかと不安である。もちろん、いちばんの不安が再生可能エネルギーが化石燃料を完璧にリカバリーできるかであることはかわらない。

 気候変動問題についての論調はひきつづき悲観のパレード風であるが、なにもゴールまで悲観一色になるとは思っていない。はじめは悲観、最後は楽観がベストと考えている。楽観ではじめて悲観でくれるよりもいくらかましではないかと思う。

 (こんかいも漢字をへらし、かな多めにと思っていますが、20字もかながつづくときれめがわからないので適当に漢字をいれています。また名詞は漢字で、述語あるいは動詞はかなゆうせんとしました。やややりすぎ感があるので次回は修正を考えています。なお不徹底のかしょについては容赦ねがいます。)

《気候変動問題について その5》

◇ 気候変動問題は地球規模で考えることが大切である。しかし同時に対策をしっこうするのは各国地域であるから文中の指摘や主張には微妙に視座の移動があり、「各国地域」においても一般的な用法と「わが国」に限定した用法とをかき分けていないところがあるので、その部分は前後の文脈で判断ねがいたい。 本欄は今風にいえば「アジャイル型作文」つまりひごろ書きためたものの寄せ木細工であって、はじめに構成を確立して細部を展開するウォーターホール型作文ではないことをいいわけ半分ながらのべておきます。

◇ さて「大幅な生活水準の引き下げ」とは具体的に何を意味しているのか、たとえば『FACTFULNESSファクトフルネス』(ハンス・ロスリング他著、上杉周作、関美和訳、日経BP社)によると(同書だけが指摘しているものでもまた同書が初出でもないがとてもわかりやすかったので引用する)この地球上には一日1米ドル以下で暮らしている人びとが約10億人ほどいるというがこの人たちが「大幅な生活水準の引き下げ」の対象になるような政策は選択するべきではないと考えるのが常識であろう。 

 同書では所得ごとの人口分布(2017年)を模式化しているが、特徴的なのは所得をひとりあたり一日米ドルで2ドルまでをレベルⅠ、超えて8ドルまでをレベルⅡ、超えて32ドルまでをレベルⅢ、32ドル超をレベルⅣと区分けしレベルごとの生活実態を具体例でしめすことにより、よく採用される「先進国」と「途上国」とに分ける二項区分をいとてきに避けている。確かに4区分(ローマ数字での表記は筆者の判断であり同書ではアラビア数字)のほうが細かい分より実態にちかいといえる。そのうえでレベルⅠには10億人、レベルⅡには30億人、レベルⅢには20億人、レベルⅣには10億人と概数配置し、世界の生活の現状を実感としてまたイメージとして把握できるようにくふうしているのが特徴的である。そのなかで横軸に4区分された所得レベルごとに簡単なこけし人形のような図が一個10億人として、順に1個、3個、2個、1個としめされている。(人形図の合計が7個で70億人を表している)

 ということで同書の模式図によると、レベルⅠとレベルⅡをあわせたおおよそ40億人がひとりあたり一日8米ドル以下で暮らしているという。この人たちにも2050年カーボンニュートラル政策はおしよせるであろうし、またどのような具体的な影響があるのか心配しながらあれこれと想像している。そのうえでこの人たちには気候変動にたいしどれだけの責任があるのだろうかと考えれば、そういうことを考えるまえにむしろひとりあたり一日32米ドルを超える10億人のほうにこそおおきな責任があると考えるのが妥当なわけで、そういった過去からの気候変動への責任を明確にしながらけっきょく「大幅な生活水準の引き下げ」が地球規模でさけられないとなれば「引き下げ」の配分をどのように現実化していくべきかと思いなやむのである。

 悩みの核心は先ほどの『FACTFULNESSファクトフルネス』の模式図でいえばひとりあたり一日32米ドルを超える生活をおくるレベルⅣの10億人に32ドル未満のレベルⅢに「落ちろ」と宣告することができるのかということでもある。

 (もちろん10億人がレベルⅢに落ちればカーボンニュートラルが達成できるというものではないが、背景にはいいようのない厳しい議論がひかえていることはまちがいのないところで、しかしさすがに8米ドル未満のレベルⅡに落とすことはできないだろう。といった瞬間、レベルⅠとレベルⅡあわせて40億人であったことを思いだし、いかんこれは典型的なダブルスタンダードではないかと。つまり40億人が受けいれていることをどうして10億人がうけいれられないのかと問われると答えに窮してしまうのである。このような問答はいずれさかんになりキツい摩擦をうむと思われる。)

 この「落ちろ」宣告は露骨ではあるが状況しだいで現実化していくような気がする。だから経験豊富な政治家なら決してふれたくないと思っているので、とぼけ顔でのほほんとしているのだろうか。あるいはことの深刻さが真実わかっていないのか。といいながら筆者じしんもいまいち腹がすわっていないのに口先では非難がましくつぶやくだけの「その場かけ足ゾーン」に立ちすくんでいるのである。

◇ こういったジレンマにいたる原因は、再生可能エネルギーについて量への期待感があるもののあまりにも不確定なことが多いことから確実感が低いところにあるわけで、いいかえれば化石燃料分をきちっと埋めあわせることができればハッピーエンドで先ほどの議論はまったくの杞憂であったといえる。たとえば欧州のある化学メーカーは風力発電を中心に原発20基分およそ2000万キロワットの再エネ発電基地の開発を計画しているとつたえられている。欧州の風力利用にはオランダの風車からはじまる長い歴史があり、また安定した偏西風による良好な風況にささえられ平均風速10m/s、平均稼働率50%以上といううらやましいかぎりの条件ゆえに周囲からも有望視されている。このまま順調にいけば欧州とくに北海沿岸国には朗報となると思われる。とはいえ気候変動を現象面でとらえれば異常気象であるから、つまり風向きや風速あるいは日照などがおおきく変化することも考えられるので安心はできないであろう。

 また巨大な発電基地の建設は膨大なGHG(温室効果ガス)を排出することから資金があつまっても炭素予算が割りあてられないかもしれない、つまり炭素予算の裏づけがなければ巨大事業はすすめられないことになる可能性がたかいのである。したがって一国一企業の都合だけでプロジェクトがすすめられるのかどうか微妙であると思う。

 このあたりは「かもしれない文」がおおくなり、不確実性をかたる文章がきわめて不確実であるというお笑い構造になってしまってもうしわけないのだが、再生可能エネルギーへの大規模転換が失敗するともいいきれない、つまりすべてやってみないとわからないことも真理であるが、ではうまくいかなかったときにはどうなるのかそのときの対策はあるのかと畳みかけられると「先のことはわからない」と答えるしかないわけで、こういっただらしのないやりとりこそが現状の混沌を表しているのではないかと開きなおり気味につぶやくかぎりである。

◇ さていかに理屈をこねくりまわしても課題だけははっきりしていてそれは「再生可能エネルギーで70億を超える人びとの生活を支えていけるのか」ということであろう。

 この問題は先進国の10億余の人びとの生活をどの程度まで引きさげられるのかといい直したほうが分かりやすいかもしれない。国別の一人あたり排出ガス量を比べればまさに何が原因なのか、いやらしい表現をつかえばだれの原因(せい)であるのかが明白ではないかということである。

 昔は階級制度にぶらさがりまた植民地からの収奪でそして近年では経済メカニズムを活用してゆたかな生活をいちぶの人びとが享受してきたが、今日では植民地にかわり石油などの化石資源のおかげで人類史上空前の繁栄それも10億を超える人びとがむかしの王侯貴族のような奢侈で豪華だが放埒で自堕落な生活をおくってきたといえる。もちろんゆたかな国のなかにもまずしい人が、まずしい国のなかにもゆたかな人がいるわけで、この問題は国別のしきりだけではふじゅうぶんで国連の開発目標(SDGs)と連動した格差へのとりくみが求められているがおそらく手がとどかないと思われる。(口先はともかく政府も政治家も企業家も格差是正あるいは解消には消極的なのである)

 気候変動対策がマイナス成長をもたらすかもしれない、いやたぶんそうなるだろうといった議論がおこってくると思われるが、すくなくとも国連の開発目標のバランスのとれた達成には不利な状況をうむのではないかという不安を払拭することはできない。これらの不安が現実化する可能性のほうがたかいといえる。SDGsは世界の経済が健全に成長することを暗黙の前提につくられているのであって、ゼロサムあるいはマイナスサムは想定外であろう。気候変動対策を地球規模でとらえるばあいの最大の弱点がここにあるといえるのではないか。

◇ 一部の人にとっての夢のような世界はきえうせようとしている。といってみても現実はひどく不平等であるから、大幅な生活水準のきりさげはおそらく所得順位のひくいほうから順番におこなわれていくのであろう。たとえばインフレである。GHG排出制限が供給をしぼりこむことになれば物価は上昇する。人びとの預金通帳の残高は過去の労働の値札であるからインフレには弱い。対策がなければ所得、資産のすくない順にたおれていく。順番があるかぎり超富裕層への影響はないもどうぜんである。

 だから、想像すればするほどに腹のたつことがおおくなり普通の人が平常心をたもつこともむつかしくなってくる、それほど格差とはひどいものである。コロナ禍で格差がかくだいしたといわれているが、正義の政策であるカーボンニュートラルこそがさらに格差をかくだいし地球を王侯貴族にまさる超富裕層とそれいがいとにみごとに分断していくであろう。

 1000億円(900億円でもいいのだが)をこえる資産をもつ者にとって30億円の宇宙旅行なんてやすいものではないか。つかってもつかっても資産はふえていくのだから、毎秒何トンもの膨大な排出ガスをだすことが成功へのご褒美であり特権であると思っているのかもしれない。あるいはくじ引きいがいでは航空機にのれない時代がくるとしても、それでも自家用ジェット機は各国の特別な人をのせて世界中を飛びまわるであろう。脱炭素社会にあってそれは背徳的ではあるがそれが許されるのが資本主義というものである。

 それで何をいいたいのか、それは簡単なことで「だから資本主義は崩れていく、いや崩さなければならない」と情動的に思いこむ人がどんどんふえるということである。そうなると社会不安が加速され、そして何がおこるのか、これも簡単なことである。テロの原因のひとつが貧困への怒りにあるとそう考えるならだれだって予想できるではないか。

◇ 「経済をふくらませてわずかな分配でがまんを強いてきた、すくないのはおまえの働きが悪いからだと偉そうにいなおってきたおまえこそだれなのか。そもそも働きもせず莫大な収入をえているおまえこそほんとうに人間なのか、形は人間でも中身は宇宙人ではないのか。ボヨヨーン。」とは笑い話ではない。

 人の世界は99%が団結すれば1%にとくべつの処遇をあたえることができるもので、たとえば今日において革命を予言することは不適切であろうがしかし予言しなくともおこることはおこるのである。ようするにきっかけがなかっただけであって、それが脱炭素という天地がひっくりかえる事態に遭遇することがきっかけとなり、つっかい棒がはずれるような出来事がおこるのではないかと心配している。脱炭素社会の入口にはガソリンのよこでたき火をするような危険があふれていると思う。

 どうしてそんなことがいえるのかと問われれば、どうしておこらないといえるのかと反問したい。パンデミックと「大幅な生活水準の切り下げ」が時差進行し、しかも格差はさらに拡大するとなれば火がついてとうぜんではないか。さらに「大幅な生活水準の切り下げ」の原因が過去の化石燃料の大量消費であるとすればやはりここは地球規模での「いけにえ」がひつようになるのではないか、と危惧するのである。もっとも無血でさえあればいいのではないかとも思うが。

 さらにいえば、「大幅な生活水準の引き下げ」を人びとに納得してもらうために、また莫大な資産など莫大すぎて遣うことができないのだから没収されてもいいじゃないのといってみて、それでも個人の所有権は絶対であるといいはるのであれば、「寄付したら」と耳元でささやいてあげればいい、そして格差拡大とその結果としての貧困をいままでみてみぬふりをしてきた富裕層にもおおきな責任があるのだからとつけくわえようか、くどいようだがこれは筆者ののぞむところではない、99%がそう考えればそうなるのだと世界の富裕層につよく警告しているのである。

 富裕層とくに超富裕層には想定外かもしれないがとんでもないリスクが生まれつつある。革命前夜にちかい何かしらそういうリスクかもしれない。為政者には権力を保持するために「いけにえ」を創造する能力がある。もちろん、時と場合によるが残念ながら条件がととのってしまったらあきらめるしかないと思う。でも1%でも手元にのこればいいではないか。1%でも平均的な人びとの数千倍なんだから。

 

◇ 中国が、ここでは習氏中国というべきかはおき、「共同富裕」をかかげることにはりっぱな理由がある、つまり正しいと思う。とくにとんでもない格差社会は革命家のめざすところではなかったはずで、さらに脱炭素経済になれば人びとの生活は逼迫し、いよいよ共産党統治がゆらぎはじめる可能性はけっしてひくくはないのである。共産党がおさめる国が世界有数の格差大国であるなんて冗談もほどほどにしろといいたい。まさに社会主義の堕落の象徴である。

 富の分配でさえむつかしくまたもめごとであるのだから、まして貧困と欠乏の分配はさらにさらに困難であってぶっそうな事態をひきおこすと思う。すでに中国は脱炭素経済の罠にきづいているのだろう。脱炭素経済ではマイナス成長が恒常化しそれが格差をさらにかくだいすることを知っての予備行動なのか。とにかく原点回帰は必然だと思う。でなければ共産党そのものが存在矛盾におちいるのではないか。とすれば革命的嵐の前夜であるとしてもいっこうにおかしくないではないか。中国が資本主義の典型的な病巣をかかえているなんて、「これってすごくない」と筆者は叫びたいのである。

◇ さて生活水準を引き下げる手段として「物ともの」、「貨幣と資産」、「労働と通貨」の交換関係をおおはばにかえなければならないと主張するグループが登場するかもしれない。この動きが自由主義経済とはぎゃくむきの供給統制型の経済体制へむかうとなれば、唐突ではあるがたとえば北朝鮮型をめざすということになるのかしら、といった疑問が生じるのは自然なことであろう。

 文明の土台であるエネルギー源をごく短期間にしかも例外をゆるさずきりかえていく、そしてもっとも重要な点は代替のエネルギーがいまだ開発途上であって確証がないという、これは悲劇なのか喜劇なのか、あるいは冗談なのかまるでわからない。

 ということから「石油文明の恩恵を清算する」ことと「個々の欲望の充足のための自由な活動を制限する」ことができるのかという文明論にもつながる巨大なテーマがすまし顔でまちうけていると感じられるが、大げさついでにいえば重力が三倍になるようなきびしい制限社会もしくは禁欲社会に突入せざるをえないかもしれないとおおいに危惧しているのだが、この点について世間はまだまだ呑気(のんき)にかまえているようである。しかし、というかいわせてもらえばこれは選択ではなく受忍の問題なのである。受忍の問題とは好むと好まざるとにかかわらずということで、夜明けまえに夜が明けることに賛成か反対かといってみても明けるものは明ける、そういうものであろう。

 こんなことはだれも受けいれたいとは思わない。とはいっても石油文明以前の世界もこれはこれで純正の人類の歴史であったのであるからそこに回帰することにためらう理由はないとまあつよがりをいってみても、石油文明の煌々とした輝きや召使い百人、秘書百人にも匹敵する便利で快適な暮らし、見たいときに何でも見られ、行きたいところにいつでも行けるという自在感などを考えれば天上にも劣らぬ地上の楽園をいまさら断ちきることができるであろうか、と思う。

 個人でいえば育ちすぎた強欲を鎮めることは不可能にちかいから適応できないものがあふれるかもしれない。脱炭素社会の詳細が不明ななかで想像だけであれこれいうのはよろしくないが、政府として「万事でたとこ勝負」で対応したのでは犠牲者があまりにもかわいそうである。このような、エネルギー問題でも経済問題でもない生身の人間にまつわりついてくる諸課題をていねいにほぐしていかないと、多少飛躍したいいかたになるが社会が壊れていくのではないだろうか。

 2050年、2030年を時限とするGHG削減目標をしんけんにうけとめれば今日繁栄のきわみにある人類文明のそうとうぶぶんを廃棄するべきときにあると断言すべきではないか。まあ究極の断捨離かもしれない。

◇ ということで、つまりこれらの正義の削減目標が正気の沙汰ではないといえるのであるが、さりとてほかに手立てがあるのかと問われれば「ない」と答えるしかなく、さらにこれでじゅうぶんかと問われれば「間に合わないかもしれない」と答えざるをえないのである。

 とくにつねに慎重であり保守的であったあの日本国政府がまわりの目を気にしてのこととは思うがそれでも2030年までに46パーセント減(2013年比)を表明したのは正直驚きであった。それほどまでに追いつめられているのであろうか。

 といいつつ、ひとりで大騒ぎをしていてもしかたがない。しかし事の重大さあるいは影響のどあいを考えれば世界大恐慌のすうばいにも匹敵する、いやそれ以上の激震と思われるのにコロナ禍のせいもあってか世の中おちつきすぎている。このおちつきはナイーブな自信それも科学技術への信頼からきているのか、それともたんに鈍感なのかとついグチりたくなるのだが、とどのつまり「本気で考えていない」のかそれともいずれ気候変動問題は沈静化し目標は形骸化するだろうと「高をくくっている」のかのどちらかであろう。まあ議論として形骸化したとしても温暖化は止まらないから「高をくくる」のは無知からくる傲慢であってそういうのは結局役にたたずに沈没するに違いないと思う。

 

◇ いずれ議論は形骸化するだろうとかってにきめこんでいてもそうはならなかった事例はおおい。とくに欧州発の政府間協議にはじゅうぶん注意すべきで協議の発端やいきさつがどうであろうと合意にいたればやがて真綿で首をしめるように履行をせまってくるのである。もともと多数の王国などをしめつけるのが得意というかそうしなければ年中紛争や騒乱で大陸が混乱することから、それをさけるために欧州には外交術を進化させた歴史があり、一日の長があるといえる。

 長があるというのは交渉相手としては手ごわい、時として恐ろしい相手というのと同義である。わが国はそういう恐ろしさにもっと敏感にならなければならない。とくに気候変動問題については原理主義にかたむくながれもつよく欧州にはリベラルかつラジカルな人もおおい。そういう意味では今年の7月ドイツ西部で発生した大洪水はかの国の人びとにきょうれつな印象をあたえたと思われる。こういった具体例が今後の気候変動問題にたいする方向性におおきな影響をおよぼす可能性がたかい。いずれにせよEUとしては2030年55パーセント減(1990年比)の達成にむけて歴史にのこる壮絶なとりくみをすすめなければならないことになっている。独善的な人たちが活躍すれば空回りや南北間摩擦のおそれもあると思われる。とはいえ音頭をとるEUのとりくみがちゃらんぽらんな素人芝居におわるようだと気候変動問題の枠ぐみはくずれさることになるだろう。

 

 

◇ もう一つこの問題のとてもいびつなところは各国別のGHG排出量が経済格差の結果ともいえるもので、筆者がかつて訪問したサハラ砂漠以南(サブサハラ)の国々は温暖化にたいする責任を毫(ごう)も感じていない。聞くところによればむしろ民生の向上のためには大量の電力が必要なので発電手段をえらぶ基準はスピードとコストといわれている。皮肉な表現ではあるが「一日もはやく地球温暖化に責任を感じなければならないほどのレベルに到達したい」というのがおそらく本音であろう。

 たしかに排出量を発生地だけではなく消費地でみてもその偏りはいじょうともいえるもので、G20あるいはOECD加盟国の責任がよりおおきいといえる。したがって2050年を時限とする目標にたいし各国がとりえる戦略はそれぞれのたちばを念頭に国益の最適化をはかることになると思われるが、もっとも避けなければならないのは過剰宣伝とごまかしである。いずれの政府も国民から高い評価をえたいだろうしいずれの国民も国際間における有利な配分をもとめているから、真正な対策を真剣に希求するといった高尚なことにはならない現実があると思う。かなしいことではあるがこの地球上における国家間交渉の実績からいえば「正直者は馬鹿をみる」ことが否定できない事例もあるわけで、気候変動対策のようなビッグなマイナスサムゲームにおいてはさらにその傾向が強くなるであろう。 

 つまり問題構造が仮にあきらかになったとしても利害が複雑にからみあっていることからなかなか解決策がまとめられない、仮にまとめられてもおおくの国がズルをしてすこしも実効があがらないという事態もおこりうることから、査察、検証、指導、制裁といった実効性を確保するためのシステム化が不可欠であるが、そういった国家主権を制約する仕組みをつくりあげることができるのか、またその過程で加盟国がだしてくる条件をうまくさばくことができるのかなどの国際問題をうまく解決できるのかと国連あるいは常任理事国である英米仏中ロそして加盟国もそれぞれに問われている。とくにP5とよばれている常任理事国のリーダーシップが問われるべきであるが、おそらくこの10年間は期待はずれというか期待するだけむだであるということになると思う。かなしいかな気候変動がさらに猛威をふるい被害が急増、拡大し人びとがパニックにならなければ国際間の意思のしゅうやくはむつかしいであろう。そのぐらい人類はおろかなのである、ていねいにいえば政治的には愚者であって、それが賢者にかわるのは被害が最大にたっしてからである。まあ2030年近くまでだらだらとかけひきをつづけるようだと絶望的な事態をまねくかもしれない。

◇ ここまで悲観的でかつ自虐的なものいいをつづけてきたが、2019年10月17日の弊欄で『やはり環境問題でしょう、頭の痛い』と題し、「極端なことはできない」と考える既存政治家や指導層と「極端なことをしないと間に合わない」と考える若者層とのあいだにあるおおきなギャップを指摘したが、問題の性格上若者層の肩をもたざるをえないというのが筆者の結論である。

 「極端なことをしないと間に合わない」ほどに事態は切迫していると筆者もうけとめているが、その切迫感の半分はとりかえしがつかないかもしれない確率がきわめてたかいとのエビデンス的感性からきているのではないだろうか。そして切迫感ののこりの半分は、この20年間の大人たちとその政府ののろのろとした対応によって時間を無駄にしてしまったという怒りをふくむ無力感つまり感情から生じているように思えてならないのである。 

◇ 「問題を背負う世代が決定に参画すべき」で、2050年には筆者は生きていれば101歳であり、2030年には81歳で背負いたくとも背負えない、どちらかといえば背負ってもらう年齢である。とくに気候変動問題ではマイナスサムを克服しなければならない、それも暴力いがいの方法で解決策をみいださなければならないのだから難問というしか表現のしようがない。

 ごまかしの対策ではどうにもならない地点(ポイントオブノーリターン)をすぐにこえてしまうであろうし、なんとか効果的方法をえらべたとしても惨めな生活水準になるわけだからどんな政府であったとしても非難から逃れることはできないであろう。

 おこりうる事態にそなえて事前に最善の策をとるとしても、そしてそれが客観的にみてたしかに最善であったとしても、政治的に通用するのかどうかはわからない。つまり政治とは理性の世界ではないのだから、怒りは簡単にはおさまらないとすれば政治ショーとしてのイベントが必要だと気のきく政治家がささやき、誰かをつきあげ血祭りにと不穏な動きがでてくるかもしれない。こうなると民主政治が足手まといのように感じられ、近くの専制国家のほうが何倍もうまくやれているようにみえるから不思議である。いや不思議がっている暇などない、民主政治の危機である。

 といった三文小説のようなシナリオをまえに人びとはどう思うのだろうか。そんな極端なことにはと受けとめるのであろうが、それは今までが緩慢な変化でしかなかったから「正常化バイヤス」が働いているだけかもしれない。人は自分が経験したことがすべてだと思っている。だから「そんなはずはない」といつもそう思うのであるが、いつも時すでに遅しであったことも事実である。

 

◇ 「時すでに遅し」とはどちらかといえば気分の問題であって、2050年目標にしても2030年目標にしても時限的に厳密とはいえない。しかしだからといってあらかじめ余裕をふくんだ交渉上の目標値というものでもない。もともと66%の確からしさで議論されていることなのでゆるいといえばゆるいのである。つまりギリギリの数値だと思うからこそ「時すでに遅し」という表現がゆるされるのであって、比較的ゆるい条件なのに「時すでに遅し」と表現するのはいいすぎだと批難されてもしかたがない。しかし、かりに余裕をふくんでいたとしてもそのマージンはすでにいわゆる悪化事象に食われていてマージンゼロになっている可能性もおおいにあることから気分的表現ではあるが事態の緊迫度をつたえる目的からいえば「時すでに遅し」といっていい状況ではないかと思う。

 直接の証拠はないのだがあえていえば悪化事象は加速度的にすすんでいること、たとえば想像をこえて発生している温暖化由来の山火事がさらに温暖化を加速する可能性はたかいし、コロナ禍の影響から生活に困窮した住民が耕作地をもとめて森林に火をつけるかもしれないといった事象ごとにものごとは悪化方向にかたむいているのである。

◇ さらに、排出ガスは発電部門に限られたものではなく産業、運輸、生活部門からも膨大な分量がはきだされていることから、それぞれ削減しなければならない。とくに運輸部門の比率が高いことから、EUでは電気自動車(EV)の開発に軸足がうつっており、ガソリンあるいは軽油仕様車については排除が決定的となっている。こういった急速な展開の背後にはあらゆる工業製品において標準規格をにぎりつづけようとする欧州の伝統的な競争戦略があると思われる。それにしても気候変動対策を錦の御旗にろこつなEV化のながれを既成事実化していくいつもの手口にうんざりしないでもないが、逆にそれだけで対策としてじゅうぶんなのかと心配になってくる。

 それというのもEV化は有力ではあるが排出ガス削減の主力ではない。個別にガソリンあるいは軽油を燃焼させるより大型発電所で集中して燃焼させたほうがはるかに熱効率がよく、その分排出ガスは低減される。だから再生可能エネルギーを系統電源に逐次追加していけばその分においてはEV車は排出ガスゼロにちかづく。これは理屈のうえでのことで現実にはその国の電源構成比に収れんするからEV化だけで格段の効果があるわけではない。そのうえEV化へのおきかえによるたとえばリチウムイオン電池生産にふずいする「排出ガス」の発生はさけられないことから、また大量の廃棄などを考えれば総合的な視点で「排出ガス収支」を冷静に評価するひつようがあると思われる。

 とくに問題なのはEV化が対策の錯誤をまねくところにある。つまりやっている感で自分をあざむくのである。有力ではあるが主力ではないEV化だけにかまけているとおそらく3年から5年ぐらいの時間を無駄にするであろう。自動車産業にとってのEV化の意義はかんたんにいえば内燃機関からの解放であり、設計の自由度の向上であり、新規市場開拓つまりイノベーションである。

 だからEV化は脱炭素経済の必須ピースではあるがそれだけではふじゅうぶんである。一日もはやく気候変動対策の基本である石炭火力や石油・ガス火力を停止し、そのことで発生する電力不足をすみやかに原子力や再生可能エネルギーでまかなうこと、またここ10年いないに産業、運輸、生活部門の電化比率を50%以上にたかめること、および総生産を縮小することにEUはじんりょくすべきである。それが達成できてはじめてカーボンニュートラルに挑戦できるといえるのであり、どうじに世界からの尊敬と信頼をえることができるであろう。

◇ 2050年カーボンニュートラル(GHG排出吸収均衡状態=実質排出ゼロ)、これは数百年に一度の歴史的大事件である。すくなくとも産業革命いらい200年を超える産業史は巻をあらためる必要がある。ということは、とうぜん資本主義は終焉をむかえ、政治体制も連動しながらあらたなシステムを求めることになるが、私たちは簡単にはあたらしいシステムをみつけられそうにない。ここで「簡単には」と気楽な言葉をつかったが、簡単のかわりに「永遠に」としたならばどうであろうか。いささかキツいようであるが実感としてはそれに近いと思っている。

 気候変動対策をめぐっての議論の次のページに資本主義の終焉とあらたな政治体制の模索と書かれ、さらに次のページには簡単にはといいつつ実のところ永遠に答えを見つけることができないというかってな予想を平然と提示することはたしかに乱暴であると思うが、その乱暴さの原初は「もう間に合わない」という認識にあるのであって、これは普通にいえば緊急事態である。むしろ超緊急事態であろう。

◇ 「極端なことをしないと間に合わない」と思いつめている若い活動家といった表現をしてきたが、その文脈でいう極端なことのひとつが経済成長のマイナスを覚悟することあるいは意図的にマイナス成長に誘導することであるが、そうなると税収減だけではなく連鎖倒産あるいは信用不安など超弩級の経済災害をひきおこすことは火をみるよりも明らかである。何事もプラス成長を軸にくみたてられているにもかかわらず、その歯車を逆回転させようとするのだから正気の沙汰であるはずがないと何回もいっているのだが、まだまだ世間の反応はよわいようである。

 しかし、反応がよわいのも時間の問題であり、そのうちおしよせる温暖化の恐怖に年々歳々人びとは正気をうしなっていくと確信している。だから重要なことは正気のうちにきめておく必要があるのだが、みればみるほど気持ちがなえてしまいそうな惨めなプランをまえに歯を食いしばりながらなんとか脱炭素社会への移行を決断することができるのだろうか。おおくの人は科学技術がなんとかしてくれるだろうという淡い期待をもっているかもしれないが、成功するものがあったとしても全体を完全にカバーするだけの大前進は「難しい、間に合わない」のではないかと思う。

 正直にいって石油文明から脱石油文明へ円滑に移行するためにはかぞえきれない科学技術の画期的発明による前進がなければ石油文明のゆたかさを保障することは困難であると思われる。とくに工学が担当する分野は経験によってささえられているので膨大な試行錯誤がひつようでありそれにはどうしても時間がひつようなのである。ここでは科学技術力で自然をねじふせる話は通用しない。また発明と普及にはすくなくとも10年から30年もの遅延時差があり、その間にヒューマンエラーへの対策をふくむ安全性を担保していくのであって、性能試験はパスできてもシステムとしての安全性を保障するためには新薬の治験ほどではないが手間と費用がかかるのである。さらに大量生産となると別の難しさがある。1000台の生産は受けられても1000万台は難しい。材料と部品の調達が大事業となる。また何年もかけてようやくサプライチェーンを確立しても仕様変更の連続で完成するのは先の話ということになる。急速な進歩への期待について否定する気はない、かけるべき時間はかけなければならないということである。できないのではない、間に合わないのである。

◇ いくつかの課題については科学技術が解決してくれると思うが、それ以外にも問題はおおくあり、そのなかでもとくに物質的欠乏がただちに不幸につながらない精神的に強靱な社会づくりがことさらに重要であると思う。石油文明と資本主義の合体がおおくの繁栄をもたらせたことは事実ではあるが、かならずしもゆたかな社会をもたらしたとはいえない、むしろおおくの不幸を生みだしてきたことも事実であるから、そういった知見を土台に新しい価値や規範をつくりだすよい機会ともいえるわけで、おそらく環境問題について声をあげている若い世代にはそういった「べつのゆたかさ」がすこしみえているのではないかと思う。

 さきほど資本主義体制の終焉という表現をつかったが、終焉というのは前回くどいほどのべた需要と供給の相互相乗作用の破綻に起因するもので、いいかえれば欲望の開放が自由な需要を生みそれに供給がこたえ、豊かな供給があらたな需要を喚起していくという上向きのスパイラルすなわち相互に影響しあいながらともに拡大発展していくところに石油文明資本主義のはつらつたる発展形があるのだが、それが環境問題という外部制約により圧殺されつつあるのが今日の気候変動問題の現実ではなかろうか。つまり制約下における需要のあり方が重要な課題となり、また最低限の欲求をみたす需要構造について人びとの納得をえていくという政治過程が円滑にはこばれるしくみとしてどのような政治体制が最善であるのかというのが、前述した政治体制のあらたなシステム作りということである。

 ここで資本主義そのものはとうぜん改造されなければならないということであるが、政治体制までかえる必要があるのかという議論がおこりうると思われる。ここで筆者がもっともきにしているのは、欲望を開放できてもその受け皿となるべき需要がおしこめられた状態がつづくと人びとはおおきなフラストレーションをもつであろうから、そのフラストレーションが一人ひとりの政治行動に情動的影響をおよぼすとなると「反環境主義」ともいうべき反動運動が勃興するおそれがある。くわえて「環境原理主義」が対抗的にもりあがり、そこでぬきさしならない対立構造がうまれる危険性があるということである。

 民主政治は欲望の抑制をきらう制度であり、また情動にながされる投票行動がままおこりうることから状況あるいは条件によっては破滅の扉を期待をこめながら開く衆愚の誤謬におちいる危険がありうる。したがって、それだけはさけなければならないという意味で民主制を堅持しながらも政治体制の改造あるいは補強がひつようになると思う。

◇ もともと資本主義体制はおおくの問題をかかえていたのであり、とくに格差の拡大とその結果としての貧困は治療困難な体制病のようそうをていしているといっても過言ではなかろう。だから気候変動問題がなくてもなんらかの改造がひつようなのではないかという問題意識は高まっていたと思っているが、政治家のおおくは富裕層の味方であり、共産党とみずから名のる中国においても貧しい人民よりも大金持ちのほうがよほど大事にされているようにみうけられる。そういう意味では資本主義も社会主義もせっせと貧困とそれがもたらす不幸を繁茂させその種子をばらまいてきたのである。このような主義や体制あるいは制度が人びとから好かれるはずはない。いずれ崩れるであろうと思っていたが、予想とは異なる原因で崩壊に瀕しているのだからほんとうに不思議である。

 なぜこんな前ふりをもちだしたのか、それはまず資本主義は人を幸せにする方法には道をゆずるという作法を身につけなければ存続しえないということをいいたいわけで、まえにも述べたように99%がその気になればなんでもできる、どんな結果になるかはべつにしても。そして所有権は絶対的権利ではないとする理屈はいくらでも転がっているのである。たとえば基本的人権と財産所有権とがどういう文脈で論争しても後者が前者にゆうせんする結論にいたることはまれのまれのまれであろう。

 気候変動対策は石油文明と資本主義の合体への本質的なアンチテーゼになるのではないか。すくなくとも石油文明は合体から完全剥離され廃棄されるのだが、問題は資本主義のがわに石油文明と癒着していた部分が残されておりその処置をどうするのか、むりやり剥がされた痛々しい傷跡が壊疽にいたらなければと願うばかりである。

◇ さてさいごになるが、物質的にゆたかであることはそのゆたかさに支配されていることなのだから、自由をいうなら本源的な自由つまり石油文明に支えられる自由ではない何かしら自由なるものを奇術師が空中から鳩をつかみだすように、目の前にだして欲しいものである。という具合に足らざるなかから立派なものをつくりだすことも大切であり楽しいことではないか。現代はゆたかなようで貧しく、着ているものやもっているものがどんなに立派でも気持ちはみじめでさびしい時代である。また所得格差がゆたかさ格差に直結せざるをえない今日の社会のありように疑問を感じている人びともおおいと思われる。何が大切で何が優先されるべきかについて明確な規範を確立しなければ石油文明資本主義からの離脱は困難であろう。人びとの日常のなかで脱炭素文明につながる価値体系が共有され、それが「炭素倫理」として社会規範とならなければエネルギー的物質的資源の獲得のための小競り合いがつづき、脱炭素社会がたんに不足感のあふれる、あるいはただ貧しいだけの、そして社会全体が不満の吹きだまりになってしまうのではないか。つまりおおげさにいえば石油文明の夢をすて「脱」でも「超」でもない新しい文明をつくりださなければ世は安定しないのではないかと思う。これはそうとうに古典的いいかえれば陳腐な論理ではあるが長らく脇におかれてきた精神性に光があたることを願っているのである。

◇ 今回、さまざまな疑問を提起しながら気候変動問題にかかわる課題をのべてきたものの思いかけず長文となってしまった。とりあえず2050年と時間をきりカーボンニュートラルを実現すると表面的には決意をかためたといえるが、工程表など何もない状態であることはかわらないのである。この目標を達成するにはさまざまな困難を克服しなければならない。それも世界の人びとがほんとうに力をあわせなければゴールインできないものであろう。そこにはおおきな不安もあるが滅亡する道をえらぶほど愚かではないだろうと楽観しながら、さらにできればより良い道を選んで欲しいと祈念している。さきざきに、あれは大げさな話であったといえることができればそれにこしたことはない。そう願いたいものである。

◇近づきて不意に離れる秋の風  

 

 

 

《付録》

◇ さらに追いうちをかけるようで心苦しいが、再生可能エネルギーだけを基盤とする経済システムを準備し軌道に乗せるためにどの程度の初期排出ガスが許容されるのかつまり炭素予算をどの程度つかえるのか、またその再生可能エネルギーシステムは排出ガスゼロで自己完結できるのかといった課題もあり、くわえてそのシステムがささえることができるであろう人口規模に議論がおよんだとき関係者の多くは悲観と不安にさいなまれることになるであろう。

 つまり、今議論されている気候変動対策においてGHG(温室効果ガス)の排出増をゼロにしたうえで、さらに排出量を減少させていく、という二段階についてはほぼ合意されているが、これだけでは大気中のGHG濃度(現在420ppm付近)の上昇の緩和策でしかなく、濃度の上昇をおさえるためにはGHG排出をゼロにしなければならない。さらに濃度をひきさげるには大気中のGHGの吸収を再生可能エネルギーかGHG排出ゼロエネルギーでおこなう必要があるが現状では困難であるから、ちょくせつ濃度をひきさげることは当面あきらめざるをえない。

 もちろん植物の光合成によってCO2を吸収することは簡単ではあるが森林面積は急速に減少している状況ではまず無理であろう。

 国際的に提起されている目標と「自国が決定する方針(NDC)」の提出は現状を漸進的に改善していこうと考えている保守政治家にとっては驚くほどキツいもので、まるで清水の舞台から飛びおりる驚天動地の絵図面を突きつけられる思いであろう。そしてその絵図面にしたがわなければこの地球は人類をふくめおおくの生命体にとって生存が困難な星になるとおどされているのであるから心中おだやかではあるまい。

 だから、2050年の排出吸収均衡であるカーボンニュートラルはいうにおよばず2030年の2013年比46%減でさえわが国にとってとんでもなく困難な目標なのである。さらにいいたくないがたとえばシベリアの永久凍土がとけてとじこめられていた有機ガスが大気中に放出されることにより事態がさらに悪化するといった悪化事象のほうが、思わぬ吸収現象が出現する改善事象よりも確率がたかく、まさに「泣きっ面に蜂」状態にいたりやすいといえる。

◇ 対前年比4%減を毎年つづけると10年目には33.5%減になる。6%減だと10年目に46%減になるが、年率6%の削減がはたして可能であるのか、それも計画上は経済成長と同時進行なのである。

 ちなみに2020年の世界の二酸化炭素(CO2)排出量はグローバル・カーボン・プロジェクト(GCP)によれば前年比7パーセント減であったからたとえていえば毎年2020年のCOVID-19ショックによる排出減を10年間続けるのではなく10回重ねて重ねてようやく達成できる「数字」といえる。正気とは思えない驚愕の目標ではなかろうか。 

◇ すこし疑いぶかいかもしれないが、しかし新規発電所をすべて再生可能エネルギーにすれば排出ガスは減少するというじつに単純明快な考えがおおでをふっているが、排出ガスが減少するのは化石燃料発電所をていしした結果である。つまり太陽光発電所や風力発電所などの比重をふやしてもそれだけでは排出ガス減にはならないのである。かならずおきかえなければならないし、また再生可能エネルギー発電所の製造から設置までのかていで発生する排出ガス総量のあつかいはのこるわけで、まるで負債のような「排出分」をローン返済してはじめて「排出ガスゼロエネルギー」のお墨付きがもらえることになる。

 したがって発電かていでは排出ガスゼロであるとしてもその発電所の製造、設置、工事、輸送などにもちいられたエネルギーからの「排出分」は化石燃料発電所を再生エネルギー発電所におきかえるつど発生するもので、年次の排出ガス収支でいえば増分でありけっしてむしできるものではない。つまり、石炭火力をつぶし石油火力をつぶしさらに天然ガス火力をつぶしてその発電量を再生エネルギーでおきかえるという対策としては賞賛されるべきものがとうざの排出ガス収支をあっかさせるというひにくな結果を招来することになるのである。だから心配なのは主要国がSDGs投資とかいって再生エネルギー開発にぼうだいな資金をとうにゅうしはじめると排出ガスはきゅうそくに増大するであろう。気候変動対策をほんきでやると事態はきゅうそくに悪化するというパラドックス状態が数年間はつづくのである。

加藤敏幸