遅牛早牛
時事雑考「岸田内閣発足から衆議院選挙へ-たそがれる日本と錆びつく政治Ⅰ」
◇ 9月30日弊欄の冒頭に政局コメントとして湯気がたっている岸田総裁誕生にかんたんに触れ「『ちょっとはかわる』のか『かえてもかわらない』のか注目したいと思う。」とむすんだ。
筆者の手元でいえば、10月6日日経新聞はさっそく岸田内閣支持率を59%と、また朝日新聞は45%と報じた。いずれも4、5日の調査であり新内閣にたいする国民の第一印象をはかるうえでたいへん興味深いものである。他紙あるいは各通信社の調査もおなじ傾向で、歴代にくらべけっして高くはないところがミソであろう。
この内閣支持率についての調査はたしかに変な調査ではある。とくに朝日の45%と日経の59%とではおおきな差があるのが不思議であるが、数字比較にはとりたてて意味はなさそうだ。が、調査ごとの傾向には民意といわれるものの気分がうかがえる。
◇ その気分の一つが、自民党中心政権でかまわないが、新内閣にあまり期待してもしかたがない。女性の党役員や閣僚あるいは当選回数の少ない若手の起用など工夫があるものの、それを生かしきれるのかぎもんである。
二つが、党内刷新がふてっていというか旧弊温存で反省につながっていない。もうちょっと反省をかたちであらわせなかったのか、とくにモリカケサクラ問題の処理にはなっとくしていない。また国の借金による風船経済と格差拡大あるいは感染症対策へのぎもんなど政権へのふまんもおおく、くわえて党内疑似政権交代のわざとらしさや限界を感じている。
三つが、期待がひくいのはパワーが感じられないからで、くわえて調査からははなれるが野望、野心、豪腕、狡猾といったワイルドかつネガティブな匂いがしない。ここはもとめる政治家像に微妙な変化がおこっているとも考えられる。
筆者の管見であるが「いい子ぶりっこの競演」はそろそろやめにしてたまには「ホンモノの政治家の凄みをみせろ」というニーズが底流にあるのではないか。たとえば、拉致と北方領土問題への失望は深く、なんともいえない脱力感がある。とくに右から自民党をささえた人たちにしてみれば思いは複雑であると思うが、このあたりはある人物を信用しすぎたのではないか。この問題の本質は「靖国へは参拝するだけ」、「憲法改正はいうだけ」という包装紙商法にあるのであって、支援するがわの眼力がとわれている。野党の非難をきいているとつい勘ちがいするのだが、自民党はだんじて右翼政党ではない。都合のいいときだけそんな顔つきになるだけである。まあそういった軟体性が強みであるのかもしれない。
さいごは、いつものことで申しわけないが、自民党ほどにも変われない野党への不満である。朝日の調査では衆院選での投票先(比例)について、自民41%、立憲13%とそれぞれ-2、+2ポイントで前回とくらべてもあまりかわっていない。問題は立憲の数字でこの時期、この状況での数字としてはもの足りないかぎりである。せめてあと10ポイントは欲しい。選挙の結果はあるていど上のせされると思われるが、消去法で票がはいるのでは政権奪取はおぼつかないのではないか
また、日経の調査では立憲が(選挙)協力すべき相手について、共産党とすべき6%、国民民主党とすべき25%、両方とすべき33%、両方とすべきでない20%、他はいえない、わからないとなっている。調査の詳細がわからないのでコメントはひかえるがいまの国民の気持ちをいえばそういうことであろう。
◇ 今回の総裁選は河野太郎氏の出馬で盛りあがったといえる。小泉、石破、河野あわせて小石河連合とはよくいったものである。残念ながら甘ちゃん連合におわってしまった。ようするに受信機の性能がひくかったということか。人が自分をどう見ているのかというところに軸足をおくのがふつうの日本の人の処世であろう。いつも自分を見つめる冷静な自分が等身大の真像をおくってくれる。だから抑制できる。冷静だから陶酔することもない。小石河にはそれらが欠けていたかもしれない。とはいっても、そこに小石河の魅力があるわけで異端とはいわないが、けっこう同質性を欠く存在であったらしいが、そういった存在の価値について肯定的に再考すべきではないかと思う。というのも安倍政権は石破氏とのシーソー関係があったから安定していたといえるし、また民主党(当時)や野党をつよく押しのけられたともいえるのではないか。だから自民党は石破氏に助けられたのだ。異質性がなければ魅力にかけるというのはすべての組織にいえることで、とりわけ政党においては肝腎なことだと思う。
そういう意味では、今回の自民党総裁選挙はいろいろいわれても、それなりにおもしろく興行的には成功したのではないか。(くやしいけど)
◇ 思いかえせば、このままだと衆議院選挙は大負けだという恐怖にちかい不安が、なぜか「菅総理では選挙はたたかえない」と増幅され党内での圧力を高めていった。ではだれならたたかえるのかという逆立ち論理から浮上したのが党外でも人気のある御三家小石河であった。この構造は定式化されているように思えるのでこれからも形をかえひんぱんに出現するだろう。
さて菅総理が総裁選不出馬を表明したときからながれはかわった。いいことも悪いことも全部スガに背負わせる吸着剤ポイすて効果のためか逆風はじょじょにおさまり総選挙での自民党の大負けはきえ、ゆえに風雲児はいらなくなり、端的にいって手のひらは返ったのである。
総裁をきめるのは党内である。総理に直結するから党外の世論も大切にあつかうべきだとは正論のようでそうではない。政党は政治結社であるからみずからの政治信念に立脚しめざすべき国家像にむかって邁進するべきで、そのためにふさわしい人物を総裁とすべきである。それに対する評価は選挙で国民がくだす。という緊迫感が政治をきたえるのであって、あたかも政策のまえに人気をおくようなまねをしていては政治は鈍(なま)るであろう。
かくして軌道は旧にふくしいつもの党内政局となった。こうなると小石河連合に勝ちめはなく3人とも心に傷をかかえながらの敗北となった。これは恨みっこなしの権力ゲームだから仕方のないことである。それにしても世間の人気が高い、高すぎるうえに高いことの根拠が不明であるからこれは本人河野太郎氏にとってずいぶんと危険なことであると思う。まずはマスメディアに弄ばれたということかもしれない。しかし永遠のかませイヌにしておくには惜しい。だから雲の流れをよみ新天地で王となるべきである。小石河よ、いつまでも党内バランサーというに日陰に身をおくでない、これは年寄りの忠告である。
◇ 11月7日投開票が決定的だといわれていた。しかし岸田新総理のひと言で10月31日に前だおしとなった。例によってわけしり風の評論家の弁がたつ。聞いていておもしろいがあれこれうんちくを並べられても「だからどうしたの」ということで、ようするに新型コロナの感染状況が一番ということであろう。なんといっても新規感染者数が「下」をむくか「上」をむくかで政府への風あたりがちがってくる。現状は2か月周期であるから早くしないと「上」むきになりかねない。そうなると第6波のはじまりだと人びとは受けとめるから失政感が強まり与党に不利になる。といった判断があったのではないか。
いっぽう有権者にとっては4年ぶりの投票であるから早いほうがいいに決まっている。選挙期間をのぞけば実質2週間しか仕事をしていない政権だから実績にたいする評価は困難であろう。ではどんな基準で投票するのか。正直いった判然としないのである。一部の評論家は任期4年間の実績などを中心として判断すべきと語っているが、党名はそういうことかもしれない。しかし氏名を書くにあたってはやはり今の人の評価や期待が前面にでてきてもおかしくはないことから過去よりも現在あるいは未来へと目線はうつっていくから、残念ながらアベスガ政治への評価という意識は相当薄まるだろう。
舞台はすでに岸田劇場に変じている。岸田内閣はこれからどうするのかという視点が中心になることは避けられないだろう。という意味では自公政権はうまく難を逃れたといえる。スガ解散総選挙を策謀できなかったのか、あるいはしなかったのか野党の戦略策定はだれが主導していたのか、立共関係が良好なのにどうしてかなという声が聞こえてくる、そういえばたしかにそうだが、よくわからない。
◇ さて選挙の行方をうらなうには、とくに支持する政党をもたないいわゆる支持なし層といわれている人びとの投票行動に注目することになる。なぜなら、仮に支持なし層から有権者総数の5%であっても反与党に投票する人がふえれば自公政権は打撃をうけ政局は流動化すると予想できる。もちろん仮の話である。しかしそういったことが起こるとすればそのばあいの支持なし層の意識あるいは動機はなんであろうか。アベ時代からつづいている「けしからん政治」への不満なのか、あるいは感染症対策へのうらみなのかいろいろと気になるところである。もっとも支持なし層の投票行動はうつろいやすいといわれている。もし長期にわたり特定の問題意識をもっているのなら支持あり層にうつる可能性がたかいはずであり、また調査統計では支持なし層であっても意識や投票行動からは支持あり層と考えるべき人たちもおおいと思われるがそこははずして、本来の支持なし層にかぎり文脈にもどりその動機を考えればそれは突発性集団情動といえるものではないだろうか。そこで、今回の選挙においてそのような突発性集団情動を起こすような要因があるのだろうかということになる。
◇ 突発性というのはたとえば2005年の郵政選挙のおりにみられた小泉旋風にちかいもので、政治信条あるいは政策などとは関係なく、もっとカジュアルなブームあるいはフィーバーといったもので、理屈よりも情緒にながれるものと考えられている。はなしは変わるが、60年安保も70安保も現在よりもはるかに理屈がつよかったが、ではデモに参加している若者の何割が日米安保条約の矛盾を論難できたであろうか。つまり論難すればするほど社会主義をめざすかそれとも武装中立をめざすしか選択肢がほかにないという政治的立ち位置に閉じこめられるのであって、おおくのものはそれが嫌で、なら現状の方がまだましではないかと考えるわけで、そう考えた者をふくめてノンポリと呼ばれた。そのノンポリの視点からは、ノンポリでないすごく意識の高いノンノンポリもただエネルギー量だけがやたら膨大で一部の特別な人をのぞけばけっきょく一過性の集団情動であった。その証拠に往時を思いだしながらどうしてあんなに興奮したのかその原因がさっぱりわからない、つまり再現できないという人も多いのであってだから突発性というのであり現象的には一過性なのである。
しかしこの一過性が歴史をかえるからおそろしい。選挙に依拠する国会議員らが過剰に反応し心のうちに恐怖の石碑をうちたてることから「一過性のそのお話」はいつまでも生きつづけることになる。むかしサヨクがいまサヨクを支援することはない。まだやっているのか、いつまでやっているのかといった感じであろうか。せいぜい枯れ尾花でしかないものを幽霊に見せているのは権力であり、メディアではないか。(こういう書き方ってサヨクぽいかな)
◇ さて要点は、今回の選挙においてとくに支持なし層を投票所に大挙かけこませる突発性集団情動なるものが起こりえるのかということである。さらにその項目すなわちラベルはなにかということである。具体的にはおおよそ500万票がさいごに降りつもる雪のようにどこに落ちるのか、その目印としてどんなラベルが考えられるのかということで、2015年安保法制の破棄がそのラベルにはならないことは確かだろうし、消費税減税がラベルにふさわしいかは微妙であろう。
さて適当なラベルがみつからないとなれば与野党の勝負はぼちぼちということになろう。局地では劇的なドラマがおこると予想できるが全体では平凡な与党30減程度というのが今日時点での相場観ではなかろうか。
◇ はなしがこんな風になるのは、この国では批判を遠ざける作風があり、そのため真相の解明がおろそかになるからで、すんだことはすんだこと、いまさらほじくり返しても仕方がないとか、水に流すとかいって重大なことを消化不良に終わらせる千年を超える悪弊がはびこっている。これでは国際競争時代にはそぐわない。政府においてもよくプラン・ドゥ・チェック・アクションという管理サイクルの話がでてくるが、PDCAサイクルと言葉は導入するが中身はほったらかしというのが実情であり、とくにチェックが苦手である。これは批判することが個人攻撃になると自縛しているから本気で「お手柔らか」にしてしまうのである。また批判されることを極度に恐れる優等生体質が組織の風通しをさまたげる。これでは臆病者の世界である。民間においても理事長とか社長の部屋にはかならず「失敗を怖れるな」という額が飾られている。「いつも失敗を怖れて逃げまくっているので、たまには怖れないようにしましょう」というのが正しい解釈だという人がいるがなんともいいようがない。
人間関係第一主義はけっして悪いものではないが、場面によっては頽廃をよぶ。とくに政治は相互批判がいのちであり徹底批判なくして政治の洗練あるいは進歩はありえない。
失敗を直視できない、反省できない悪弊はおもんぱかりから生じているのではないか。事実の解明よりも人間関係を大切にするから戦や競争に負けるのである。有権者も政治の来し方を批判してはじめて行く末をみきわめられるのではないか。政治では水にながしてはいけないことがおおいのだが、とくにこの十年については徹底批判あるいは検証が大切であり、その成否がわが国の未来をけっするといっても過言ではないだろう。
◇ さて10月8日岸田新総理の所信表明演説が衆参本会議場でおこなわれた。この演説にそって10月31日投開票の総選挙の公約が作成されることになるが、各党ともにさまざまな政策をうちだしている。できれば政権選択選挙にふさわしい公約のしのぎあいを期待したいものであるが、残念ながら政権政党とその他の政党とでは非対称がいちじるしく対等な競争関係にはなっていないのが現状である。わが国では国の行政組織は与党にたいし従属的であり、近年とみにその傾向を強めているにとどまらずさらに野党にたいし非協力的になっていると聞くが、選挙における選択肢の質を担保するためにも野党の政策力をささえる制度がひつようである。これは国民の利益にかなうものといえるが政党交付金のあり方もふくめ議論がひつようであろう。だから、つぎの選挙には間にあわないので、有権者もそのあたりは斟酌するひつようがあるのではないか。これは公平な選挙というなら、あるいは政権交代をふつうのこととあつかうならばぜひ考慮すべきことであると思う。
このまま55年体制の復活ということになれば、たそがれる日本をさびた政治がさらに足を引っぱることになるのではないかと危惧するものである。
◇ 所信表明演説にたいする見解が各党からだされたが、それぞれの立場からいえばとうぜんの内容であろう。ただ感想をいえばまるで段違い平行棒のようなすれちがいがあって、やや政権側のしなぞろえに目先の変化がみられる分(ぶん)リード感があった気がする。とはいえお得意の「狡知(こうち)」が目につくことからある種のあざとさを感じてしまうのだが、それがすこし気になるところである。
まず、「新しい資本主義」とはなにか、またそれは分配を前置するものであるのかが争点となるであろう。ときおり「成長も分配も」とごまかしているが、それでは今までの資本主義ではないか、ちっとも新しくない。アベノミクスは資本への分配を優先優遇したことから格差が拡大したわけで、その矛盾を埋めるのであれば貧困層、低所得層への税からの給付を制度化し、最低賃金をはじめ労働分配率を高める施策を実施し、またエッセンシャルワーカーの所得増を手当てするなどの具体策がひつようであろう。
もし「成長なくして分配なし」とひとことでもしゃべったならそれはちゃぶ台返しである。雇用者所得がのびないから個人消費がのびずに需要が停滞しているとの認識が出発点であるのだから、すくなくとも「分配なくして成長なし」と声を大にしていわなければならないのである。
ここにきてわが国が先進国における低賃金国であることが鮮明になってきた。賃金上昇では30年間ひとり低空飛行つまり完全なおいてきぼりである。かつて経団連を中心に賃金が高すぎて国際競争にまけるとさんざん吹いていたではないか。いろいろ事情があると思うがそれでも小泉改革をもってしてもおおくの国民のふところぐあいは改善どころか悪化してきたのである。この現実を経団連も直視すべきである。いわんや政権においてはなおさらであろう。「岸田政権 試される実行力」と10月9日の朝日新聞が中見出しをうっていたが、めずらしく好意的ではないか。実行力が問題であるということは内容は是というなんでしょうか。たしかに画餅であり食べられないものである。野党の批判はしごくとうぜんのものではあるが、問題は有権者の判断である。たとえ画餅であったとしてもよろしく実現してもらえればいいというかもしれない。そうなれば総選挙では罰点はつかないことになる。
これでは野党の立つ瀬がない。さきほどふれた狡知とはこういうことである。将棋でいえば相手の打ちたいところに打つ、相手の好手を封じ込める必殺技である。はばひろい自民党のなかにあってかつての宏池会のながれをくむ岸田派のねらいは中間層であり中道であったのであろう。そういえば、むかしの社会党は反安保の高揚感のなかで中道開拓をおこたり左派的存在にまいぼつしてしまった。居心地がよかったのであろう。しかしそこに議員の保身をみたのは筆者だけではなかったと思う。
さらに、かつで病で総理を辞した安倍晋三氏が無役の時代、右派の開拓に注力したことを思いだす。今度は真ん中かよ、と思わず声がでたがまあ予想できたことではあった。共産党との選挙協力という左翼周辺でのむつかしい作業に没頭しているあいだに中央をとられたのかもしれない。中央(中道)をいかにして味方にとりこむのか昨年9月の立憲・国民の合流はそのための策ではなかったのか、あいだをとりもった連合もずいぶん気をつかったと聞いているが、今日このような自民党の投網をうつがごとき中道進出にあの合流はなんであったのか、ほぞをかんでいるのは筆者だけではあるまい。
◇ さて話題の「新しい資本主義」である。新資本主義と新しい資本主義とでは語感にちがいがある。新資本主義といってしまえばそこには定式化されたイメージがあるが、新しいといえば途上感がのこる。まだまだ詰めるところがあるといいたいのだろうか、というより気持ち先行で理屈は後発なのか。ということであれば今度の選挙をつうじて肉づけしていくのも一法ではあろう。たいする野党とりわけ立憲民主党はトンビに油揚をさらわれた思いかもしれないが、油断していたことはまちがいないわけで、10月10日朝日新聞3面に、輿石東元参議院副議長の「枝野氏の個人商店のようじゃ駄目なんだ」という言葉が引用されていたが、記事の文脈はさておき、氏は個人商店とは断定しておらず、あくまで個人商店のようにみられているところに課題があると指摘されていると思われる。みられているということは世間ではそれが事実であると短絡するのであって放置するとほんとうに定着してしまうのである。
ところで、弊欄での気候変動に関する一連の雑考のなかで、筆者が脱炭素社会をささえる脱炭素経済のありようについて資本主義の改造の必要性を強調してきたが、岸田氏提起の新しい資本主義が過去と現状にたいする問題意識から出発しているのとはちがった角度すなわちきたるべき脱炭素社会から逆算してみちびかれる資本主義の改造の必要性を提起しているのである。もちろん筆者が資本主義の暴走とうけとめるなかで金融の利殖活動の抑制、労働への分配の強化など施策レベルでは似ているのかもしれない。
ここは「やれるものならやってみろ」ではなく野党としては「なにかお手伝いしましょうか」といった態度のほうがいいのではないか。似て非なるものという批判は似ていることは認めているわけで、似ているけれどちがうというのは外からはわからないがという条件文であり、食べてみれば自民党のはうまかったので野党のは食べなくてもいいという流れを生むリスクがある。
こういった与党にアドバンテージがあるゲームにおいては抱きつき戦法のほうが歩留まりがいいのである。かつて小泉純一郎氏は民主党(当時)の店先にあった「改革」のぼり旗をのこらず自分の店先にもっていって「自民党をぶっ壊す」と叫んだから民主党はいう言葉がなくなった。
ほんらい資本主義をたおすのは共産主義の役割ではないのかと素朴に思っている人も多いのではないか、発想の転換ではないが新しい資本主義と先手をとられたのは、痛い。さいきんでは自民党が革新で共産党が保守と20才台30才台は思っているという。悪い冗談ではなくあんがい当たっているかも。
とかいいつつもここは野党の頑張りをきたいしたい。そこで○○がんばれといいたいが、「○○がんばるな、まわりをがんばらせよ」と。○○にはお好きな名前を。
◇ 雑草や抜かれる草も呼び名あり
加藤敏幸
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