遅牛早牛
時事雑考「たそがれる日本と錆びつく政治Ⅱ」
◇ 衆議院が解散(10月14日)されいよいよ総選挙がはじまる。各党の選挙公約もでそろい久しぶりの政権選択選挙である。その前哨戦のつもりかもしれないが、「文芸春秋11月号」に「このままでは国家財政は破綻する」と現職の財務省事務次官が投稿したからちょっとした騒動がおきている。内容はやや古典に類するがとくだん非難すべきものではなかろう。財務省としてはとうぜんの主張ではないか。だから経済同友会の櫻田謙悟代表幹事もはやばやと賛意を表したのだろう、賛同の声もおおい。
しかしながら憤慨する方面もあるようだ。たとえば高市早苗自民党政調会長は「失礼ないい方だ。基礎的財政収支にこだわって本当にこまっている人を助けない。こんなばかげた話はない」と10日のNHK討論番組で反論したようである。まあ、失礼であるのかどうかはよくわからないが、こまっている人を助けないで財政収支だけを改善するべきとはだれもいっていないわけで、ここは高市政調会長の過剰反応ではないか。というのも基礎的財政収支の改善は反論のよちのない政策目標であるから、新政権がそれを尊重しないつもりならその理由をまず説明すべきである。
いいかえれば、通貨主権をもつ国はいくら借金しても財政破綻することはないのだからいくらでも赤字国債を発行してもいいとの理屈(たとえば現代貨幣理論など)を採用するならそのことを一度しっかりと議論すべきである。それというのも国民は何十年も赤字国債はよろしくないから早晩ゼロにすべきであると信じているというか思いこんでいるわけで、そうではないというのであるなら、そう説明をすべきである。しかし国民のおおくは納得しないであろう。そんなうまい話があるはずがないという国民の反応はまともといえばまともである。
◇ 現代貨幣理論(MMT)についてはずいぶん前にも弊欄でふれたが国内のインフレ傾向さえ押さえておけばあとは財政需要に応じればいいという「やさしい大家さん」風の理屈で、ここ10年間の経済の推移をみるかぎりは「わりと感じのいい理屈」ではないかと経済学には素人の筆者あたりは単純にうけとめてしまうのである。ところが何年かまえ、自民党の参議院議員のMMTに肯定的な質問に当時の麻生財務大臣は経済学では主流ではないと、筆者の印象でいえば邪教あつかいのニュアンスで答弁していたのである。だがアベ政権とそれにつづくスガ政権のやっていたことを考えれば、彼らこそはMMTの隠れ信奉者でないかとひそかに感じていたのである。
でないと夜眠れないでしょう、1000兆円を超える借金なんだから。といいながらここで「借金」という言葉をつかうからこんがらがるのではないかと、つまりわれわれ庶民の借金とはまるでちがう仕組みで貸した借りたではなく刷った刷らないという世間ではペテンのようなものではないかと。国債も実態としての日銀ひきうけというのは帳簿で預かっているだけで、もし金利があがっても日銀の収入が増えるだけであり、日銀のものはおれ(政府)のものだから、自分が自分にはらっているのだから痛くもかゆくもないと思っているのではないか。現実は政府と日銀は一体となっている。アベノミクスの最大の功績(?)は実はこれではないかと思う。つまり政府が印刷機をもてばこれほど都合のいいことはない、国民もいい湯かげんだとわかってくれている。なるほどそういう面もあるなと思わずうなずいてしまう己の学のなさが情けない。そういった「めでたし、めでたし」で済ませていいのか、きちんと議論しろよといいたい。アベスガ時代はてっていてきに議論をさけたがこの公論をないがしろにする姿勢はかたちをかえてこの国に災いをもたらすと思うのであるが、詳細は後日ということで。
◇ では赤字国債とはなにか。「ううっ、それは偽札のような本物のような偽札です。だからだれにもわかりません」「その偽札をつかって年金生活者に政府が送金しているのです」「水族館の海水を薄める感じですかね」とひとりでぶつぶつとやっている。「しょうしょう薄めたって魚は死にませんよ」「でもいき値をこえると駄目でしょうね、それがどの程度なのか」「やってみないと分からない」とはそうとうに物騒な話ではある。ただ赤字国債偽札説は荒唐無稽(思いつき)ではあるが、あるいみ貨幣のやくわりを庶民感覚でいいあてているのではないか。
ということで、今度の総選挙は財務次官ご心配のとおり「バラマキ競争」のようそうを呈している。財源のうらづけのない施策のオンパレードである。こんなにゆるみきった公約は見たことがない。それにしても消費増税の道を、政権と党分裂というおおきな犠牲をはらって切りひらいた人たち(昔の民主党)が時限的消費減税を公約にしているのだからその覚悟たるやとほめそやしたいところであるが、与党もふくめここまで財政規律に無頓着な、まただらしのない姿を目にしたからには国民としてなにかを疑うべきと思うのである。
◇ そのひとつは与野党ともにひそかにMMTに転向しているのではないかと。だから記者から財源はと質問されるとそりゃ国債でしょうと臆面もなくいい放てるのではないか。それにしても財政規律の重力がよわくなっている、すくなくとも永田町ではそのようである。そのぐらいMMTは政治家にとっておいしい理屈なのであろう。MMTへの逆風がよわまるのと期をおなじくして財政規律がゆるみはじめた。こういったゆるみ現象は世界的傾向と思われるが通貨主権をもたない国は対象外であるから現象は限定的であろう。
また通貨主権国における水族館の海水希薄化(ようは水増し)もかならずいき値があるので限界点についてはきびしく監視するひつようがある。では監視対象とすべき指標をどう考えるかであるが、インフレ率だけでは役にたたないと思われる。インフレ率には遅延性があり、つまり警報がでたときにはすでに手遅れでありハイパーインフレを止められないのではないかという指摘も根づよい。まあしっかりした先行指標を監視すべきであろうが、ざんねんながら失敗するケースのにおいがする。民主政治における重大な判断すなわち究極の決断では、ポピュリズムに依拠する確率のほうが信念による決断よりもはるかに高いのではないか。そしてポピュリズムに依拠する決断は衆愚性ゆえに失敗する確率が高いといえる(もちろんうまくいくばあいもあるが)。
ちょくさいにいえばポピュリズムに流れるのであれば、なにも政治家に委任するひつようはないわけで、なんでもかんでも国民投票にかければいいのである。
◇ 各国とも人びとは、財政について「お気楽な政治家」をえらんでおきながら財政規律の厳格化をあとづけで求めているのではないか。どう考えてもインフレは盗賊よりもたちが悪く根絶するのは困難であるから、いちばんの被害者たる国民こそが日ごろから感覚をとぎすまし予防的対応に腐心すべきであろう。といきなり国民サイドに責任をふられても困ったものであるが、ともかく国民が政治を頼りにしすぎるから、あるいは政治家に決定権を与えすぎるから、ハイパーインフレがおこりみんなで不幸になるのかもしれない。
などといいつつもほんとうのところは、政治は国民の写し鏡だからさきざきに不幸や災厄をまねくことをしりながらも今日の享楽や気楽さをえらんでしまうのは国民サイドに原因があるといえるのではないか。
100円の菓子を100個もらって喜んでいるうちに100万円損するからくりもあるとわかっているが、個としての人類は賢明であるが集団としての人類は暗愚なのかもしれない。
◇ ところで、各党の選挙公約では分配にかんする項目がふえ、あらたな論点が浮上しているようにみうけられる。それだけ日本の貧しさを実感しているのか。まあ先進国のなかの低賃金国あるいは賃上げ停滞国が30年つづいているのだからおそすぎる着眼と思うがまずは歓迎したい。
しかし各党の品ぞろえをみるとなにかしら気になる。とくに税を原資にしての再分配政策については財源確保の考え方がじゅうぶん整理されていないことから、結果としてすこしも噛みあわない空まわり論議におわるのではないかと心配している。前述のとおり現代貨幣理論(MMT)を土台に赤字国債を財源とする方針であるならそのように宣言すべきである。どうじに国の借金の性格と限度についても明示すべきで、あいまいな空気感ですすめては国を過つことになる。なしくずし的にものごとをすすめる悪弊は国民が投票で断ちきらなければ直らないもので、おなじ事をなん度もいうようだが、先の大戦にいたる反省からもあいまいとかなしくずしは重大な決定の場面においては駆除すべきである。
というきびしい前提のもとで再分配についての議論はくりひろげられるべきであろう。前提さえ明確にされれば赤字国債を財源とするとの主張はそれなりに成立するといえるが、問題は議論がどうであれ国民負担であることにかわりはないわけで、いずれインフレか増税で始末をつけなければならない。しかしおおくは先おくりされると思われる。先おくりこそ不作為の大罪だと思うのだが。
◇ つぎに再分配のあり方であるが、そもそも再分配は分配におおきな格差があることから行政をとおして調整するもので、昨年の特別定額給付金は再分配とは趣旨において関係ないものであろう。あえていうのであれば「格差是正に寄与しない」とか「実質格差拡大につながる」といった注釈をくわえるべきである。また政策効果についての議論がはなはだ不足している。というのも昨年の自民党政調が提起したとくにこまっている世帯を対象に30万円を給付する案を、給付スピードの一点だけでくつがえすという異例の事態がはっせいしたが、宮廷クーデターのようなめちゃくちゃとしかいいようがない。当時の幹事長が今日遠ざけられるのは仕方がないことかもしれない。
その給付総額12.7兆円のうち経済効果をもたらせたのは2から3兆円ではないかといわれている。多くは予想通り貯蓄にまわっていると考えられるが、これは借金大国のすることではない。
という文脈をなぞりながら、各党の分配策と類されている再分配策をながめるとまずその目的のあいまいさが気になる。感染症ゆらいの生活困窮への手当であるのなら対象をしぼるべきであるし、恒久化してはならない。いっぽう消費税の税率ひきさげは高所得者に有利な施策でそれを再分配策というのは誤解をうみ、害があると思う。とくに年金などの社会保障制度を安定的にささえるための恒久財源として国民の理解をえたはずなのになしくずし的に趣旨をゆがめていくのはかぎりなく政権政党的であるがそれを野党が唱導しているのだから狐にだまされた感じがする。
◇ さて肝腎の分配であるが、もともと国民負担率でいえば先進国のなかではわが国の水準はひくく、およそ10%ポイントの余地があると思われる。つまり消費税が20%であってもおかしくはないのである。ただそんなことが政治的に俎上にのせられるのかという反対があって議論の交通整理がむつかしいのが現実である。ということを前提にして、まずは資本と労働への分配のあり方をどうするのか。また政府のとり分(税、社会保険料など)をどうするのか。さらに資本のなかでの分配構造(業種、企業規模格差)をどうするのか、特措法などによる政策減税をどうするのか、配当・利子課税をどうするのか、こういったことも重要なテーマで、たとえばおおきな政府を前提とするなら政府のとり分をふやさざるをえないし、それはいいことであると確信をもっておおきな政府を掲げているのであろうから、どうどうと負担増をうたえばいいのではないか。おおきな政府のめざすところは国民への良質な行政サービス(感染症対策など)の提供であるから、政府のとり分がふえたとしてもそれはいずれ国民にかえってくるものなので良しとしなければならないが、この国には負担がふえるのはとにかく反対という気風があるようで、この点の理解を深めなければよりよい社会の建設はむつかしくなる。
◇ 今回の議論には、雇用者所得の向上をはかるという基本命題がうめこまれていると思われる。これを「労働への分配を強化する」と読みかえると風景ががらりとかわる。とくに最低賃金の引上げ、賃金格差の解消(非正規労働への対応)、政府(公的機関)調達価格の引上げといったむつかしい課題が横たわっている。
とくに、市場形成価額への政府の介入は資本主義の根幹にかかわる重大事項であり、岸田新総理の「新しい資本主義」がどこまで射程をのばすつもりなのかわからないし、また1、2年でできるとも思えない。しかし、いっていることを達成するには資本主義をおおきく改造するひつようがあると思われる。おそらくちいさな改造では労働分配は改善できないであろうと筆者としては考えているので、小手先だけに終始するのならやらないでほしいと思う。
さらに労使交渉を原則とするもの、政労使で話しあうもの(三者協議)など既存のしくみをかえるには理念なりビジョンがひつようであるが、そもそもそんな準備などは皆無であり、野党の公約のようないきなり「最賃1500円」などは気分はわかるが気持ちだけでは実行不可能であろう。
再分配なら財源論をクリアすれば実現性はたかまるが、分配構造とくに労働分配を変革するには根本的な手続きの革新がひつようであって、今回の総選挙における立候補者のなかにそういった知見あるいは経験を有する者がいったいどのていどおられるのか、はなはだ疑問である。
◇ この「手続きの革新」とは、たとえば今年の中央最低審議会では使用者委員の強固な反対をおして28円増の目安をだしたが、同じことがつづくようであればそのうち使用者委員は不在となるおそれがでてくるであろう。あるいは罰則規定をはずすことを使用者として提案してくるであろう。そうなったばあい政府としてどのような対策が考えられるのか。あるいは最賃法違反事案が多発し恒常化するとかまた違憲訴訟が発生するとか政府にとって容易ならざる事態が起こりえるのである。それらに対抗できるだけの政治的、社会的、法理的根拠をもちうるのかといった法治国家として重大な基礎工事がひつようであるのだが、さてどうするのか挑戦者である野党にはしっかりした答えをみいだしてほしいと思う。
さらにサプライチェーンにおける連結点ごとにどの程度の付加価値をてもとにおいていくのかが中小規模企業に働く労働者の取り分を規定するうえで重要であることから、たん的にいって中小規模企業のパイをおおきくする必要があるが、「中小規模企業パイ増大法」をつくることが法理上可能なのか。かつて二重構造という言葉をつかって規模間格差が論じられたが、付加価値をめぐる争奪戦に政府が介入できるよちがわが国の法制度上ありうるのか、あるのならどんどんやってもらいたいといいたいが、そうなれば現在の中国以上に社会主義ではないかと非難されるであろう。であれば取引にあたっての契約の自由を制限しうる「手続きの革新」を編成できるのか、といえば無理でしょとなるではないか。
◇ 「分配なくして成長なし」と「成長なくして分配なし」とは語順がちがうだけではない、天地がひっくりかえるほどの違いがあるにもかかわらず政策討論番組ではきらくな発言がとびかっていた。前回の弊欄で「成長なくして分配なし」といったらちゃぶ台返しだとのべたが、すでにそういう状況になっている。ここで考えてほしいのは「成長あって分配なし」では暴動ものであろうし、「成長あって分配あり」は当然ではないか。たほう「分配なく成長あり」は輸出産業など外部経済依存型の輸出基地国家のありようであろう。また「分配あって成長あり」はご期待の好循環であるからめでたしめでたしで、あらためて選挙で議論することもないだろう。だから「分配なくして成長なし」と「分配あって成長なし」というきわどいケースをどう考えるかであるが、「分配なくして成長なし」とは雇用者所得の低迷が個人消費を消沈させ、ながびく経済停滞をうみだしているという認識からうまれたもので国際機関などからもそういった指摘がされている。
また、「分配あり成長なし」というのであれば総理が経団連や連合会長に春の賃上げを激励するひつようはない。むしろコストプッシュ型インフレを心配したほうがいいということで近年においてはほとんどみられないケースであろう。
ということでまずは「分配」政策に専念すべきということであろう。だから「成長なくして分配なし」というのは、労働分配は限定しとじこめるべしという昭和初期の資本家のいうこととおなじで強欲そのままの姿勢であろう。そもそも成長の果実を資本がひとりじめしてきたことが格差拡大感をあおっているのであって、政治家が間違っても「成長なくして分配なし」といってはならないはずで、たとえば小泉時代にトリクルダウンとかいって、「まず成長、そうすればやがてしずくのおすそ分け」といっていたのが、「待てど暮らせど来ぬ分配」でがっかりさせられたが、今でもそう思っているのであれば国民政党の看板をはずし日本資本党とでもすべきであろう。
しかし、語るに落ちるとはよくいったもので、なんでもかんでも成長さえすれば解決できるという成長偏重型資本主義がどれだけ世界を悪くしているか、という反省からSDGsやESGという概念がうまれているという世界の現状に比しまたまた周回遅れをやらかそうとしているのかといいたくなるのである。
ということから政府が労働分配に腐心することは大いにありうることではあるが、しかし分配構造に手をいれるにはそうとうの覚悟と準備がひつようで時間もかかるうえに、使用者の反対や抵抗を考えれば現在の自公政権ではむつかしいのではないか。できることは努力してもらうとしても、労働分配の大半の課題はやはり労使団体にまかせ、政府としては労働側の交渉力をささえる、ここは強力にやらなければ結実しそうもないのだが、いわば環境整備あるいは黒子役にてっしたほうがいいと思われる。
◇ では、労使団体が労働分配の改善にどういった役割をはたせるのかという問題であるが、ここにはさまざまな障害となる課題がよこたわっている。
そのひとつが、推定組織率17%強、くわえて協約拡張適用率はそれよりも低いという現実であろう。また相対(あいたい)の交渉では使用者側が支配的であって、さらに82%強の労働者は労働組合未加入であるから賃金はじめ労働条件の改善機会をえられない状況にある。この現状がたいへん都合がいいとこころの内で思っている経営者と政治家が大多数であるかぎり「先進国のなかの低賃金国」の汚名をへんじょうするのは不可能にちかい。汚名だけではない、雇用者所得の低迷は国内市場を活用した新製品やサービスの開発機会を企業からうばうもので、国全体としても活力のないたそがれる風景をうみだしている。輸出産業にとって一定規模のホームグランドで製品力を研鑽し利益を蓄積しさらなる新技術などへ先行投資をしていく成長スパイラルがあってはじめて競争力が身につくのである。そういった助走あるいは跳躍台をもたずにいきなり海外市場で勝負となるとリスクにたえきれず断念というケースが頻発するであろう。ふ卵器として役だつはずの国内市場の収縮が経済停滞の原因のひとつであり、そのまた原因のひとつが低賃金あるいは賃金停滞にあると考えれば労働分配の改善は政治家にとっても経済人にとってもまさに喫緊の課題というべきもので、それがいま分配という言葉が選挙でつかわれるようになったことからようやく本題にたどりつけたといえる。「遅すぎる感」は否めないが本気でなかみのある議論をしてほしいものである。
◇ 労働市場をつうじてあるいは労使交渉をつうじて労働分配を改善するというのは王道であるが、かんたんなことではない。ために政府は健全な交渉の促進をはからなければならない。交渉の促進といっても現状の組織率があまりにもひくいことから、あらためて交渉の枠組みを整備しなければならないのであるが、ひとつは疑似団体による交渉をみとめ、促進する方法がある。いわゆる労使委員会方式であるが既存労働団体の賛同がなければ机上の空論におわるし、実質的にどれほどの交渉ができるのかまた企業単位に設置されるとして産業別組合に参加せずに重要な情報欠如のなかでメンバーが納得できる成果をだせるのか、さまざまな問題があるといえる。
つぎに最賃方式というか、中央で賃金引き上げの目安を三者委員会で決定する方式である。あくまでも目安であるから強制力は無論ない、ストライキも実質できないという環境ではあるが、三者一致でなくとも議論のながれなどから公益委員が各論を併記しながらも目安としての方向性をうちだすことは可能であるから、交渉の参考値として、あるいは労働組合のない企業においても就業規則の変更にあたり従業員の意見聴取は有用であるからあわせて中央からしめされている目安についても意見交換はできると思われる。
かつて春闘といわれ世間の耳目をあつめていたころ、各産業別組合が連携あるいは連絡しながら賃上げ相場を形成していた時代があった。もちろん額と率の問題や平均と労務構成の関係などさまざまな課題があったのも事実であるが、この春闘の真骨頂は波及効果にあったといえる。筆者も連合の事務方として労働政策を担当としていたが、集中回答がおわり何日かがすぎたころ少なからず電話がはいってくるのであるが、電話は中小企業の経営者からで「今回の賃上げはどの程度がよろしいでしょうか」というものであった。詳しい状況を説明しても「でいくらでしょうか」と、つまり交渉はしないけれど世間並みはなんとかしたいという気持ちが滲んでくるようであった。経営者の多くは賃上げをしないことの負の側面を痛いほど経験しているわけであり、相場には敏感であった。
今日、産業や業種のちがいあるいは個別企業の業績がさまざまなことから、なにごとも一律にはいかないとはいえ、国全体として賃金引き上げの目安をしめすことにはそれなりの意義があるのではないか、まして賃金改善がひつようであるとの共通認識が形成されるならば先ほどのべた公的な場面で審議をつくし結果としての参考指標をひろく明示することはおおいに意義のあることだと思われる。
経団連もとうぜんのことではあるが反賃上げという立場ではなく、あくまで支払い能力の範囲でだせるところはだすべしとの態度は一貫している。もちろん最終的な判断は協約単位、あるいは就業規則単位に決定されるものではあるが、概数的な相場観をひとつの参考指標として各現場で議論することはそれなりに意味のあることと思われる。
◇ もうひとつの課題は、前述のような工夫をかさねるにしても組織率が17%強という状況では組織的な賃上げには限界があり、とくに未組織領域においては労働分配そのものが低位固定化しているものと推察される。昔は、大幅賃上げのゆくえをおおいに危惧する立場からの意見が経営者を中心に大量にだされたもので、生産性基準原理とか付加価値生産性あるいは物価との関係などさまざま論点について労使間での論争がつづいた。今ではそういった面影はみられないがこれでいいのだろうかという疑問がふつふつとわいてくる。静かになったけれどもそれはたそがれるゆえに静かなのか、問題を克服したから静かなのかよくわからない。
いずれにしろぶあつい中間層という言葉がとびかっているが、活力ある集団がいくえにも形成されることをもふくめ、社会構成のイメージをいっているのだろう。思いにおおきな差があるとは思えない。ただ散在する集団をつないでいく原理としてなにかしらの紐帯となるものが必要であることは共通していると思われる。平明にいうならばより良き社会をつくるために何をするべきかについて円滑な意見交換ができることが分断されない社会をもとめての第一歩ではないかと思う。
といった文脈をふまえ怒号と怨嗟のなかで賃上げをなすのではなく、そうとうの理解と期待のなかで賃上げをなしとげていく方法を工夫することが公益に寄与する道ではないかと思う。労働組合主義の理想はそれぞれの職域において自発的に労使が賃金改善のために協力し工夫をかさねるところにあるといえる。ということから結論的にいえば組織率のかくだんの伸長なしに、わが国経済を活性化するため先進国なみの賃金水準にひきあげることはきわめて困難であるといわざるをえないし労働への分配が先進国での最劣位に低迷していることに政治家においてもあるいは経済人においてもさらに学識者や評論家においてもまた報道者においてもなんらの疑問やはずかしさそして悔しさをも感じないとなればそれこそたそがれる日本を自然現象ととらえているということではないか。ということであればわが国の政治はまさに錆びついていると思われる。
さらに非正規労働問題への対応など経済停滞を克服するうえで重要な課題が残されているが、これらの課題についての処方箋が選挙戦において十分な議論に付されることは期待できないであろう。少しばかりの問題提起とスローガンのくり返しを非難する気はない。しかし低賃金労働者がここに集中し生活困窮者もここに集中していることは事実であって、政治を語るならここをはずすことはできないはずである。この問題には本質的な賃金差別がふくまれていて、資本主義が倫理にもとづくものではないという実証になっていると思われる。
同一労働同一賃金という理念だけでは解決できない部分があり、それには個人と世帯という近年の家族のあり方論がつながっている。ここを解きほぐさなければさらなる経済の発展はむつかしいであろう。この国の停滞は経済論ではなく社会学、行政学、倫理学、哲学の分野からもたらされているもので、誰もがうなづく成長政策で解決できるものではない、というのが筆者の見立てである。(いずれ提示したいと思っているが)
◇ 今回は分配を中心に雑考をかさねた。付録として政府と国民との信頼についてじゅうらいの立場をはなれ愚考をかさねているが、いいたいことは国民の側にも民主制というならば政府を信頼する責任があるのではないかとの長年の思いからいずるものである。もちろん政府の側に大きな責任があることは当然ではあるが、ひとりひとりの国民にもそれそうとうの責任があるというのが主権在民の本旨ではないかと思う。
◇ 夙川や涼秋をさがす土手歩き
《付録》
政府への不信感がおおきな障害、なにかと発展を阻害しているのではないか
◇ とくに、政府の役割について、たとえば国民からの収奪といった極端な理解があって、これが「人びとの参加でより良い社会を」つくっていくという民主主義の基本理念の浸透をさまたげているように感じられる。もちろん先の大戦での人びとの犠牲を考えれば政府あるいは政治権力への忌避感情や嫌悪感はあってあたりまえである、さらに公害はじめさまざまな場面で被害を受けたあるいは政府の不作為によって苦しめられたといった、政府不信あるいは政治不信を掻きたてる事象にことかかない現実もある、それでも選挙によってつくられた政権をまずは信頼しささえるという人びとの心的態度がなければ民主国家の運営はむつかしいと思うので、神経をさかなでされる思いをする人がいるかもしれないが、あえて極楽とんぼのようないい分をならべているのである。
◇ 鶏がさきか卵がさきかといったどうどうめぐりは避けたいが、「信用されるような政府になってから出直してこい」と、不信を前面においたのでは議論はすすまない。議論がすすまないのは政府の責任であるという理屈もわかるがそれで損をするのは人びとのほうではないか。現行選挙制度では投票の51%の支持で当選できるわけで、この制度のすごいところは49%を捨てさるところにある。つまり理論上は多数者の専制が可能なのだ。だが、ほんとうに有権者の51%の頭数をそろえての専制なのかについてはじつのところ疑わしいのであって、選挙の結果としての多数派の専制というのが正確ないいかたであろう。というのも投票率しだいで議論のおもむきがちがってくるのであって、もし投票率が50%をしたまわるようだと有権者の25%超での専制の可能性もあるわけで議会での多数決の意味について政治的な異論がでる余地がないとはいえないだろう。
ぎゃくに投票率71%超かつ得票率71%超で有権者の50%超の信任をえたと想定すれば多数決のおもみもちがってくるのではないか。こういった認識は多数派(51%以上)よりも少数派(49%以下)にとって有効な対抗策を考えるうえで参考になると思われる。
少数派(49%以下)が巧妙に政策実現をはからなければこの国は良くならない
◇ そこで多数派に対抗すべき少数派としてはある種の戦略がひつようになるわけで、もちろん小選挙区での野党協力もあってとうぜんではあるが、限界がある。つよい与党への牽制という段階にあるうちはいいが、政権交代が射程にはいるとそれぞれに欲がでてくるので選挙協力がむつかしくなるとか、野党支持者のなかで棄権がふえるといったことがおこり、政権に近づけば近づくほど困難になるであろう。またこれは連立政権(強い政策協定)を前提としない選挙協力の限界をしめす現象で、有権者の多くは支持する政党の候補者に投票したいのであって、いろいろと理屈があるとしてもスイッチング(支持政党以外への投票行動)はやりたくないのが本音であろう。とはいえ、たとえば与党が強すぎるあるいは三分の二をこえる議席をもっているといった状況では条件がととのえば気持ちをおさえて戦略的投票行動をとるかもしれないが、そうでなければスイッチング効果は限定されると思う。
このようなあくまで選挙において議席を獲得するという徹底抗戦型対応に撤する政党をひきつづき支援するとして、また政権交代とはいっても可能性がひくくただ無限挑戦をくりかえす現実についても甘受するとして、さて少数派にとどまらざるをえない有権者としてそれでいいのだろうか、と考えてみることはそれなりに価値のあることだと思われる。
そこで、選挙による対決というハードな路線とはべつに政権と国民との関係において政党支持という枠組みからは、すこしはなれた融和的あるいは契約的信頼関係をベースにした「政策実現」という分断回避の経路をもとめるソフト路線があってもいいのではないかと、ふと思うのである。
ソフト路線もあるのでは、ようは「政策実現」が大切である
◇ というのも対立的政党関係をベースにした政権交代というモデルがこれからの時代にほんとうに適合的であるのかさまざまな立場から疑問が提示されているうえに、2009年からの民主党政権の経験もふまえ少数派の政治参加のあり方としてまた政策制度課題における果実を現実のものにするという政策実現に軸足をおいた現実路線のほうが職域での評価につながるのではないかといった思索のなかで、くわえてすべてを政権交代に結集させるゼロかイチかというデジタルモデルのもつ非生産的側面に嫌気というか徒労感を感じるなかで、ソフト路線を一度ためしてみるのもけっしておかしなことではなく、むしろ自然な流れのような気がするのである。
労働団体の連合が「反自民」という言葉をつかったのは結成まもない時期でそれも短期間かつ限定的であった。その後は「非自民」となったが、最近の語用についてはおくとして、対政府要請において「反自民」ではいくらなんでも非礼というか頭からけんか腰の印象はぬぐえず、これでは要請事項を採用するなといっているにもひとしい。むろん、政府と自民党とは次元のちがう別法人ではあるが、そんな象牙の塔のレトリックで職場組合員が納得するべくもないのである。ときに野党とともに政権交代を画策しながら、たほうではあれやこれやと総理に面とむかって注文をつける。見事といえば見事ではあるが手前勝手といえば勝手すぎるともいえることから、とくに保守系政党を支持する組合員にとってはじつに理解しがたいものではなかろうか、そのうえ近年この保守系政党を支持する組合員の比率がおおきくのびている現実を直視すれば政策制度課題への対応は「政党選択」よりも「政策選択」に軸足をうつしたほうが適切ではないかと、ずいぶん実験的ではあるが、これも時代のながれのひとつかもしれない。
政権をとったときに行政の協力がえられるような信頼関係をつくるべし
◇ もうひとつ重要な問題は、なにか政府や行政への根源的なレベルでの不信感がわが国の発展を阻害しているように思えてならない。だから野党の政権批判は民主政治においては絶対的にひつようではあるが、政府機関やその機能への批判については感情にながれることなく事実にもとづく客観性のたかいものでなければ世論をミスリードすることもあるわけで、政治的に対立関係にある政党間の非難合戦と行政機関にたいする批判とは明確に区分しなければ政権交代が日常化した場合の行政機関の中立性の保持に支障をきたす怖れもあると思う。
おおきくまとめて政治不信といわれているが、現に指摘されている問題が完全に解消することが可能なのか。それが解消されないかぎり政治不信という荒野がつづくのか、そして機会をとらえてあたかも枕詞のように政治不信が喧伝されつづけるのか、たしかに負のイメージの連鎖形成は野党にとってとても便利な小道具ではあるが、そういったネガティブキャンペーンに拘泥しすぎると「批判のための批判」「反対のための反対」といった相手からの反撃キャンペーンに機会をあたえることになり、批判しているのも事実、反対しているのも事実として有権者の認識が定着することになりかねない。そのうえで政治の場では議論から効果的な結論を導きださなければならない課題もおおいことから有権者による辛辣な評価にさらされることになる。そのときに「批判のための批判」あるいは「反対のための反対」というレッテルがひどく効いてくるのである。こういった巧妙な罠がしかけられていることをうけとめたうえで個別課題にたいしては紋切調ではなく当事者らがなるほどと思える対応をしてほしいものである。(できているとは思うが)
◇ たとえば個人情報保護についても、マイナンバーの活用についても、所有者不明の不動産の処分についても国会で決めてもらわなければ動きようのない課題は山のようにあり、昨今、口をひらけば与党も野党も成長戦略ととなえているが、マイナンバーの活用が低迷するなかでIT社会の展望がひらけるはずがないではないか。先進国の最後尾に位置せざるをえない理由に社会制度の革新をおこたる政治事情があるとほとんどの人が思っているのに、十年単位でダラダラとさきのばしをしているが、これは世界でも屈指の「解決さきのばし政治」といえるのではないだろうか。たとえば非正規労働問題は提起されてもう何年になるのだろうか、その解決は分配論議をまたなければ着手できないものだろうか、そうではなく熱意の問題ではないか。
政治不信がかりにあるとすればそれは政治の問題解決能力に突きつけられたもので、与野党ともに受け止めなければならいと思う。もちろん与党の責任のほうがはるかにおおきいのであるが。
了
加藤敏幸
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