遅牛早牛

時事雑考「視界不良、立憲民主党のこれからと合流組の誤算」

立憲民主党の新代表は何を悩むべきか

◇ もう少し時間が必要ではないか、と思う。立憲民主党の新執行部は代表の泉健太氏をはじめ「新しい」人たちであるから、有権者としては待つことも大切だと思う。やはりというべきか、わが国の政治にとって野党の存在がきわめて重要であることはこの十年の経過からいって誰しもそう思っているのではないか。それに、急(せ)いても仕方がないので、ここは内心イライラしながらも見守るのが上策であると思う。

 さて、前代表の辞任表明からおよそ50日、新執行部は山積する難問を背負いながら再生の道筋を模索していると思われるが、前途は思いのほか険しく厳しい。さらに状況を難しくしているのが、選択肢が限定されていることであろう。この状況を将棋にたとえれば、打ちたい桝目にはすでに相手の駒が打たれているようなもので、とにかく打つ手が限られているのである。それに「再生」という桝目はない。

中道という沃地」を放棄した代償はあまりにも大きい

◇ そもそも10月の衆議院選挙で「中道という沃地」を放棄したことが大きな戦略ミスであったことから、議席減にとどまらないダメージを受けるという容易ならざる事態が生まれ、それがなお続いているのである。これを来年7月の参議院選挙までにどこまでリカバリーできるのか、難問というほかに言葉はない。

 普通に考えれば、新代表だからフリーハンドで臨めるはずで、そのための代表選挙ではなかったのかと党内世論が動きだしそうだが、現下の国会対応に紛れているためか、そうなるのかならないのか今はわからない状況にある。

 そこで、意地悪ないい方に聞こえるかもしれないが、前代表時代に行きづまっていたことを代表を変えたぐらいで解決できるはずがないのであって、問題は「選挙の結果」から生じてはいるが、その根っこは「選挙以前」から内在していたと思われる。であるなら、いずれ根っこの問題が顕在化し、展開次第では泉執行部の前途を阻むかもしれない。

 また、ベテランと呼ばれる立派な先生方が物陰で息をひそめているようで何かしら不気味であるが、見えないものは存在しないのだから新執行部は影におびえず突き進んでいくべきであろう。

路線問題の根源は支持者にあるから、変更は相当に困難であろう

◇ 最大の問題はエダノ路線をどの程度継承するかであろう。もちろん、泉代表の本来の政治スタンスを考えれば「中道志向」と思われる。しかし、衆議院の現有議席は中道層から与えられたとはいい難いわけで、現有議席を与えてくれた支持層からはなれていくことのジレンマをどのように克服していくのかについては、党全体で意志を固める必要があり、かなり厄介な作業になるのではないかと、勝手に心配している。

 今回の選挙結果を比例区を中心に簡単にまとめれば、日本共産党(以下共産党)との選挙協力などから左傾化がすすんでいると判断した中道層が政党名の記載を忌避したことにより、議席減という惨めな結果がもたらされたといえる。

 そこで、今さら中道層へすり寄ることは、先の選挙で支持を寄せてくれた有権者をないがしろにすることになるのではないか、という理屈が頭をもたげてくるかもしれない。

 つまり、選挙結果を直視すれば、泉代表とその仲間たちの政治姿勢がいかなるものであったとしても、立憲民主党はれっきとした左派政党であると有権者が投票行動でそう認定したといえる。博多行きの乗車券で東京へ向かうことはできない。買いかえる意義と大義そして時間があるのか、またそういった議論が可能なのか、「好きにしたら」といった世間の冷たい視線を感じながらも、少しは応援しなければと思っているシニア世代は少なくないだろう。

◇ 一般論ではあるが、選挙の洗礼を受けた議員には選挙の内実について分かることがある。とくに当落の分かれ道については心当たりというか感じる何かがあるもので、12日間の選挙運動をつうじて、有権者の微妙な表情から感じられるさまざまなことが、総体として語ることこそ「選挙の真実」であると当事者は思うものである。

 だから、選挙によってその左派性が強化されたと指摘されれば、すぐさまそんなことはないとの反論が生じるのは当然であろう。たとえば2017年の選挙で無所属を選択したベテランの先生方は左派政党に所属した覚えはないと、本心からそう思われているのかもしれないが、今日の選挙制度は政党法こそないものの明らかに政党をベースにしたものであることは争いのないところであるから、どんなつもりであったとしても、選挙において党首が何を約束したのかということと、それを有権者がどのように受け止めたのかという二つの要素が、すべてではないが決定的なものとして選挙結果につよく影響しているといえる。

 つまり、今回の選挙結果をみれば有権者は立憲民主党を「左派政党」であると規定したと考えている。だから、共産党とはどんな約束をしたのか、これがきわめて重要であり、立憲民主党の今後を占ううえでの最重要事項であるといえる。

 

◇ こういった理屈(直近の選挙での支持層の尊重)が世間におけるトレンドになれば、泉代表のフリーハンドは大きく制約されることになるだろう。したがって対抗的には、党内世論として「せっかくのフリーハンドを生かすべし」という機運が盛り上がりその流れに乗り、エダノ路線の大幅修正におよぶならば「再生」という言葉にふさわしい実体を得ることになり、来年の通常国会から夏の参議院選挙に向けて大いにリーダーシップを発揮できるだろうと思われる。しかし、これには逆方向もありうることから、立憲民主党の党内世論の動向こそが新年から春先にかけての最大の注目点と思われる。

ユニークな結党物語からの脱皮こそ政権政党への道?

◇ さて、立憲民主党は旗印でもって結党したわけではなく、小池百合子氏が率いていた希望の党による選別を「理不尽な仕打ち」と受け止め、堪忍ならないと救命ボート的に船出したわけで、出エジプトというと大袈裟になるが一種の迫害ストーリーといえるもので、その迫害の根底にある印はその左派性であって、それも希望の党側が印象を根拠に押しあてた烙印ともいうべき代物であったから、正直あやしくおかしな出来事になってしまった。これは政治史的には野党内の「左派切り捨てとその救済」劇にすぎないと考えている。

 それでも、船出にあたって引き潮に追い風を受けたことから、2017年10月の選挙で野党第一党になってしまったのである。この、なってしまったという感覚、つまり意図せざる野党第一党という配役がさらに話を難しくしたと受け止めている。

 くわえて、投錨先の港がたまたま共産党の隣であったからといえばやや誤解が生じるのでここでの因果関係は外し、少なくともその後の活動あるいは党としての立ち居振る舞いが左派政党色を醸し出したといえなくもない。こういった曖昧な表現からなかなか抜け出せないのは、枝野氏自身がどの程度の左派性を有しているのか、これがはっきりしないからである。まるで分からないので、あれこれと妄想にちかい仮説をたててみたものの、茫漠とした印象が変わることはなかった。

 しかし、昨年9月の旧国民民主党との合流(旧国民民主党右派の切り離し)、あるいは今年10月の総選挙における共産党との選挙協力の深化や「限定的な閣外からの協力」などにより、共産党とともにわが国の左派を形成する有力な政党としての旗幟が鮮明になったことから、路線についてはもはや議論の余地がなくなったといわざるをえない。

 ここまでの顛末をふまえながら素朴な感想を述べれば、「路地裏に乗り入れると車を動かせなくなるから不便でも広い道に止めておくのさ」ということで「まあ、バックで帰るしかないのではないか」といった感じであろうか。

 さて、どこまでも前に進んでいくのか、思い切ってバックにギアをいれるのか、それとも乗り捨てるのか、わかりやすい三択であるが、この車そのものはいずれ元の持ち主のもとへ帰るような気がしてならない。

 

◇ 前回の弊欄で、政党にとってのブランド性について少し触れたが、要点は「らしさ」が確立しているかどうかであり、そのらしさを生みだしている理念や主義あるいは主要な政策の傾向がもっとも重要であると思われる。もちろん、些細なこと、たとえば立ち居振る舞いなどであっても共通した何かがあれば、それがこの場合の政党らしさ、つまりブランドの一部を形成しているといえる。

 

 さて、世間はそれらを難しく受けとめているのではなく、たとえば色彩だとか匂いあるいは柔らかいのか固いのか、さらに冷たいのか温かいのか、または汚れているといった清濁などの感覚をともなう形で政党をイメージしていると思われる。つまりイメージの由来は感覚であり、論理ではないのである。もちろん論理に由来するばあいも多々あるが、何千万という膨大な有権者総体としては論理よりも感覚に寄りかかっているといっても過言ではない。そしてそのうえに目先の損得が部分的に重なってくる。有権者にはそういう傾向があるようだ。

「批判ばっかし」批判は非意図的印象形成ではないか

◇ 同時に、新聞やテレビといった旧来型のメディアからもたらされる情報を論理的にではなく、情緒的にあるいは感性でもって受け止めている傾向が強いのではないか、と思う。一次情報が論理構造をもっていたとしても、有権者は冷たいとかキツイあるいは緩いずるいといった感覚として情報蓄積しているのではないか。もっとも、政策として世間に放出されるコンテントは多岐にわたるし、中身も複雑で濃いものが多く、とてもじゃないがまともに対応していられないからか、先ほど述べた感覚分類ラベルをとりあえず貼って貯蔵しているのかもしれない、これも生活の知恵なのかしらと思うしだいである。

 そういう意味では、映像の流し方をふくめ意図のあるなしは別にして、立憲民主党に対し「批判ばっかり」というイメージが定着していったのも、十人程度の論客と呼ばれている議員の追求場面が高頻度でくり返し流されたことに起因するような気がしてならない。意図せざる印象形成とでもいえるのではないか。

 そういう意味では「批判ばっかり」という批判は表層的であり、問題の本質はもっと深刻であるのであって、「角を矯めて牛を殺す」ことの無いよう、また本格的な追及であれば有権者はむしろ歓迎するのではないかと申しあげたい。

なぜブランドの話を政党に持ち込むのか

◇ また、商品ブランドには市場における競争を前提にした強力な差別化本能がみられるが、さらに顧客の懐具合で露骨に差別化する習性もあり、そこにブランドの本性があるといえる。区分けあるいは仕分けといってもいいが、表現はともかく商品ブランドの本質は差別化である。だから、顧客を差別化することもブランドの価値形成の一部であるとの主張にここでは異論を唱えることもなかろう。

 ということから政党ブランドにも有権者を差別化する機能が埋め込まれていると類推適用してもいいのではないか。これは良い悪いではない、そういうものであると理解すれば分かりやすいということである。だから政党ブランドが有権者をえり好みするという風に捉えられるならば、ずいぶんとけしからんという話にはなるが、商品ブランドの場合売るべき商品があっての話で、それが気に入らないという消費者には元から対応できない。つまり、オーダーメイドではない既製品の世界であるから、結果的に客を選ぶことになる。いってみれば、客と商品が相互に選びあっているといえるのである。

◇ この関係が政党と有権者の間にもありうることを前提に、政党が有権者を選別している現実を政党の差別化として少しく述べてみたい。

 もちろん差別化の基準すなわち物差しは多様であり、また状況によって変化もするが、現実というか現状はとどのつまり有権者の「(主観的)豊かさ」あるいは「社会的位置づけ」が基準すなわち物差しの基本となっていると思われる。

 また、今日の現状を肯定的に受け入れているのであれば、昨日の現状(表現として座りが悪いが)にも肯定的であったと考えられるから保守的指向が強いグループとみなされるだろう。一方、現状に否定的であれば過去についてもおおむね否定的であっただろうから、リベラル傾向を有するグループとみなせるだろう。という風にさまざまな政治価値についてグループ分けを進めれば概略的ではあるが政党ブランドと有権者の相対関係のイメージ化が可能になると考えられる。

 もっともここで社会階層論を持ちだす気持ちも準備もないので、リラックスしてほしいのだが、それでも根っこにはかなり複雑な絡み合いがあるようなので、そのあたりはとりあえず迂回しながら、ここでは立憲民主党のブランド性について話を進めたい。

商品ブランドと政党ブランド、共通する差別化戦略

◇ そこで直截にいえば、商品ブランドからの差別化とは消費者を取捨選択するという能動的行為であり、また冷撤な判定を基礎にしてのことであって、偶然にとか何気なく行うものではないのである。だから、政党ブランドのケースでいえば、明らかに有権者を取捨選択する必要があることを正しく理解していなければならない。政党人はまずそこを自覚すべきではあるが、これを外に向かって明らかにすべきかどうかについては、筆者的には好みの問題といいたいのであるがそれでは正解とはいえない。経験からいえば、政治的には曖昧であるほうが無難であると思われる。

 ところで、選挙で選ばれる立場であるべき政党ブランドが、どういうからくりで有権者の取捨選択を行うのか、文字面だけを見れば不可解に思われるかもしれないが、商品ブランドがすべての消費者に門戸を開いているのではないことは誰でも承知しているわけで、その意味は万人に開かれているとはいえないという表現にとどまらず、むしろ万人に開く気は毛頭ない、といった露骨なほどの選別を、綱領をはじめ理念や基本政策また膨大な政策群において具体的に実践しているといえる。といっても、政党の組織活動が差別化であると宣言する必要はないだろう。これはマーケティングにおける解釈の問題であるから、用語においてはさらに分かりやすい、また誤解を生むことのない表現を採用するべきであるというのは常識の範囲といえる。

立憲民主党にとって追求は不完全燃焼、ブランド化に失敗

◇ さて、本論である立憲民主党のブランドであるが、まだまだ不確定なところが多くあって、現時点では判断し難いが、あえていえば無自覚の差別化が多い感じがしないでもないといえる。たとえばグループ内の規範体系をバネに批判の手裏剣を飛ばし、針の先ほどの間違いをも許さない過酷なむち打ちといった定式化されたスタイルが、世間ではやりすぎだとすでに思われているのに、仲間内の賞賛に酔いしれてか変えようとしない。これは見たくもない聞きたくもないと思っている人々を疎外すなわち差別化しているともいえるものであろう。

 国会での批判は支持者や有権者の平均的な規範意識を物差しに行うのが最適であって、たとえば質問の最後に「責任をとって辞めろ」と肉薄することが国会議員の国民を代表しての役割であると、どの程度共感されているのか、有権者のなかには質問には共感するが、「辞めろ」というのは余計であると思っている人もかなりいると思われる。

 政府内の責任の所在を明らかにすることは、議会制民主主義においてはきわめて重要であることは論をまたない。しかし「だから辞めろ」というのは次元を異にするもので、そこは主権者たる支持者あるいは有権者に任せるべきものであろう。また、「イエスかノーで答えろ」とはまことに無体ないいようで(一体何様のつもりかしら)、おそらく聞いている人の8割ぐらいは「自分だったらとても答えられないなあ」と思っているだろう。実のところ、この8割を立憲民主党は疎外する方向で差別化しているのではないか、という指摘である。それも自覚せずに、これは考えてみればもったいない話ではないか。物差しをふりまわしての追求はその物差しで聴衆である有権者を疎外し、差別化しているのである。この物差しを是とする者は味方、非とする者は敵。立憲民主党は4年間でずいぶんと敵を増やしてしまったということであろうか。これが「批判ばっかり」という批判の根っこだと思う。

 事実、質問し批判することを難詰する声は多くない、またあったとしてもそれは民主制からいって偏屈な考えであろう。むしろ、立憲民主党に限ったことではなく一般的に国会の質疑が内容によって有権者を差別化していること、またその瞬間から有権者のリアクションすなわち有権者の側からの差別化が始まっているということではないか。

◇ 政策論からいえば、効果的な政策であればあるほど差別的にならざるをえないのである。問題はその差別化を自覚的におこなっているのか、すなわち表面的な態度などではなく、よく考えて差別化がもたらすさまざまな事象を受け止めているのかという問いかけである。というのも、立憲民主党は2019年の参議院選挙もふくめ「冷徹」とは程遠い「情動」に支配された脱目的性の高い党運営に流され、結局より良い政党ブランドの確立を怠ったのではないかという素朴な疑念を筆者自身払拭できないでいるからである。

 冷静な計算を忘れ一時の感情に走っているようでは政権に手が届くことにはならない、とくにエダノ立憲民主党をリードしていた人々にその傾向があったのではないか、という問いかけでもある。

政治的な取捨選択がもたらした反動に反自公の烽火が消された教訓

◇ 政治的な取捨選択の一例が、2017年希望の党発足にあたっての小池氏の「選別(排除)」発言であろう。記録をいえば発言は「排除」であるが、直後に「しぼりこむ」といいかえたようで、また文脈からいえば民進党からの公認申請者を「排除」よりも「選別」するほうが意味としては適切であると思われるので、筆者は文意から「選別」をもちいていることを了解願いたい。そこで、希望の党としてメンバーシップの確立のためには当然と思われる選別であっても、詳しい事情はよくは分からないのであるが、世間的には強烈な反感がわき起こり、一時は自公勢力を凌駕するほどの勢いのあった希望の党を失速させる反動を生みだしたといえる。理屈をいえば、政治的中道領域に焦点を絞った政党の生成により、驕慢病に陥っている自公政権に一撃をくわえるという政治的目論見が、世間的センチメントによって脱力させられたといえる。ここだけをみれば、世間的センチメントが政治における冷徹な取捨選択すなわち差別化を阻止したとみえることから、その後の政党の立ち居振る舞いとして曖昧かつホンワカとしたものが好まれるとの解釈が一般化したように思われる。

 しかし、どのようにいい訳しようとも立ち居振る舞いはしょせん処世術であって、真の動機を表すものではない。政党が差別化に走る真の動機とは、岩盤のような強力な支持層を得るところにあるのであるが、そのためには、まず不支持層を明確にする必要があるというのが最近の流れであろう。また、100パーセントの支持をめざすのは不可能でありかつ無駄ともいえることから、支持層の意図的切り離しを真剣に考えている向きもある。この、不支持層の明確化と支持層の意図的切り離しが妙な具合で融合するなかで、政党として選別的な支持層の拡大が意識されつつあるといえる。

 いいかえれば、不支持層あるいは敵をつくることが、支持を固める確実な手段だと広く認識されるなかで、支持関係を中心とした政党の組織戦略が新たな段階を迎えているものと思われる。「新たな」というのは、たとえば微笑みのうちに味方でないものを確定するといった、従来必要とされなかった技量などの評価を示している。

 こういった陰謀ではないが、策謀にちかい手法をまじめに記述するのは気分としても面白くないのであるが、ブランドをめぐる政党と有権者の成熟した駆け引きをぜひとも伝えたいがために、不得手な領域に踏み込んでいるのである。

とはいっても、味方を固める前に、敵を固めてはダメ

◇ ただし、そうはいってもエダノ立憲民主党の最大の失敗は味方を固めるまえに敵を固めてしまったところにあり、たとえばなぜ民間労組を不支持にまわしたのか不可解の一語である。さらにいえば、2020年の9月の合流にあたり「2015年安保法制」と「原発にかかわるエネルギー政策」についてどうして妥協できなかったのか、逆にこの二点にこだわったがゆえに政権政党への道が閉ざされたともいえるわけで、自分の手で右ウイングに遮蔽壁を築いたとしか思えないのである。にもかかわらず、選挙戦では「政権交代」を叫び続けた奇妙な絵柄に「わけが分からない」と思ったのは筆者だけではなかろう。

 だがここは、枝野代表(当時)だけの責任ではないと思う。よく「枝野個人商店」と揶揄されていたが、仮に個人商店だとしても本来的な責任の所在は首脳部としての共同責任と考えるのが自然であり、すべての責任を代表一人に押しつけるのは妥当ではない。とくに情報の収集は静脈のように数えられないほど細かく枝分かれしたパイプ網を通じて集めるのが普通の組織であるから、当然のことではあるがそれらの一次情報に接していた幹部と呼ばれる人々には相応の責任が問われてしかるべきであろう。

 たとえば、合流交渉の経緯において民間労組がどのように反応していたかについては多くの生情報が得られたはずであろうし、その精度は相当に高かったと思われる。すべての小選挙区でいえることではないが、多くの小選挙区ではそこに拠点を構える民間労組の影響は決して小さいものではなく、現実に不承不承では活動が盛り上がるはずがないのである。だから合流には不賛成となることは容易に想像できたはずである。分かっていながら民間労組を不支持層に囲い込んだのではないかと、論理的にはそう疑われても仕方がない、つまり状況を検分すればそう思えるのである。

政党が有権者を差別化する事例として、たとえば反原発

◇ 政党が特定の政策を掲げることによって有権者を選別することがあるといった政党の差別化の一例が原発ゼロ政策であろう。民進党時代までは旧民主党の政策、簡単にいえば2030年代に原発に依存しないすなわち廃止というものであったが、2017年には民進党として党勢回復を確かなものにするため、廃止年限を2030年に早めることが模索された。結局未完に終わったものの連合を窓口に関係する産業別労働組合としばらく議論が沸騰したと聞いている。この狙いは天秤論ともいうべきもので、反原発をおおきく掲げることによる党勢拡大と、関連労組の離反とを天秤にかけたうえで、有利な方をとるという、いたって現実的なまたポピュリズムを地で行く着想といえる。見方を変えれば、原発関連労組を敵にまわすことによって、原発に不安を覚える多数を味方に取り込もうとする、優れて戦術的な手法すなわち差別化そのものであったといえる。幸いにも未完に終わったが、このことにより関連労組にぬぐいようのない不信感が沈澱していったことは事実である。時の発案者の個性かもしれないが、見事なほどの目的の手段化に労組側としては驚愕を覚えたようで、事実これを契機に民進党に対する労組の見方が激変していったと感じている。

 議席のためなら長年世話になった人びとを裏切ることもある、大袈裟にいえばそういうことであろう。そこには信頼という言葉がない。労働組合は信義と友愛をベースにしているから、住む世界が違うのであろう。

 政党として組織信頼をどう回復するのか、新代表の重たい仕事のひとつであると思う。

◇ また、2020年9月の合流に向けての調整における両党の首脳陣の判断はどうであったのか、とくに民間労組が不支持にまわらざるをえない政治ポジションで「政権交代」が可能になるのか、どう考えても狭すぎるではないか。だから、10月30日以降、冬眠するがごとく息をひそめている人びとに聞いてみたいのである。最後の調整は、おそらく連合をも間接的に交えながらおこなわれたのではないかと推察しているのであるが、先ほどの二点の扱いはどうであったのか、よく考えてみれば規約上の代表選のあつかいも大事ではあったが、それ以上に合流新党のイメージを形成するうえでの「安全保障」「エネルギー」の二点こそが最重要事項ではなかったかと。

 そして、当時の立憲民主党の首脳陣が二点にこだわることによって、本来支持層になれた有権者を疎外、差別化をしたのはなぜかと、またこの図式は2017年の小池政変の左右が逆になっているだけの鏡像ではないかとも思うのである。さらに、当時の国民民主党がどういう理屈でこれを受諾したのか、まさに歴史に残る判断であったと思うし、これらの判断の是非は後世に委ねるものであろうが、10月30日の選挙結果は旧国民民主党からの合流組にしてみれば大いに誤算であったと思われる。

左派政党で頑張るという選択肢もあるにはあるが

◇ 多分に繰り言のように聞こえるかもしれないが、泉執行部が問題の解決に成功し、押しも押されもしない天下の野党第一党になることを祈りはするが、事態は切迫していることも事実であろう。ほんとうに中道に向き合うことが可能なのか。党の総意はそうであるのか。ほんとうに政権交代に向き合っているのか。偽装しているのではないか。ひょっとして安定した野党第一党に安住したいのが本心ではないのか。2020年9月の合流を遠くから眺めるなかで湧水のように湧き上がってきたいくつかの疑問をなぞっていくと、そのような根源的な疑問にいきつくのである。

 だから、泉代表にはそれも「選択肢」であり、しっかりとした左派政党を作ることも意義深いと申しあげたい。政権を目指すだけが政党の使命ではないのだから、ここは正直に話し合うべきではないだろうかと。

 それに、今のポジションから政権交代へ向かう道筋はほぼ革命への道に近く、それほどの覚悟が、今はどうなっているのかわからない野党共闘にあるのか、とも問いたい。

二大政党から、政界三分の計へ「憲法、安保、エネルギー」

◇ 二大政党グループによる政権交代図式は崩れ去った、のである。10月の衆議院選挙への立憲民主党の対応は恣意的な戦略ミスではないかという疑念が今後解明されることはないであろう。ミスはミスであるから、今となってはその恣意性などどうでもいいではないか、というのが世間の受け止めであろう。筆者も同感である。

 では、旧国民民主党からの合流組はこれからどうするのか、亀の歩みで右方展開に挑戦するのだろうか。あるいは連合系の議員の皆さんはどうするのかしら。といっても自分で考えて動けるような状況ではないと思われる。さらに何のための離合集散であったのか、お騒がせグループではないのだから、きちんと説明すべきではないか。といった具合に、小さいようで大きな問題が散在しているようである。

 とくに安全保障への対応は下手をすると抜き差しならないポジションへ押し込められる危険性があるのではないか。野党第一党の安全保障政策が現実感を欠いたものであれば、それは自民党にとって永久政権を保証されるに等しいといえるもので、黙してもよだれがでるほどであろう。

 また、件(くだん)のエネルギー政策も再生可能エネルギーだけでは2030年の目標達成は到底無理で、原発との併用が現実的であることは本気で気候変動問題に備える国にとってはすでに常識になりつつある。くわえて、国民生活を支えるライフラインの確保という視点からも、情緒性よりも合理性を重んじる政策判断が求められているのではないか。

 この二点と憲法改正への対応が立憲民主党の当面の課題であると思われるが、いずれに対しても部屋に閉じこもった感じで積極的な発信がないのが実に寂しいかぎりである。

(次回は、「自公領域」「中道領域」「立共領域」という政界三分の計を予定しています)

◇ 冬ざれや夙川沿いにおろし来て

加藤敏幸