遅牛早牛
時事雑考「悪夢ではない現実だった (リーマン・ショック、地震、津波、原発事故)」
◇ 「悪夢のような」という表現がお好きな方がいる。「悪夢のような」と「悪夢」は違う。悪夢であればうなされるだけで、覚めればなんてことはない。だから、民主党政権を支えた立場でいえば、正直なところ悪夢であって欲しかった。その一つは、リーマン・ショックによる景気の急激な減速であり、二つは、東日本大震災と原発事故である。夢なら早く覚めてほしいが、残念ながらそれらは現実であった。
時事雑考 「外事多難、めざすは助演賞か」
◇ 飽き足らない、というべきか。あるいは、物足りないというべきか。昨今の政治(まつりごと)である。万事芝居が小さいからか、ときめき感に欠けている。その上、見え透いている。
たとえば、六月には日露首脳による大筋合意の予定ではなかったのか。重ねに重ねた首脳会談、少し期待していたのだが、一体何があったのか。また、北の首領と会う日は来るのか。拉致家族に朗報がもたらされるのか。さらに、南の大統領とは疎通しないのか。加えて、日没する国の統領とは何を語るべきなのか。
と、並べてみれば、隣接国との外交が不本意な凪(なぎ)状態にあることが浮かび上がってくる。もちろん、先方の事情によるとの解釈が妥当と思われるが、それでも残念である。いつまで凪っているのか。
時事雑考 「代表されない人々―絆が薄くなっている―」
◇ 「絆(きずな)」は、東日本大震災の折りにメディア空間に出現し広がった。ことばの響は平易であるが、意味はむつかしい。言葉としては連帯の方が分かり易いと思う。しかし、連帯ではポーランドのワレサを連想するかもしれない。また、労働運動あるいは反権力運動に連なる感じもあり、政治的ニュアンスが薄い絆のほうが好まれたのであろう。たぶん、絆を使う方が無難、つまり無用な雑音を生じさせないという意味で、日本的な選択であったと思う。
さて今日、この絆はどうなっているのだろうか。そもそも、絆とは、人と人のつながりであり、そのあり方でもある。さらに、つながりにともなう心情を含みながら、個々のつながりを社会全体におよぶ巨大な集合体として捉えたものでもある。
◇ 東日本大震災に限らず、災害体験は国全体としても家族、地域、団体の結びつきを再評価し、そのことの強化に向かわせる。ゆえに、社会の絆を強めようという主張は容易に受け入れられやすい。
しかし、絆を強めるとは具体的にどういうことを指すのか、はっきりしない。たとえば、疎遠であった遠縁の者と音信を復活させるとか、同窓会名簿を改めて眺めてみるとか、自治会の会合に出て近所づきあいを濃くするとか、いろいろなことが考えられるが、端的にいって地味すぎるし、長続きしないと思う。
防災についての具体策を進めるうえで、絆という言葉はあまりにも抽象的かつ情緒的すぎるのではないか。
夏に向け、憂鬱感の払しょくに腐心―民主党を支援してきた人々の思い
◇ 子供にとって親のいさかいほど憂鬱なものはなかろう。同じものではないが似た憂鬱感がかつて民主党を支援してきた職場に漂っている。2007年夏の参議院選挙から2009年夏の総選挙まで、本格的な政権交代をめざし職場には熱狂とまではいかないがそれでも軽い興奮があった。
あれからおよそ十年。今民主党、民進党由来の野党二党の相克を伝え聞く職場には何ともいいようのない憂鬱感が漂っている。
◇ 仲間内での政策をめぐる論争はどちらかといえば陽性である。しかし切り崩しとか引抜きとか良く分からない情念に動かされた陰性のいさかいは耐えがたいし、誰しも関わりたくないと思うだろう。それも最近まで応援した人々の間で起こっているわけだから、支援者のとまどいと失望は相当なレベルに達している。
もちろん政党も生き物であるから熱心に勢力拡大に注力することを難ずる気はない。やればいい。しかし程度と手口の問題がある。今のままでは支援の輪は広がらないどころか逆にしぼんでいくのではないか。心配である。
2019年 政治と労働の主要課題について
労働が論壇の主役の時代に
◇ すでに労働の時代である。1985年以来30年余続いた資本(金融)の時代は終わった。資本の時代、働く多くの人々にとっていいことは起こらなかった。カネがカネを産むという何の感動もない仕組みのために犠牲にしてよいものなど地上には無い。すでに資本は後衛に退き、労働が前衛にせり出す時代が来ている。そして労働の意味と価値が問われる時代となった。(とはいっても、まだまだ資本が大きな顔をして跋扈するであろうが、社会的にまた倫理的に被告席に座るべき時は近づいている。)
労働組合の組織化は構造的課題を抱える
◇ 労働の時代であるが労働組合の時代ではない。心情的にはそうなってほしいと思うが難しい。なぜなら労働組合の結成と維持には資本と技術(オルグ)が必要であるが、その調達が随分と難しくなっているからである。たとえば現在の連合など既存組織の資源投入をベースに考えれば年10万人規模の組織化が限界ではないか。この規模では10年で100万人、100年で1000万人のペースでありとても間に合わない。つまり、既存組織からの支援は社会的な要請の規模に比べ小さいであろうし、また限定的である。
労働組合の組織経営も企業経営と同様であり、組織化のために投下した資本が増大裡に回転・回収できなければ組織活動として持続しえない。投下、回収、再投下という正スパイラルが可能であるためには、組織化対象自体にスケールメリット状態があり、かつ投下資源量がスケールメリットを得られる規模を超える必要がある。さらに大規模事業所が減少し、小規模分散型かつネットワーク型が増大している現実を考えると、組織拡大の現場を支える努力は多としつつも、一度発想の転換を試みることを提言したい。