遅牛早牛
時事雑考「世襲議員は議会の華なのか?」
(5月連休のにぎわいを聞きホッとしている。さて、統一地方選挙前半・後半と5つの衆参補欠選挙の結果は、日本維新の会の一人勝ちということか。あるいは立憲民主党と日本共産党の連れ負けなのか、いよいよ党勢が鮮明になってきた。
自民党は4勝1敗で、勝利のようだが内容は微妙である。だから解散を急ぐ空気が急速にひろまっているが、今からでさえ遅れたタイミングになると思う。
キシダ政権との対立軸を鮮明にし、勢いにのる維新の選挙準備がととのわないうちに解散総選挙をという目論見がうまくいくはずがない。アベ時代とはちがううえに、姑息で華がない。
春の賃金交渉では満額回答の花が咲きみだれ久しぶりのあかるい光景となったが、本命が中小、非正規、未組織であることに変わりはない。また、満額であっても実質賃下げも起こりうるので油断できない。さらに、年金生活者は生活切りさげにうめいているから、市井にうといキシダ政権の弱点があらわになると、総選挙どころではなくなる。好事魔多しといいたい。
だから、自民党が飽きられているのは正しいが、それだけではないだろう。まあ、野党の選挙協力しだいではあるが、アベスガ時代とはちがう時代文脈に入ったと考えれば、かかげる政策もすこしづつ変えなければと思う。
一方、立憲と共産は嫌われている。とくに、反省に名をかりた党内抗争はさらに支持を失うであろう。それよりも立憲は2020年9月の合流に無理があったところが反省点ではないか。中道層が維新にながれはじめている現実を直視しないと先の展望がなくなると思うが、むつかしいところであろう。振子の左への回帰をひたすら待つのか、あるいは世間は維新に袖にされたと見ているのだが。どうする立憲、である。
野党は、維新基軸が確定ということであろう。松井代表が鮮やかに引退したのが良かった。試合巧者である。おそらく維新あての人材ファイルがキャビネットからあふれるほどになるだろう。しかし、さばききれるのか。いつになるのか分からない総選挙のその日まで、緊張の連続である。今回は漢字ひらがな比率を漢字方向にすこし移しました。)
◇ 世襲議員を「議会の華」といえば反発も大きいだろう。リトマス試験紙ではないが、この「議会の華」という表現に違和感をおぼえず、「そうかもしれない」と受けとめる人は世襲議員に寛容であるから、容認派といえる。おそらく、「議員として仕事をしてくれればいいではないか」とか「本人次第」と答えるであろう。たしかに、選挙で選ばれたことは事実であるから議員資格を問われることはない。
他方で、「どこが華なのか」という声も多くあがると思われる。政界では話題になることが華である証だと冗談半分でいう向きもあるが、話題によるというべきで、たとえば将来の総理候補にランキングされることなどはさしたる根拠がないとしても、華である証明といえると思う。
公正な選挙によって選ばれた国会議員が、国民の代表として国政に参画する。参画にあたっては皆平等であると、理屈ではそうなっている。しかし、七光りほどではないにしても、なにかしら「えこひいき」があるように感じるのがふつうの人の感覚だし、反発の原因もそこにあるのだろう。
また、よく二世議員ともいわれるが、三世もいれば隔世もいる。国会議員でなくとも地方議員や首長の二世、三世もすくなくない。まあ、家系図に記載されているのであれば、そのように呼ばれるのであろうが、しかし個人の事情もあって、そう呼ばれることが嫌だという現役議員もすくなくないことも事実である。
「労働運動と雇用問題(2)コペルニクス的転回が必要」
(2023年4月6日掲載分の続きである。コペルニクス的転回がひつようであると表題にくわえたが、本文での説明を欠いたままであった。天動説から地動説への転換のごとく、従来からの「労働市場の流動化は労働者にとって不利」といった天動説のような考え方から、これからは「労働者にとって有利である」とする地動説に転換してはどうかという提起である。もちろんいくつかの条件つきで、また人手不足が続くことが前提ではある。たぶん激論になるだろう。
ところで、国会が後半戦に入ったが、まさか補選や地方選に気をとられて低調ということではないだろう。せめて、安全保障についての基本論議ぐらいは今国会で詰めておかないと、秋までに予想される総選挙がスカスカして盛りあがらないのではないかと心配している。以前から指摘しているように、キシダ政権には暴走嗜好(思考でも指向でもない)があって、無自覚にやっちまう可能性がある。だから、左派グループが体当たりでやらないと止められない、なにしろブレーキ系が弱いから、どこまでもいってしまう、と思う。
その後は、なにがどうなっているのか分からないまま、おそらく政界再編になるのではないか。左派を支持する筆者ではないが、米中対立や防衛予算あるいは敵基地攻撃について、もっともっと議論をこなしておかないと、またこのままでは分断がひどくなるのではないかと心配である。賛成できなくとも、なぜそう考えるかについての議論をつくせば、糸が切れることはない。議論をごまかすから糸が切れるのである。
ところで、用語法つまり言葉づかいだけの問題なのかしら。「捏造」の次が「サル・蛮族」で、どちらも無理して使うこともなかったのにと思っていたが、日本維新の会が立憲民主党にたいし国対共闘の凍結を匂わせているとの報道が見うけられるが、にわかには信じがたい。両党共闘に亀裂を生むほどの問題なのか、と思う。補選もあるし、なんとなく背後に複雑な思惑がありそうで、怪しくもある。それにしても、筆頭幹事解任は重いことである。
さて、主要メディアの報道ぶりには隔世の感があり、思えば政権追及の激しさがずいぶんと鈍り、そのぶん野党が攻撃されている。
そんななか、馳石川県知事が選挙公約であった定例記者会見を拒否していると、4月8日朝日新聞朝刊が社説を付して伝えている。その内容は(文中の同局とは石川テレビを指す)、「事の発端は、同局が昨年公開したドキュメンタリー映画『裸のムラ』だった。馳氏は、県職員らの映像が無断で使われており、肖像権の取り扱いに問題がある、と主張している。これに対し、石川テレビは『映画は報道の一環で、公共性、公益性にかんがみて、特段の許諾は必要ない』との立場で、1月から対立が続いていた。」(朝日新聞社説「石川県知事 会見拒否は許されない」2023年4月8日13版)というものである。双方の主張はさておき、石川テレビ社長が、知事が求めていた会見への出席を、欠席することを理由に、知事が定例会見を拒否するのはいただけないのであるが、ここで取りあげたのは弊欄での論点としている「報道機関がうけた影響」とのかかわりではなく、これこそが権力側の報道への圧力ともいえる具体例ではないかという理由からであり、自民党の「(報道の自由についての)規範がごう慢に傾いている」兆候ではないかということである。構文が複雑でもうしわけないが、警戒警報のつもりである。
結局のところ、高市vs小西の発端となった放送法の「政治的公平性」にかかわる問題については、事実として報道機関に影響がおよんだのか、というもっとも重要な点については、いっこうに解明がすすんでいない。すすまないのはだれのせいなのかは後日のテーマとするが、この場では「やはり、およんだようだ」というのが筆者の心証である。「だからどうした」という声も聞こえてくるが、心証であるからどうもしないけれど、大げさにいえば、わが国のジャーナリズムが消えそうで心配だ、ということで、ともかく反権力の半鐘がじゃんじゃんと鳴るほどでなければ、この先が危うい。やかましいのも困るが、音無しいのはもっと困るのである。
例によって、文中の敬称は略すこともあり、です。)
13. 雇用各論Ⅰ 「給料で負けているから、商売で負けるのだ」
良い悪いの仕分けをしているわけではない。歴史の結果としての現実をどう受けとめるかの議論であって、今では遠い過去のこととなったが、「世界有数の高賃金国」の賃上げのあり方について、もっといえばこれ以上高い賃金を支払うためには、雇用構造を海綿体にして雇用調整を頻繁にやるか、為替で調整するか、生産拠点を海外に移し総原価を下げるか、企業の公租公課を下げ、その代わりに国民負担率を上げるといった方法しかないということで、結局ほとんどの項目を実践した結果、30年かかったが「G7の低賃金国」を実現したといえる。
皮肉ながらも、高賃金国を解消するという目標を達成したことは見事であったといいたいが、非常に残念なことであった。また、今となればなんのために低賃金国にしたのかという疑問が残されたまま、目標だけが達成できたことをどう評価すればいいのか、と悩んでいる。
とくに、リジットな雇用構造にたいし、まず不安定雇用層をつくり、そこで雇用と賃金とのトレードオフ関係を強めれば、やすやすと不安定な低賃金層を形成することができたということであろう。そのための扉をひらいたのが有期雇用であり、労働者派遣法の一般化であったといえる。さらに、雇用労働者のうち約4割が非正規労働ということになれば、国全体としての労働コストは大幅に削減できたということである。そうなれば雇用者所得が下方に引っぱられることから、労働の再生産あるいは個人消費が低迷するうえに、限られたパイのもとでの値下げ競争がデフレをさらに固定化していったと考えられる。つまり、みんなで作りあげたデフレ経済ということである、すくなくとも筆者にはそのように思えるのである。
さらに、その旗振り役が改革派の政党であったり政治家であったり、あるいは著名企業の経営者であったりして、そのうえ口では「デフレからの脱却」とかいっているのだから、なにがなんだかよく分からないというのが正直なところであった。
だから、「それなら、コスト削減をやめたらいいではないか」といいたかったのであるが、しかし世の中の向きは真逆で、デフレ対策のためにさらなるコスト削減に血道をあげたものだから、「みんなでつくろうデフレ経済」がますますひどくなり、筆者自身も見当識をうしなった気分に陥ってしまったのである。
ただ給料をあげればすむことを、労働生産性向上の範囲でとか、付加価値生産の向上を伴うべきであるとか、なにやら呪文のように難しい話が飛びだしたのであった。
そのくせ、個人消費拡大あるいは需要喚起策について真剣に悩んでいるというから、支離滅裂というか、むしろたいそうな喜劇ではないかと思ったものである。
喜劇といえば、国をあげて力を入れているIT産業の育成でも、日米におけるIT技術者の給与水準を比較すれば、米国では地域差がかなりあるが、概ね10万から13万ドルで、専門職としてしっかり優遇されているといえよう。一方のわが国では専門職とみなされているのかさえ定かではない。なかなか統計数字が手に入りにくいのであるが、よくて5万ドル台であろう。為替レートで景色が変わるが、昨今の円安においては、米国のほぼ半分といったところであろうか。(冗談じゃない!)
これでは競争に負けてあたりまえである。人件費が半分なら競争に有利だと宣(のたま)うようでは、ITの世界では永遠の敗者となるであろう。ずっと技術者虐待と揶揄されているような低劣な処遇で、世界を席捲する技術開発を期待する方がおかしい。そういった経営者の性根がわからないのであるが、冷静に考えればわが国には「管理」はあるが「経営」はないと思われる。一見賢そうで実は間抜けている経営者がわが国を貧しくしているのかもしれない。それに気がつかない政治家は20年以上にわたって小難しい作文を役人と一緒になってひねくり回しているが、うまくいかないのであろう。この際、政治家がいうべきことは、「給料で負けているから、商売で負けるのだ。まず給料で負けるな!」と叱咤することではないかしら。
「労働運動と雇用問題(1)労働運動における位置づけ」
(ほぼ3年間塩漬けにしていた「2020年からの課題と予想-雇用と労働運動」をタイトルを変えて掲載することができた。2020年2月にほぼ書きおえていたが、気がのらなかったので、そのままにしていた。やっと吹っ切れた。筆者の思いの断捨離である。
ところで、春の賃金交渉は順調といっていいのであろう。満額回答が踊っているが、正念場は5月6月に発表される中小企業の回答であり、夏の最低賃金交渉であろう。よく考えれば、「労働動員策」ではないか。木陰でお茶をすればいいだけなのに、「なに、もうひと働き」と街場に出かけていく、賃労働に。この賃労働がGDPに計上され、課税もされる。欲もないのに稼ぎに向かう、国民負担率が50%だから5公5民か?、、、。みんなでプライマリーバランスを改善しなければとか、あるわけないよね。
ピン止めされたメモに、世襲議員と二院制と書いてあるが、夏までには仕上げたいと思っている。が、実家の夏は草莽々だからどうなることやら。
なお、2万字をはるかに超えたので、分割した。)
1.労働運動にとっての雇用問題の位置づけ
労働運動にとって雇用はきわめて重要なテーマである。とくに、経営合理化にともなう人員削減は組合員の生活を直撃するもので労働組合にとっても、また提案側の会社にとっても深刻な課題であった。
1945年(昭和20年)以降の混乱期には、人員整理という言葉が多くの職場を震撼させまた殺気立たせた。当時は、「首切り・馘首」と生々しい言葉をもちいるケースが多く、戦後の騒然とした空気のなかで労使ともに壮絶な闘いをくりひろげたと、関係資料などに生々しく記載されている。
1945年末に合法化され、またたくまに全国に広がっていった労働組合にとって、組合員の雇用維持が最重要課題と位置づけられたのはとうぜんの流れといえるが、同時に困難な代物(しろもの)であることに気がつくのに時間はかからなかった。つまりストライキなどの争議行為をもってしても、雇用を完全に守ることはできない、ということが経験を重ねるなかで認識されていったと思われる。
また社会主義、共産主義を標榜するグループの指導をうけても、思うような解決策がえられない、否むしろ闘うだけ闘わされ、後は野となれ山となれが関の山であるということが明らかになり、またそのような政治に傾いたはげしい方針で闘ってみても、会社提案を撤回させることはできなかった、という経験もあって、結局これといった特効薬のないきわめて困難な課題として認識されていったと思われる。こういった認識の共有化が、その後のわが国の労働運動の道筋に強い影響を与えたことは、筆者のような労働運動の現場から中央共闘組織、全国中央組織、単位組織と垂直的に役割を経験していった者には、暗黙知となっていると思う。さらに、引退後においても重要テーマとして意識のなかに強く「ピン止め」されているのである。
時事雑考「2023年の展望-3月の政治と三角関係」
(春はあけぼの、朝から花粉と黄砂に悩まされる。梅か桜かと優雅に暮らしたいと思っていたが、咳と鼻水としょぼ目がつらい。ところで明日は回答日、かんけいないが期待感がたかまる。さて、今回は高市大臣vs小西議員、防衛費増などをテーマした。もちろん、かな多めではあるが、すこしもどした。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というか、べつの場面で原稿を渡したら後日「漢字に変えておきました」と断り書きがかえってきて、すこしめげた。ので、すこしもどした。「すこし」も「少し」のほうがいいのかしらと、細かいことが気になる。杉下右京じゃないのに。今回も例によって敬称を略す場合がある。)
1予算案の年度内成立が確実に-参予算委員会は、高市大臣vs小西議員の模様
予算案の年度内成立が確実となった。内閣では、想定内とはいえほっとした空気に包まれていると思う。後は緩まないようにということであろう。
ところで、この国会は防衛費にとどまらず反撃能力など攻めどころがおおいことから、はげしい論戦を予想していたが、意外なことに派手はでしい議論は参議院においてもすくないようにみえる。
もちろん、委員会をやたら中断するのが野党の仕事といった時代は過去のもので、今は冷静に理路整然とやるのがトレンドなので、議論をつくすという議会の役割からいえば好ましいながれだと思う。と思っていた矢先に高市大臣と小西議員(参)の総務省文書をめぐる「たたかい」が勃発した。
争点は、2015年5月の参議院総務委員会での「放送法第4条」でいう政治的公平性について、「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」としていた解釈を、当時の高市早苗総務大臣が「一つの番組でも極端な場合は、一般論として政治的公平を確保しているとは認められない」と、解釈を変更した感じの答弁をおこなったが、そこにいたる経過についての78ページにわたる文書(さまざまな記録文書の集合)を提示しながら、小西議員が官邸からの圧力の証拠ではないかと高市大臣に質問したところ「(後に高市氏にかかわる4ページ分についてはと限定し)ねつ造である」と答えた。しかし文書の性格については、後日松本総務大臣が、部分的に不正確なものがあるようだとの条件つきで総務省の行政文書であると明言した。
世間では、当事者(大臣)がねつ造であると主張する部分をふくむ行政文書などと揶揄する声もでるなど、にわかに騒がしくなっているが、もとはといえば、中身はともかく行政文書を当時の所管大臣がいきなり「ねつ造」と処断したり、辞任するしないの啖呵のやりとりなどがあって、出発点からいえばずいぶんと脱線した感じがする。
というのは、2015年5月の高市大臣の答弁が解釈の変更にあたるのか、また8年も前のことではあるが放送事業者にどの程度の影響を与えてきたのか、つまり「びびった」のか「蛙の面になんとか」だったのか、その点が重要であるのに、そこになかなか行き着かないところが、筆者的には気になるところであった。
さらに翌年(2016年)にはいわゆる「停波」発言があったことにも関連してくるのだろうか。思えばアベ政権のメディア抑圧の典型例なので、それなりの意味のある争点だとは思うものの、防衛方針の直角変更などにくらべれば内容としての喫緊性は低いと思う。さらに、松本大臣が「解釈変更ではない」と明言したようであるが、78ページの文書のなかにも触れられているが、もともと「極端な場合」は一つの番組でも公平性を欠くと判断しうるわけで、そうしておかないと、「めちゃくちゃな番組」をながしても「一つの番組(だけ)だからいいじゃない」という理屈がでてくることへの防波堤がひつようであり、そのために「一つの番組だけで」と「一つの番組でも」という使い分けが生じていると思われる。
筆者は、2015年5月の高市大臣答弁は、すでにある解釈にたいし最後の戸締まりとして補足強調しただけではないかと受けとめている。うがった見方をいえば、官邸のうるさい人対策として結構うまいやり方であったと思う。
というのも、もし解釈を「変更した」というのであれば、趣旨からして法律そのものの変更に匹敵するものだから、にわか雨のような与党委員の質問への答弁でコソッとすまされるものではないだろう。ことの重大性からいって、委員会は直ちに閉じて、改めて理事会では内容ではなく「扱い」を協議すべきであろう。まあ大臣陳謝ですめばいいが、おそらく辞任は必至で大騒動になったと思う。(一つの番組に照準あわせるという基準変更が趣旨であるならば、8年間も放置していた野党の責任もきびしく問われるべきである。)で、そうはならなかったということは、そのときの委員会は変更とはとらえてなかったということであろう。だから変更ではないと総務省はいうのであろう。
しかし問題は、「解釈変更などしていません」といいつつ、無言の圧力を放送事業者にかけるところにあったと思われる。もっとも圧力をうけたと発信する放送事業者は皆無であろうから、なにもなかったことになり、政府が追求されることもなく、またひょっとして放送事業者が自己規制し、報道番組における内閣批判のトーンが弱くなるというおまけがつくかもしれない、そうなれば仕掛けた側としては大成功といった話であろう。いわゆるダメもと論である。
だから、対策された官邸のうるさい人も、おそらくまんざらではなかったはずで、まとめてみれば為政側としてうまいやり方ではあったといえる。先ほど、「アベ政権のメディア抑圧の典型例なので」と記したが、典型というのは被害の表明がなければ追及されないという巧妙ではあるが、いやらしい手口を多用しているということである。
ということを踏まえたうえで、今回予算委員会で提起されたということであれば、なにか隠し玉があるのではないかと誰しも思うであろう。とくに、成りゆきを見守っている永田町界隈では、資料の出方が何かしら恣意的あるいは操作的すぎることから、暗がりの先には闇があると受けとめているようであるが、そこまでいってしまうと、○○の勘ぐりになるのであろうか。
ともかく、このケースでは放送事業者が「何か」をいわないかぎり放送の公平性をめぐる議論にはならないということで、結局傷ついたのは「だーれだ」となる。もちろん、「ねつ造」と反射的に反応したのが最大のミスであったことに間違いない。「ねつ造」と発すれば「だれが」と返ってくるもので、かならず犯人捜しがはじまるのだから、ご自身が大臣であったことを完全に滅却しておられたのであろう。だから自損事故というかオウンゴールというか、自業自得ではあるが、気の毒な感じがしないでもない。もちろん最初から「確認のしようがない」と答えておけばすんだ話だと思う。事実、78ページの文書のすくなくない部分は、今では確認のしようがないものであるのだから。
時事雑考「2023年の展望-キシダ政権の死角に超過死亡-」
(3年間新型コロナウイルスにつきあってきたが、そろそろウイズコロナに入っていけるのかしらと、なにやら解決感がしないでもないが、元どおりにはならない。それぞれに失ったものはおおい。しかし、得たものはすくない。歴史はともかく経験にすら学べないのか、人類は。経験どころか、昨日の昼飯さえおもいだせない今日このごろである。)
「新型コロナウイルス感染症」から「コロナ感染症2019」へ、常態化のはじまり
5月から名前がかわりそうだ。「新型」がはずされ、発生年をつけた名前になる。「コロナ感染症2019」略して「コロナ2019」である。そうなれば、いよいよ一息つける雰囲気になるであろう。もっともWHOがCOVID-19(Coronavirus Disease 2019)と表記していたので、それに近づいただけともいえる。
さて、2019年12月からすでに3年3月が経過したが、1918年から1919年に猛威をふるった「スペインインフルエンザ」(WHOは地名などの表記をはずすことを推奨していて、1918pandemicとよぶらしいがピンとこない。しかし「スペイン風邪」はさすがに遠慮するとして、とりあえず無難なスペインインフルエンザとした)が、およそ3波3年だったことから、今回もそろそろ収束あるいは終息がみえてきたのではないかと楽観したいのだが、今はどこまで変異するのかが心配の種である。
ところで、このコロナウイルスの起源についての解明はどうなっているのだろうか、情報途絶のようで気味がわるい。しっかり調べてほしいのだが、国際世論の熱も冷めたようで、どうにもおちつかない。とにかく初発と思われている国にたいして、近未来におとずれる収束宣言のタイミングで「では真相はどうであったのか」と蒸しかえしがはじまるのは確実だから、いまから準備すべきであろう。つぎはどういった「高度な」言い訳がとびだすのか、まあ楽しみではある。
時事雑考「2023年の展望-賃金交渉のゆくえと岸田政権の評価-」
(思いのほか手間どったうえに、ながくなりすぎたので後半は付録とした。例によってひらがなをふやしているが、付録は変換ソフトのままである。こんかいは施政方針演説をいじってみた。遅れたのですこし鮮度がおちているが、抜歯、検診のせいにしている。文中の「キシダ政権」とあるのは批判の対象にしているときの表記である。また、「思う」は「(他の人はどうであれ)自分はそう思っている」、「思われる」は、「そう思っている人がけっこういるから」といったニュアンスであろうか。「いえる」は「反論はすくないだろ」また「考える」は「理屈があるよ」という感じである。
また、2002年に経団連と日経連が統合して現在の経団連となったが、経済同友会、日本商工会議所などもあり、文意において労働問題を中心にしているときは、経営団体あるいは経営者団体とするのが滑らかである。ということで「経営団体」にまとめた。頭のなかは旧日経連のイメージのままである。
付録はおもに賃上げが中心になっている。いつかストライキについて提起したいのであるが、ストライキという「過去のはなし」がなぜか未来で待ちかまえている。それにしても物価高騰がひどい。そこで、心配はんぶん期待はんぶんの隠居が「もっと怒らなあかん」とこころのなかでさけんでいる、今日このごろである。文中敬称略あり。)
施政方針演説をすこしいじってみた
23日の岸田首相の施政方針演説(全文)に目をとおした。ひさしぶりのことである。
演説は12項目で構成されている。その「1はじめに」には、「 政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです。 私は、多くの皆様のご協力の下、様々な議論を通じて、慎重の上にも慎重を期して検討し、それに基づいて決断した政府の方針や、決断を形にした予算案・法律案について、この国会の場において、国民の前で正々堂々議論をし、実行に移してまいります。「検討」も「決断」も、そして「議論」も、すべて重要であり必要です。それらに等しく全力で取り組むことで、信頼と共感の政治を本年も進めてまいります。」とあった。しごくもっともなことである。あたりまえのことをあらためて述べているのは、先だってのG7歴訪(独を除く)での各首脳との会談、とりわけバイデン大統領とのやりとりが、国内での議論をすっとばしているのではないかとの批判に「あとづけ」でこたえたものであろう。
「国会で正々堂々と議論すればいいのだ」ということではあるが、正々堂々というのは、質問には誠実にこたえる前提ではじめて成立するもののであるから、答弁次第ということになる。
昨年の答弁では「検討する」を頻発させ、泉代表(立憲民主党)から、まるで「けんとうし」と揶揄(やゆ)されたことが頭にのこっているのか、「検討」も「決断」も「議論」もおなじていどに重要だとまきかえしている。それはまちがいないが、問題は、検討、決断、議論の過程(プロセス)が重要なのであって、さらにそれらのプロセスがどの程度そとにひらかれているのか、であろう。過日、弊欄で岸田総理はエリート主義者ではないかとのべたが、プロセス軽視の傾向からそうのべたのである。課題志向と成果主義がつよいところをみると、あんがいあたっていると、内心ほくそえんでいる。べつに悪口でいっているのではない。総理がエリート主義の場合、よく気のつく脇役いわゆる黒子がプロセスを管理しなければ、総理が裸の王様になりやすいかな、というだけのことである。
日銀総裁でいえば、市場との対話であろう。対話などいらないといえばいらないが、たとえば醗酵を早めたり遅らせたりと、プロセス(醸造過程)に介入しないといい酒はできないのとおなじことで、政治においてもそういった対話がひつようであろう。
「12おわりに」でのべている「多くの皆さんと直接話をしてきました。」ということも大切であるが、総理に求められている対話とは個別になされるものではなく、集団の意思形成の中核をになうものではなかろうか。「検討」とも「決断」とも「議論」ともちがう場面での、幻術や詐術ではない合意形成のことで、アートにちかいともいえる。今までに、対立構造をつかった人、過醗酵でドロドロにした人、麹をいれわすれた人などそれぞれの個性もあってさまざまであった。
岸田総理の場合は、とくに大衆との意思疎通にたらざるところがあると感じている。
時事雑考「2023年の展望-正直わからない年になりそうだ-」
(新年は恥ずかしいぐらい輝いている。しかし、世の中いろいろと祈ることばかりである。とくに、最低24本掲載をめざしたい。文中は例によって敬称を略す場合があるので悪しからず。)
正月早々、岸田総理5月広島サミット準備に大忙し
◇ 岸田総理は5月予定の広島サミットを念頭におきながら、1月9日の仏をかわきりにG7構成国を順次(伊、英、加)訪問し、13日バイデン米大統領との会談を最後に14日帰国の途についた。とくにバイデン大統領とは、11日の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の内容をふまえ、日米協力のあらたなステージについて確認しあったと思われる。国内では低調な支持率になやまされているようにみえるが、一連の外交は及第点をこえていると思う。
ところで、国内での議論をすっとばした点については、23日からの国会においてきびしいやりとりが予想されるので、それらには誠実に対応すべきである。しかし、手順が気にいらないからといって、いまさら各国首脳との話をなかったことにできるわけがない。また、首脳会談の内容について事前に国会での議論がひつようであるのかについては、そもそも行政権と立法権とは分立しているのだから、両者の議論のありかたや組みたてが違っていてもおかしくはない。また、議会が事前に政府の手足をしばって不自由な外交を強いることは百害あって一利なしというべきであろう。
筆者は前回のコラムでは暴走宰相と表現した。ときに暴走もひつようではないか、つまり暴走でもないかぎり状況をきりひらくことができない、という意味をすこしふくませていたが、もちろんほめ言葉ではない。むしろ爆走といった方がいいかもしれない。ということで、岸田総理の爆走が東アジアの安全保障のあり方に一石どころか大石を投じたとうけとめている。しかし、それを成果というのはまだ早い。次は中国の出方である。台湾海峡の平穏すなわち現状が維持されるなら紛争はおこらず、相互繁栄の道がひらかれるというのが、今回の主旋律である。
時事雑考「2023年になっても、とても気になること、ウクライナと国内政局」
(2022年は、もうすぐ過去になる。しかし整理のつかないことが多い。そこで前回書ききれなかったことを書いてみた。追補である。それでも、まだまだ不足感があり、おそらく年があけてもつづきそうで、筆者の2022年は当分おわらないであろう。)
ロシアのウクライナ侵略は破壊と殺戮が目的だったのか、違うだろう
◇ これは破壊であり、殺戮である。ロシアのウクライナ侵略がはじまってから十か月がすぎたが、どのようにいいつくろっても、破壊を目的とした破壊のむごさをおおいかくすことはできない。また、得ようとして得られなかったからといって、それをこなごなに破壊していいのか。あるいは、特別軍事作戦というのは「ルールなき戦争」という意味だったのか、などと自問しながらもふつふつと沸いてくる怒りをおさえることはできない。
ここにきて、当初の目的がなんであったのか、プーチン(例によって敬称を略す)ですら分からなくなっているのではないか。もともとのNATO(北大西洋条約機構)との緩衝地帯を確保するという目的にたちかえってみても、結果としてウクライナを永遠の敵にしてしまったのだから、プーチンの作戦はみごとに失敗したといえる。
この特別軍事作戦となづけられた「戦争」は、構造的に出口をもっていないのではないか。というのは、二週間ですべてが完了するシナリオだけしか用意されていなかったという、まるで演習のような作戦であった。という、とんでもない「お粗末さ」からすべての問題が発生しているのである。またその作戦は、あまりにもロシアにとってつごうのいい展開だけを描きこんだ、おとぎ話のような計画であったために、たったひとつかふたつの思惑違いによって、全体が破綻してしまう粗悪品であった。 だから、喜劇役者出身でまるで役に立たないはずのゼレンスキーが、思いのほかクールで勇敢であったというだけで、計画のすべてがくるい、残虐非道ともいえる惨禍をもたらせたのである。犠牲者のおおさから考えても作戦は完全な失敗であったといえる。たとえいいわけが山ほどあったとしても、失敗は失敗である。もちろんそのまえに武力で国際関係を変えようとすること自体が国際法違反であり、とりわけ常任理事国のなすことではない。
ということで、ロシアの安全保障のための特別軍事作戦が、強固な敵対国をうみだし国際社会の非難をあびたのであるから、これ以上の皮肉にはめったにお目にかかれないであろう。
さて、今後ウクライナの発電設備などのインフラを破壊し、ウクライナの人びとをどれほど苦しめたとしても、プーチンの失敗をリカバリーすることはできないであろう。もちろん、彼にもいいわけがあるとしても、死者は生きかえらないし、失われた財産は戻ってこない。また、ウクライナの人びとの恨みが消えることもないだろう。さらに、この先ながきにわたり両国が敵対しあえば、どちらも傷つきともに貧乏になるだけである。
このように、一見だれにも利益がないように思われるが、旧ソ連の主要メンバーであったウクライナを反ロシア陣営にひきいれ、強力な反ロ橋頭堡を築けたのであるから、フィンランド、スウェーデンの動向もあわせ、NATOの優位は決定的なものになったといえる。とにかく、NATO諸国にとって、支援コストをはじめエネルギーや物価などでのマイナスも決して小さなものではないが、NATO域内が拡大され強化されたと考えれば、それは何よりの成果であろう。とにかく悪いのはロシアあるいはプーチンであり、援助負担に国民の不満がのこるにしても、正義の戦いであるといいくるめれば、政治的には乗りこえられると考えているのではないか。ということからも、ウクライナ支援はNATO諸国の政権にとっても最初から最後まで生命線というべきものであろう。
それに、欧米流の手練手管でいえば、後はロシアのミスをまてばいいわけで、ミスのたびにロシアの国際社会での影響力が剥離していくと踏んでいるのであろう。そのためにも、正義の旗印であるゼレンスキーをまもりきらなければならない。
時事雑考「2022年のふりかえり-年の瀬に、防衛力強化を考える-」
(一か月をこえる空白ができたが、実家の整理や登記手続きが主な理由であった。また四国への行き帰りのおり、大塚国際美術館や大原美術館などを楽しんだもので、ホテルでは登録時にひとり三千円分のクーポンを受けとり、年がいもなく喜んでしまった。気がつけば2022年もあとわずかとなり、すこし焦っている。あいかわらず書くべき種にはこまらないが、判断にこまることがふえている感じがする。)
内閣支持率が低いのは
◇ 内閣支持率が低調である。発足から今夏まで、意外にも高い支持率を維持してきたことについては「何もしてないから」と話していたのであるが、ここのところ低調なのは「何かをしたから」で、世間でいう「差し障り」のあることを、たとえば「国葬儀」を強行したからであろう。また、問題ぶくみの閣僚の更迭が遅い、といったメディアからの批判の影響もあったと思われる。
もちろん、「大臣を辞めさせる」ことが重大事であることに異論はないが、どのぐらい重大であるのかは個別に判断すべきである。「やめられても惜しくはない」という世間の本音からいって、報道はかなり過剰だったと思っている。だから、岸田総理の任命責任をことさら問うてみても、褒められたものではないことはたしかだが、「だからどうしたの」といった蛙の面になんとやらの域をでることはないであろう。
◇ そんなことよりも、この総理には暴走の性癖があるのではないかと心配しながら、どうじに期待もしている。つまり凡ではあるが異能をはらむタイプではないか。というのも、昨年二階幹事長(当時)に対し任期制限というピンポイント攻撃におよび、「やるときはやるもんだね」という評価をえたようであるが、そのときの突然の「青々しさ」が印象的であった。
べつにキシダ応援団ではないが、その青々しさが気にいっているので、いまは模様ながめをきめこんでいる。それと、さみだれ的に内閣支持率で政権を威嚇するマスコミが気にくわないので、あまのじゃく化しているのであろう。
時事雑考「当世言葉の重み事情2『日銀さん、お先に信用落としてます』政治の言葉」
(当初、一本(2万字)であげていたが、あまりにも長いので分割し、すこし加筆した後半部分である。あいかわらず、漢字とひらがなの比率に難儀している。今回のながれは、ややごういんな展開だと自覚しているが、言葉がかるくなると実態まで軽くなるようで、心配で筆をとってみた。しかし、あんがい実態がかるくなったので、言葉もかるくなったのかもしれない。ところで5パーセント賃上げ要求にはエールをおくりたいが、「遅くない?」早められないのかしら。みんな首をながくしてまっているから、急いでほしい。年があければ、年金生活者の怒りが爆発するから、春の地方選挙は雰囲気がかわると思われる。)
「闘争宣言」が懐かしい世代です
◇ 労働界には、「闘争宣言」文学があると筆者は考えている。ごくせまいジャンルなのだが、にがてで嫌であった。
さて、「闘争宣言」というのは鼓舞の文学であるが、どうじに安定剤としてはたらく。たとえば「総力を結集して断固闘う」とか「要求満額をめざし最後まで闘う」といった、いわゆる定型文があって、何回も聞くとなんとなく心地よくなってくる。それが、最後までたたかうと宣言した翌週には、だいだい妥結するわけで、「最後まで」の最後とは解決までということなので、妥結とはすなわち解決なのであるから、最後までたたかったことになる。ごまかしではなく、そういうことなのである。
では「総力を結集しているのか」ときかれれば、「総力を結集しなければいい回答はえられない」ということであるから、いつも総力を結集している(はずな)のである。また「総力を結集していない」と立証することはほぼ不可能であろう。もともと、総力とか結集といった言葉は、筆者の語感でいえば紙風船のようなもので、普段は折りたたまれて引きだしにはいっている。出番がくればふくらませるが、中はからである。しかし、そうであるからといって不要なものではない。大衆参加型の運動においては、節目をしめくくるイベントとしての全員集会、そして節目であることをあらわす「印」がひつようで、その「印」が「闘争宣言」なのである。
で、まず大げさでそらぞらしい。そして、心にもないことを作文するわけにはいかないので、その気にならなければ書けない。また、文案をひねっているうちに、書いた文章に触発されて、さらにその気になって自分で盛りあがっていくのであるが、そこが嫌であった。べつに憑きものという状態ではなかったが、芝居とおなじように「自己励起」していくのであろう。
ベテラン組合員は「闘争宣言」を、そろそろ終わりだなとうけとめ、新人はいよいよ始まるのかととらえるのである。かつて、「闘争宣言」が数次にわたった時代があったが、毎年とりくむ交渉で、毎年爆発していたのでは労使ともにもたない。ということで妥協をルーチン化せざるをえないのである。