遅牛早牛
時事雑考「憲法改正あれやこれや」
(2022年7月の参院選の結果をうけ、また安倍晋三議員の痛ましい遭難と逝去がもたらす政治環境の動的変化をとらえ、今年後半から来年前半の政局と課題を予想する。まずは憲法改正についての議論の扱いを中心に取りあげる。なお表題として「たたかいすんで、日が暮れて、探し求める明日への道」(その2)を予定していたが、分かりやすい「憲法改正あれやこれや」に変更した。文中敬称略。)
◇ 「黄金の3年間があるから憲法改正が加速される」ことに、なるかならないかと聞かれたら、「なるわけないでしょう」と答えることにしている。「とくだん加速されることはない」ことの理由は簡単である。
その1は、そんな時間的余裕はない。2は、集団的自衛権は解釈において合憲であるから、条文を変える理由が見つからない。3は、内閣の条文解釈権を剥奪し、憲法裁判機能を閣外に設置すべきとの気運がでてくると、手に負えなくなる、からである。
1は、現実問題として政治的優先度が高くないということにつきる。べつに今でなくてもいいではないか、それよりも○○を急がなければ、という○○は行列ができるほどに多いのである。
2は、(集団的自衛権について)解釈による改憲を強行したことが不都合というのであれば、それを破棄して、条文改正による改憲をやらなければならない。しかし、不都合でなければ、条文による改憲の利益がないといえる。
3は、それでも改憲をすべきであるというなら、集団的自衛権の解釈変更の後始末として、内閣による恣意的な解釈改憲を抑止するため、憲法にかかわる解釈権を内閣の外におくべきである、そのための憲法判断機能を新たに設置すべきといった議論が、提起されるとおそらく手に負えなくなるであろう。
また、これが最大の問題であるが、だれが困難を乗りこえるだけの使命感と熱量をもっているというのだろうかということで、よくよく見渡せばとどのつまり「旗は振りつつその場足踏み」となる可能性が高いのではないか、と思う。
時事雑考「たたかいすんで日が暮れて、探し求める明日への道」(その1)
「まったりモラトリアム選挙」だった参院選
◇ さびれゆく鉱山町にも似た光景のなかで、わが国は昨日のつづきの今日をおえ、つづきとしての明日を迎えようとしている。そんな中、第26回参議院選挙は当事者あるいは組織にとって悲喜こもごもなる思いを残しながらも、大勢としては事前予想にそった結末を迎えたといえる。
その主旋律は、「今は変える時ではない」というものであろうか。この旋律は、押しこめられたわが国の状況を、まずは受けいれなければならないとの有権者の思いからもたらされているもので、逆にたとえば打ってでるとか自力で状況を変えるといった、積極果敢な行動に対しては否定的であると思われる。やはり安全保障環境へのとぎすまされた感受性が主役であったと思うが、さらに習近平、プーチンの両氏が反面的に影響を与えたといえばいい過ぎであろうか。いずれにしろ、つねに優柔不断である国民性に照らせば、かなり明確な意思表示であったと思う。
では、今回の選挙でしめされた民意すなわち国民の政治的意図とは具体的に何であろうか。そのひとつは、政治プロセスを通して選択されてきた「この道」をそのまま歩み続けることが、国あるいは国民にとっての最善策であるという、筆者には迷信に近いと思えるのであるが、ことに臨んで何もしないことが上策であるという、まるで禅問答のような考えに集約されているように思える。
だから、はたしてそうであるのかといった議論よりも、やがて襲来するであろう巨大な暴風雨に備えるため、とりあえず身をひそめ動き回らないことを約束しあっているような感じではないかと思う。けっしてパニックに陥っているわけではない、ちょっとした思考停止のように見うけられるのである。
といえば、何か「いいがかり」のように聞こえるかもしれないが、そうとでもいわなければ収まらないのである。というのも、30年を超えて賃金が上がっていない、あるいは統計がおかしいのではないかと思うほど実質生活が劣化している、またかつて黄金色に輝いた産業業種の衰退が目にあまる、くわえて近隣国との関係が厳しくなるばかりで、相手が悪いということしか説明されていない、とくに核保有国との関係が悪化し米国依存が底なし沼状態になっている、さらにいつまでたっても少子化、高齢化に歯止めがかからず社会保障制度がゆらいでいる、そのうえ労働力不足に対しては無策に近く、まして財政は大丈夫かなどなど、なにからなにまで政治が責任を負うべき課題が山積みなのに、今回の参院選のいいようのない「まったり感」は主権者たる国民としてまことに緩すぎると痛感するものである。
全くのところどうするつもりなんだろうか。何十年も口の中でかみ砕けずにたまってばかりで、呑み込めないでいる。また吐き出す勇気もなく、結局栄養失調でやせ衰えつつあるということであろうか。
だから、何かしなければと思うべきなのに、何かしてそれがダメであったらどうしようと、後の心配が先に立つ。まさか民主党政権に懲りたというわけではあるまいに。しかしそういうことでは主権者として少しだらしがないのではないか、すえ膳以外は受けつけないというのでは民主政治は成りたたない。現下の問題山積み状態は、主権者が受け身を貫いて打開できるほど容易ではなくきわめて深刻だと思うのだが、という意味においても「まったりモラトリアム選挙」であったといえる。
時事雑考「敵基地攻撃能力を議論する意味と、議論しない立場について」
◇ たとえば、専守防衛だからとか、また必要最小限でなければならないからといってみても、目的(防衛)が達成できないとなれば、「防衛組織の存在価値がない」ということになるのだから、これらの二つの制約についてはつねに議論の対象にならざるをえない。としても、議論の必要性でさえ意見が大きく分かれていることから、あれもこれも同時に議論すると話がもつれ放題になってしまいそうで、多少政治が気になる一般人としては敬遠気味にならざるをえないのではないか。
そこで、前提として確認しておきたいのは、国の防衛については状況に応じたさまざまなステージがあり、防衛の議論はそのステージに応じたものでなければ結局役にはたたないということである。くわえて、その状況というのは主に周辺国が手前勝手に作りだしていると思っているから、わが国としてはどうしても受け身にならざるをえない。ということで不安や歯がゆさを覚えることになるのであろう。また、この受け身という立場は努力して変えられるものではないということも共有されているようである。
時事雑考「お騒がせな人が飛びつく核共有は百害あって一利なし」
◇ 「議論はすべきではないか」といった前説をぶら下げて、突然「核共有」がヘッドラインに現れ、なんともいえぬ雰囲気を醸しだしている。もちろん、頭ごなしに議論を禁ずることはできないし、それは穏当ではない。とはいっても話題には内容にみあった重さがあり、議論にはその重さに応じた作法があると思う。そういえば「軍事を語ってはいけない平和主義」なるものが闊歩していた時代があったが、それが安全保障にかかわる議論を閉塞させたことも事実であった。当時、筆者は平和主義を標榜するのであれば、軍事についても考察を深めるべきという考えであった。したがって、軍事オタクとは一線を画しながら、あくまで軍事関係にも精通した平和主義の必要性を痛感していたのである。これは今も変わっていない。
そういった視座から、今日の「核共有」をもふくむ国防論議について、雑考してみたい、というのが今回のテーマである。
時事雑考 「近づく参院選、苦しい野党選挙協力―覆水は盆に返らず」
◇ とかく思い込みと思い入れに偏りがちな政治や政党論議ではあるが、ここは客観的にいって、立憲民主党(立憲)、日本維新の会(維新)、国民民主党(国民)、日本共産党(共産)、れいわ新選組(れいわ)、社民党(社民)による選挙協力については始めから無理があったということに落ちつきそうである。
そもそも、政党の存在理由と選挙協力には排反関係があることから、金庫のダイヤルのようにいくつかの数字(条件)がそろわないと、開かないということのようである。
そこで、自民党と公明党の選挙協力がうまくいっているのは、政権という最強の接着剤があるからというのは、もはや常識となっている。それでも、両党の選挙協力の結果は、どんな候補者なのかという人的要素にも大きく影響されるが、クロス投票でいえば50%から80%に上るのではないかといわれている。クロス投票とは自民党支持者が公明党候補に投票する、あるいは公明党支持者が自民党候補に投票する比率をいうもので、出口調査や投票後の組織調査などで推定されているようである。(筆者の場合は経験にもとづく勘ピューターであるが)
時事雑考 「国防論議について、左派グループは豹変すべきである」
豹変
◇ 「豹変すべきである」。プーチンロシア大統領のウクライナ侵略をうけての国防論議に対する左派グループへのささやかな贈語である。筆者は、立憲民主党(立憲)に対しては「憲法9条改正(自衛戦力保持)を主導し、日米安保条約の実質対等化を目指す」ことを方針化すべきではないかと、ウェブ上で勝手に例示しているのだが、あいかわらず動きはないようである。常識的にはありえない話なので悲観はしていない。おそらく一周遅れで気がつくのではないかと受けとめている。
ところで、平等原則からいって、日本共産党(共産)にも社民党(社民)にも同様のことを求めるべきであろうが、無駄になると思われるのでやらないでいたのであるが、意外なことが起こっている。ようするに、赤い旗と白い旗が同時にたなびいているのである。
◇ 「共産党は7日、全国都道府県委員長会議を党本部で開いた。志位委員長は『共産党の躍進で自民党、公明党、日本維新の会、国民民主党による平和を壊す翼賛体制を許さない審判を下そうではないか』と述べ、従来の与党と維新に加えて国民とも対決していく方針を示した。」(注1)と伝えられているが、ガリガリの思考を変える気はさらさらないようだ。
で、立憲は、「立憲民主党の泉健太代表は8日の記者会見で、共産党の志位委員長が『急迫不正の主権侵害に際しては自衛隊を活用する』と発言したことを歓迎した。『全国民が自衛隊は大切な存在だと認識している。わが国の国防を担うのは自衛隊だと多くの政党が認識することは、基本的によいことだ』と述べた。」(注2)ことにくわえ、「その上で『明確に、自衛隊は合憲だという理解をしてもよいのではないか』と共産に呼び掛けた。」(同)ようである。
時事雑考「ロシアのウクライナ侵略がわが国の安全保障意識に与える影響」
◇ たしかにきな臭くはあったが、それでもまさかという想いであった。―
あれから34日が過ぎたが、戦火は一向に収まりそうにない。被害の拡大を防ぐためにも、人びとの不安に終止符をうつためにも、一日も早い停戦を期待したいが、それでも国連憲章などを違(たが)えてのロシアの侵略行為を認めるわけにはいかない。また、ロシアが侵略の成果をえることも断じて受けいれられない。という多くの気持ちはそれとして、プーチンもゼレンスキーもいずれ泥沼から抜けだすための決断を強いられることになるであろう。しかし、そういった出口の議論にたどり着くにはまだまだ時間がかかると思われる。また軽々にあつかうべきものではないし、わが国も時期がくれば今以上に巻きこまれることになることだけは確かであろう。
それにしても、事態が激しく動いているなかで、遠く離れた東アジアの地にあって、さまざまな地図が解説のために映しだされるのであるが、ジブラルタルからウラルまでの広大なヨーロッパ大陸がジグソーパズルのように分割されていること、さらにそれらのピースが時代ごとに変形消失あるいは生成されていることに「わあっ、ヨーロッパは大変だな」とあらためて驚きを覚えると同時に、だから東アジアの地政学センスでヨーロッパを観ることも語ることも難しいのかしらと、やや閉じこもり気分になるのである。
さて、今回は一連の出来事をうけてわが国の安全保障意識にどのような変化がみられるのかについて、管見を呈したいと思う。結論をいえば、いままで理屈のための理屈に終始していた安全保障議論が従来の枠にとどまらず、中国の台頭と米国の若干の減力から現実直視型の議論へ移行する過程にあって、世界大戦型の脅威だけではなく局地型の脅威が現にありうること、またそれへの対応策は実戦的に構築する必要性があることなどなど、平和構築の視点が多様化していると思われる。また国民の関心も観念的な反戦平和論から実効性の高い現実的平和主義へと移行しているとも思われる。
ということを政治勢力別にみると、旧来の左派あるいはリベラル陣営では平和戦略の刷新と再構築が喫緊の課題になっていると思われる。が、ロシアのウクライナ侵略の前であれば「変わること」についての好機であったと高い説得性がえられたであろうが、後となってはたんなる「後追い論」としか受けとられないので、左派支持層を失うリスクだけが残ることから、いずれにせよ路線刷新は難しいと思われる。
とくに、日本共産党、社民党にとっては逆風である。また、立憲民主党が政権を目指すのであれば、鮮やかなイメージチェンジを成功させなければ、残念ながら政権担当政党とは認知されないであろう。このあたりについては、2022年2月9日の弊欄「政界三分の相、立憲民主党は左派グループにとどまるのか」で、「立憲民主が憲法改正(9条)を主導し、日米同盟の双務的再定義をあわせて提起するならば、わが国の政治シーンはコペルニクス的大転回によって、現在の保守グループのアドバンテージは雲散霧消するといった連想を生むのであるが、」と政治的転向の難しさを踏まえながらも、わが国の政治の活性化のためには同党の大胆な行動変容が必要であると呼びかけているつもりであるが、難しいのかもしれない。
時事雑考「プーチンのウクライナ侵略と終わりを見通せない経済制裁」
「プーチンのウクライナ侵略戦争」というべきか
◇ 筆が止まってしまった。前回の2022年2月26日「予算案は参院に、ウクライナ侵攻が変える安全保障意識」の後がつづかない。この瞬間においてもロシア軍の都市部への攻撃がつづき死傷者が激増している。しかし、今のところ停戦協議が成果をあげるとは思えない。また協議中であっても攻撃を緩める気配もなく、むしろ無差別攻撃になっているのではないかと心配している。生活空間を破壊し、民間人を死傷せしめ、避難者を苦しめているが、これは「プーチンのウクライナ侵略戦争」と命名すべきものである。(文脈上敬称を略す)
国連総会が国連を支えたが、新しい風を吹かせることができるのか
◇ この侵略に国際社会が受けた衝撃は大きく、また多くの国が強い憤りを感じていることは、「国連総会のロシア非難決議『ウクライナに対する侵略』」が2日に賛成141か国、反対5か国、棄権35か国、無投票12か国で採択されたことからも明らかである。安保理常任理事国の悪しき特権をのり越えての総会決議の意義は、今日その存在を問われていた国連にとってとても大きいものといえる。もちろん、この決議には法的効力はない、しかし国際社会の規範を明確にする機能は十分はたしているといえる。直ちに撤退を強いる実効力はないものの、決議文にある16項目を読めばほとんど判決内容に近く、141か国が賛成した事実とあわせ、国連に新しい風が吹きはじめたと受けとめたい。ということから、なによりも侵略国を大いに苦しめる流れができたことは確かであろう。8年前のクリミア併合時とは大いに違ってきたと感じている。
時事雑考「予算案は参院に、ウクライナ侵攻が変える安全保障意識」
予算案は参院へ、どんな議論を創るのか
◇ 来年度予算案が22日衆議院本会議で可決され参議院に送付された。3月23日にも自然成立することになる。地味な予算委員会であったことはまちがいないが、感染症が拡大している状況やモリカケサクラといった醜聞モノが少なかったことなどが議事を促進させたと思う。騒がしさを求める人びとにすれば大いに物足りないかもしれないが、あくまで議論の中身を吟味してからのことで、従前に比し劣後しているとは思えない。
それよりも、野党国対間の連携について、代理ベースで日本維新の会や国民民主党などと情報交換する場を立ちあげたようであったが、共産党の抗議をうけ一夜で落城となった。もともと国対とは裏方組織であるのだから多角重層的にやればいいと思うのだが、立憲民主党の選挙総括のからみもあって機微なテーマになっていたのだろう、共産党の逆鱗に触れてしまったということか。
共産党に一喝されてしぼむようではいかにも心元ないではないか、立憲民主党国対の一歩後退感は否めない。というのも、野党全体のまとめ役になれる条件が整いつつあったと考えていた人びとにすれば、せっかくの右側の結合手の芽が萎えたことに心底がっかりしているし、また野党全体としてもマイナスであろう。
たしかに共産党の怒りにも理はあるといえるが、ここは立憲民主党の力量を強化しないと野党共闘の芽が出ないのだから、短気は損気のような気がする。最後には共産党のいい分を受け入れると思われることの風評を十分思慮しなければ、「やっぱりそっちを向いているんだ」ということになる。
くわえて、この時点で野党国対委員長会談が事実上空き家になったことの意味を分かっているのかしら、とつぶやきながらも筆者の気持ちは来るべき大変化のほうにすでに向いているというのが正直なところである。
時事雑考「衆議院予算委員会-一番野党よ、膾(なます)を吹いてどうするの」
「2回目接種から原則8か月以上」がもたらした影
◇ 衆議院で地味な予算委員会がつづいているが、2月14日のそれは興味深いものであった。長妻昭議員(立憲民主党)が3回目のワクチン接種について後藤、堀内両大臣に厳しい質問を浴びせた。質問の焦点は、昨年11月15日に開かれた厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会での諮問内容などについて、翌16日におこなわれた後藤厚労大臣あるいは堀内ワクチン担当大臣の記者会見の内容が、「2回目接種から8か月以上」に重心がおかれ、「地域の感染状況に応じて6か月以上であれば接種可能」とする分科会での方向性を押し戻してしまったのではないかという問題提起であった。また、質問の背景にはオミクロン株の感染拡大がピークを迎え、高齢者を中心に亡くなる方が急増している2022年2月の悲惨な状況のなかで、長妻議員の指摘はその原因のひとつが「押し戻し」によるものではないかというもので、そうであるならまさに人災ではないかという非難をともなうものであった。(予算員会の映像や分科会の議事録などから確認)
しかし、映像や議事録を見るかぎり、2月16日の記者会見について「8か月以上を原則としつつも感染状況に応じ6か月以上であれば接種可能」とする諮問内容をなぞったものであったという後藤大臣の答弁はその通りで、押し戻したという指摘をささえる直接証拠を見出すことはかなり難しいと思う。
ただし、2月11日には河野太郎衆議院議員(自民党広報本部長)がBS-TBS「報道1930」で、「8か月には、私は根拠はないと思ってます。これは完全に厚労省の間違いだ。それは素直に認めないといけない ー略ー」と発言し、オミクロン株による感染爆発への対応が3回目(ブースター)接種の遅れなどによるのではないかという世間の反感に対し、ひとつの見方を示したものと思われるが、そういった河野議員指摘の役人責任論ではなく、政治家責任論がありうるというのが長妻議員の主張であるなら、その点は賛同できる。