遅牛早牛

時事寸評「2025年2月の政局②-トランプ政権疾走する-」

1.トランプ政権のスタートダッシュがすさまじい

 もはや日常を超えてトランプがあふれている。溺れてしまいそうなので、電源を切るか、スキップすることにしている。いつまでも「気をひく言いまわし(アテンション・バイト)」に構ってはいられない。発信のほとんどが週間要約で間にあうので、慌てることはないのだ。また、伝えられている発言のすべてがわが国に関係するとも思えない、つまり捨て札も多いのでひと月後の残存率はあまり高くない。それに、いよいよ国内メディアのオオタニ・ラッシュが始まるのでトランプ、オオタニ、トランプと連呼されるのもうざいと思われるので、おそらくトランプ色の方が薄められるだろう。といったことを言うのは隠居の気楽さゆえで、現役にしてみればほぼ恐懼にちかい心持ちであろう。

 とくに関税の話は、そもそもが交渉(ディール)の手段なのであるから、あたふたするよりも個々の政策目的(真意)を見きわめる方が先というべきだが、当座の営業や為替あるいは株式市場への影響を考えればどうしても神経質にならざるをえないと思うし、そういった立場の人びとが多いのも確かなことである。

 ところで、米国がもともと豊かな資源国でありながら貿易赤字が膨張しているのは、国内消費が過大なのか国内生産が縮小しているかのいずれか、もしくは両方なのであろう。それにしても国内の供給力増強の担保なしに関税強化を先行させることは、経済政策としては自傷行為をこえる破壊性を持つと思われる。したがって、たとえばインフレ対策などには入念な準備が必要となるから即戦的な実行は困難と思われる。ということが広く知れわたれば交渉手段としての関税云々策は急速に徐力化すると思われる。

 さらに、輸入制限を目的とする関税政策によって国内生産の回復・増進が可能なのかについては、資本と技術の調達を重要視する立場からいえば時間軸もふくめて否定的にならざるをえない。それは超大国の米国においても例外ではない。

 くわえて、トランプ氏がどんなに否定しても気候変動については、経営者や投資家はそれを無視するどころか積極的に受けいれていく方向にあり、米国においてはしばらく足踏みをするにせよ、またEU主導に陰りがでてくるにせよ大きく流れが変わることはないと思われる。つまり、投資家の判断や脱CO2への対応において、新規の生産拠点を環境政策が大きくスイングする米国内に建設することが魅力的なのかどうか、またファイナンス可能なのか、などなど入念な検討を重ねているうちに中間選挙をむかえることになる。投資家はトランプ流の持続可能性については世論調査などをベースにかなり疑問をもっているといわれている。今のところ意欲的な計画を交易国に考えさせるのが政策としてはピークであったと過去形で語られる可能性がたかいということであろう。

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時事寸評「2025年2月の政局①-熟議を実らせるには決断が必要-」

◇ 先週末からの衆予算委員会での石破総理の答弁は丁寧ではあったが、かなり頑なであった。慎重なのは分かるが、特有の素っ気なさは喧嘩腰なのかと誤解されるかもしれない。おそらく米国で7日に開催される日米首脳会談に気が向いていたからだと思われる。もちろん、そのことについては多くの人びとがトランプ氏との相性を気にかけたりとか、むしろ好意的にとらえているわけで、世間はまだまだ穏やかであるということであろう。

 そこで件の首脳会談であるが、それなりに評価されるものに仕上がると95パーセントの確率で予想している。残りの5パーセントは突発事故ともいえるものでいわゆる想定外である。ともかく日米ともに成功させなければならないのだから、中身はよく分からないが成功すると考えるのが自然であろう。

 で、帰国後の石破氏の言動に変化がみられるのかがかなり気になるところで、というのも予算委員会での答弁のままでは維新も国民民主も賛成できないだろうから、当面の間は来年度予算の成立が不透明なままで推移することになる。そこで、帰国後はいよいよ濃霧を切りひらくべく石破総理の強力光線の発射が求められる「切羽詰まった状況」にいたるとやや物騒な予想をしている。

 視点をかえれば、少数という致命的弱点を背負っている与党が率先して大胆に動かないかぎり立憲も、維新も、国民も引きつづき同じ主張を繰りかえしても賛成にむかって積極的に動くことができない、つまり金縛りから脱却できずにいる膠着状態におちいってしまうと思われるが、これこそが真の問題といえるのではないか。

 とくに立憲においては、各基金からの取り崩しを含め高めの「数千億円」規模の修正を目指している(と聞いているが)ものの、仮にそれが達成できたとしても直ちに「予算案の賛成」に動けるのかといえばおそらく90パーセント以上の確率で無理と思われる。もちろん、生きた政治には常に「まさか」がへばりついているので、たしかに「103万円の壁」問題の所要額にも匹敵する歳出削減に成功すれば政権担当能力の証明にもつながることから、出来高はさておき有権者目線でいえば「政権のあり方」に強くかかわる認識の変更が政界の風景を一変させるかもしれない。多少ぞくぞくするところもあるが、冷静にいえば立憲の予算案賛成という超ど級の大技なしには歳出削減は無理であろうから、議論は一回りして立憲・国民民主との協議に回帰すると思われる。

 いずれにしても時計の針は止められるが自然現象の時間は止められない。残された時間が少ないなかで、立憲の賛成をもとめる交渉や歳出削減の可否に内閣の命運を賭けるわけにはいかないというのが常識であろう。しかし、政権としては立憲の機嫌を損ねることは何かと好ましくないので数千億円の削減は議会運営負担(コスト)と割り切り、対外的には熟議の成果と喧伝するに違いないと筆者は非難をふくまず受けとめている。肝はどんなに歴史にのこる熟議を行っても立憲の予算案賛成はまずない、またそうすべきではないと考えるべきであろう。

 もちろん、これを契機に参議院選挙後は大連立さえ射程にはいるのではないかとの大胆な予想をたてる向きもあるが、憲法改正、安全保障、エネルギー政策などについては当座のつじつま合わせでさえ時間が足りないうえに、そもそも支援団体が容認できることではないから、そんなことを強行すれば石破自民も野田立憲も党内混乱の末におそらく大量の離党者の発生や分裂騒ぎによって、結局あわせても過半数に達しないという最悪のケースの可能性もあることから、冒険が過ぎるということであろう。

 つまり、大連立しても自民と立憲だけでは少数与党にとどまりかねず、早い話が元の木阿弥ということになると思われる。

 もちろん、今年(2025年)の参議院選挙がおわれば3年間は国政選挙の予定がないことから民意を気にせず好き勝手(消費増税?)ができるという声があるようだが、岸田前政権の時もそういわれたものの結果は退陣となった。石破氏の党内基盤はまだまだぜい弱なので都合のいいようには政局を動かせないだろう。また立憲内には反自民勢力も多く、さすがの野田氏といえども党内で大連立の大義名分を整えることは困難ではないかというのが今日の相場観である。

 ということで、結局のところ少々高くついても維新あるいは国民民主の「助け船」に乗るしかないだろうというのが筆者の見立てであり、そういう意味では昨年から状況は変わってはいないといえるのである。(まあ平たくいえば、安いほうがいいに決まっているというのも真理であろう。先進国の製造業が開発途上国によって追いつめられたのは品質・性能がくすむほどの圧倒的な安さであったというのは筆者の余分なおしゃべりであろうか。)

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時事寸評「トランプ氏再び大統領に、歓声と悲嘆からの離陸」

1.帰ってきた「アメリカファースト」、渦巻く期待と不安

 「アメリカファースト」が帰ってくると世界が身構えている。米国内は期待と不安が入り混じったまるで分離したドレッシングのように見える。たった一人の政治家に対してこれほどの反応が地球規模で起きるのは稀なことであろう。もちろん期待よりも不安のほうが大きいと思いながらも、1月15日イスラエルとハマスがガザ地区での停戦と段階的な人質解放で合意したと聞けば、大統領就任式の前というタイミングに意味があるのか気にはなる。そんなことよりも今は「よかった」と言葉をかみしめている。

 「アメリカファースト」と聞いた瞬間こそきわめて鮮明な印象を受けたが、すぐさま焦点がぼやけた。分かったようで分からないのがキャッチコピー(とても気を引くいいまわし)の宿命である。

 ところで、何でもかんでもいつでも「アメリカファースト」であるし、「アメリカセカンド」というのはついぞ聞いたことがない。おそらく声援や囃子詞(はやしことば)の類であるから深い意味などはないのであろう。

 というのも自国利益第一というのはごく当然の原則であり、どの国もそうなのであるが声に出すことはない。いわゆる「いわずもがな」であるのだが、この人が言えば求心性が高まるのが不思議である。人気アーティストのライブでの決まり連呼と同じなのであろうか。ちなみに、わが国の首相が「ジャパンファースト」と言えれば空気が冷える。

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時事寸評「2024年の雑感と2025年当面の政局について(2/2)」

(前回からのつづき)

11.いささか感情的になるが、生活者への共感なくして政治はなりたたない

 ここからは感情的ないいまわしになるが、生活苦をうったえている人びとは、国会議員に毎月歳費とは別に支給される調査研究広報滞在費(旧文書通信交通滞在費)の100万円をうけとる立場にはない、当然のことである。また、この100万円といわゆる「103万円の壁」とは論理的には無関係である。というのが議員サイドの思考系であるが、人びとの思考系は月100万円と年103万円とは対比されるべき関係となっており、それは論理よりも感情に大きく傾いた思考系となっている。したがって、歳費とは別財布である月100万円については使途証明できなければ所得として課税対象とすべきという主張にも共感することになる。また、件の100万円の原資が税金であることも人びとの感情をことさらに刺激するのであろう。

 有権者の多くがここ何年かにわたり酷税に苦しめられてきた。たとえば、高くなった調味料を手にしながら「これにはさらに消費税がかかってくる」と生活の劣化にはお手上げなのである。この話を日銀総裁風にひもとけば、物価と賃金の好循環を期待するということであろうが、現実には多くの人の賃金はさほどあがってはいないのである。それも後追いであるから、物価に押されまくって実質賃金は下がり気味である。

 こういった話は、昨年の選挙で国民民主の支持にまわった有権者にかぎったことではなく、比率をいえば十分一般化できるぐらい多くの人びとについていえることなのである。円安で株価が上がったり輸出比率の高い一部の企業が利益予想を積み増したりといった話題が取りあげられるが、日銀総裁の耳は円安賛歌の方向に向いているのであろう。輸入物価の急騰がはげしく家計を痛めつけているのである。

 日銀は生活者にとって「敵」であるとの意味は、生活者への共感なくして何のための金融政策かということである。だからこそ政府としては春の賃上げや最低賃金改定に加勢しているのであろうが、悪しくいえば他人のふんどしで相撲をとっているだけで、自らの責任で何かを為しているとはいえないのである。

 この辺から文脈としては自民党の限界という方向に分岐するのであるが、それは別項の議論である。

 ところで、年末に示された与党の「123万円」は物価上昇分の反映である。もちろん、「税制は理屈の世界」であるといわれれば確かに一面の真理ではあるが、それがすべてとはいえなし、政治の最終決定ではない。なお、理屈においても政府がかってに算出している物価上昇率はずい分と生活実感からはかけ離れた数字ではないか。また、現役世帯における労働再生産費用がぞんがいに上昇している現実への対応をどうするのかなどの視点からいっても、123万円はまるで木で鼻を括(くく)るもので生活者からの要求に誠実にこたえているとはいえない、つまり感情においても理屈においても不十分といえるのである。

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時事寸評「2024年の雑感と2025年当面の政局について(1/2)」

1.令和7年(2025年)新年のごあいさつ

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 昨年は世界的に選挙の年で騒がしく、さらに気候変動が原因なのか気象の狂暴化が地球規模で大きな被害を各地にもたらし、くわえてウクライナにガザ地区またシリア、レバノンへと紛争による被災地域が広がっている。紛争地域が広がれば被害者が幾何級数的に増え、死傷者も増える。助け合いながら殺し合うというどうにもならない現実に目を背けたくなる毎日で悲しいが、なんとか解決の糸口が見つかるよう祈ることしかできないのが残念というほかに言葉もないのである。

 さて、昨年の選挙によって与野党の議席が逆転した国も多く、わが国も自公連立政権が過半数を割った。このあたりの事情は、昨年11月から12月にかけて「新局面となるか、ガラス細工の石破政権の生き残る道」11月17日、「厳しくなる世界情勢にあって石破政権を揶揄するだけでいいのか」12月5日、「石破政権、餓死するぐらいなら呑みこんだらいいのでは」12月17日と、かなり詳細に書きこんだつもりで、もちろん予測については例によって妄想性が高いといえる。

 今回のコラムも引きつづき、政局の目になっている国民民主党による対与党要求について、またそれにかかわる国会審議の行方などを中心に愚考、妄想をかさねている。気持ち的には労働関係や社会活動の方面に話題をふりたいのであるが、久しぶりに国内政治が活性化しつつあるので、やや偏食気味になってしまった。

 さて、新年なので長期的な課題について少しふれれば、気候変動対策としてまた大規模紛争を回避するためにはグローバルに膨れ上がった市場型資本主義経済の改造にとりかからなければというのが共通テーマになると思われる。いくら民主主義だと偉ぶってみても足元では経済格差があらゆる場面で露見し悪影響をおよぼしているのだから、一般の人びととしては現下の政治そのものを疑わざるをえないと、むしろ追いつめられているというのが正直なところではないか。だから極右政党の躍進がいちじるしいと嘆く前に、公平な分配を回復させるべきであり、さらに民生の向上を優先させることが政治的にも最重要課題であると思われる。

 また、先進国などにおいては民主政治と資本主義経済とが相互依存関係にあり、端的にいって互恵的であったし、少なくともそういった共通認識を前提にともに発展してきたという今までの成功体験が、「公益財である民主政治が資本財によって侵食され実体を失いつつある」との鋭角的ではあるがかなり的確な問題認識によって成功の意味を失い、さらに体験そのものが色褪せようとしているのである。これが「民主主義の危機」の真相といえる。

 もし人びとが、経済成長とその果実の公平分配によって戦後民主主義とその核である民主政治が守られ発展してきたと歴史を解釈するのであれば、その歯車がしずかに逆回転を始めたことを理解し、そのことを日常生活において感じているであろう。そういった日常的な漠とした不安の根源は構造的であると思われる。

 さて、そういった長期課題に遭遇すると同時に、気候変動という極めてやっかいな問題に現代社会はきつく巻きつかれている。それらの課題(テーマ)と問題(トラブル)はもとはといえば同根である。それは、今日までの経済成長を支えてきたのは化石燃料の大量消費であるから、成長すればするほど地球温暖化が進むという悪循環からの離脱の有効な道筋はいまだに発見されていない。総人口が数億程度であればまだしも、80億人を前提とするならば悲観的にならざるをえない。つまり、先進国サイドに大きくしわを寄せるしかないとの結論が視野にはいってくるが、先進国の中の最大国がとつぜん「ドリル、ドリル」と叫んでいるのだから容易なことではない。

 今年と来年においても気候変動由来の異常気象による被害が右肩上がりに増大する-おそらくそうなると思われるが-のであれば、米国の世論も劇的に変化せざるをえないと思われる。しかし、米国での理解がすすんだとしても、国際場裏において効果的な対策をまとめられるかは大いに疑問である。

 もちろん気候変動による被害が年々増大しているというのが世界の実感であるが、それを完全証明することはなかなか難しいといえる。背景には効果的な対策とは、産業革命以来の歴史の逆まわしに似た先進国としてはとうてい受けいれがたい過激な議論をベースにしなければまとまらないからである。

 さらに、今を時めくAIも時代のあだ花と思われる仮想通貨もエネルギー消費においては超ど級であり、その開発や応用に各国がしのぎを削り過大な予算投入を続けているのであるから、人類の滅亡を画策している悪魔たちにすれば笑いが止まらない毎日であろう。不安と期待が混在した中で現実感覚を失い、ものに憑かれたように破滅の道を進んでいるのではないか。

 近いうちに人類の手におえなくなるといった漠然としているが確実な災厄の出現に、人びとの恐怖心が広がっていくのも現実なのである。

 人びとのあいだがすき間なく災厄によって埋めつくされるのに10年はおろか5年とかからないとなれば、将来不安が積乱雲のように膨張し、世界は混乱しやがてひどく疲弊するであろう。気候変動ではなく気候擾乱による環境破壊への実感が、かつて経験したことのない経済大恐慌を引きおこすであろう。と安普請の終末論を書くことはたやすいが、希望の光を見いだすことには万倍億倍の努力がいるのである。ともかく、近い将来化石燃料による文明は終焉し、人新世は終幕を迎えることだけは確かであるといえる。

 新年早々暗黒のSF小説のようで申しわけないが、これがはずれて笑い話になって欲しいと思っている。

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時事寸評「石破政権、餓死するぐらいなら呑みこんだらいいのでは」

まえがき】 昨今、自民党は政党としての凝集力を欠いている。確かに少数与党ではあるが、来年の通常国会を乗り切り、夏の参議院選挙で国民の信頼を回復するべく石破氏の元に結集し団結して事にあたるのが通常の組織論であるが、どうも石破嫌いが金縛りを招いているのか、なにかしら停滞しているようである。理屈ではなく感情の問題であろう。児戯のようにも見える。それでも政権政党かと一言いいたい。

 12月17日、自公国の幹事長合意をうけての政調レベルの協議が中断したようである。以下の文中でも触れているが、国民民主が中断退席するのもいたし方ないと思われる。というのも、筆者の交渉経験からいえば与党サイドの123万円がいかにも不用意であって、聞いた瞬間にも「これはまずい」と感じたのであるが、もともと壊れやすい交渉なのである。だから、「彼我の懸隔のあまりの大きさにただただ茫然としている」ぐらいの表現にとどめるべきで、具体数字を示すのは出口の10メートル手前ぐらいが程よいのであるが、123万円とはあまりにも整いすぎている、ということであろう。あとは高度な政治判断にゆだねるというシナリオなのかもしれないが、予算成立に協力しようというせっかくの申し出に塩をまくような対応であるから、いろいろ考えてみてもとどのつまり自民内の不協和音の存在を感じてしまう。あらためて、凝集力、統制力に変調が生じているのかと不安になる。

 さて年が明ければ、トランプ氏が米国大統領に復帰し新しい外交の時代を迎える。くわえて、となりの韓国は現職大統領の弾劾にゆれている。そういった厳しさを増す国際情勢にあって、与党内がこんな体たらくでいいのかと再度問いたい。もちろん選挙での大敗による愁傷は如何ともしがたいが、そうであるなら潔く下野すべきであったのではないか。兎にも角にも一丸となれない政権与党の存在は国民にとって大迷惑である。

 表立って石破おろしをやる度胸はなし、さりとて黙って支える器量もない。というないない尽くしの悲惨な現状を見るにつけ、厳しいようではあるが衰退あるいは分裂という言葉が頭をよぎるのである。新年を迎え少数与党という過酷な事態になお適応できないのであれば、あらためて大連立を模索すべきであろう。

 無気力な集団に民心が依ることはないから、7月の選挙も大敗であろう。衆参ともに少数与党では政権運営は無理なので、政局は急速に政権交代へと向かい、与党分裂が現実味をおびるであろう。残念な雲行きである。 

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時事寸評「厳しくなる世界情勢にあって石破政権を揶揄するだけでいいのか」

1.箸の上げおろし云々の前に、政権の強化をはかることが全体益につながる(トランプ外交に対応できるのか)

 箸の上げおろしは些事である。そうではあるが、それが時の宰相(石破氏)のことであれば天下の些事となり、SNSなどで用事の合間に突(つつ)くのは息抜きにはもってこいなのであろう。まあ息抜きなので本人は気にすることもないと思うが。

 また、ウェブ上ではインプレッション稼ぎの投稿も多く、そういったアテンションエコノミーが世の中をざらつかせて不寛容にしている。という指摘もすでに陳腐化している。陳腐化したということはその害毒性が日常化したということであり、被害が蔓延しているということであろう。そこで政治家が格好のターゲットになるのは仕方のないことかもしれないが、「人の悪口をいえば小銭が入る」とか「嘘ついて儲ける」といった社会がまともでないことだけは確かである。

 ところで、今のわが国に宰相の箸の上げおろしを突いている暇があるのかといえば、そんな余裕などはないはずで、正面の外交にかかわる議論を急がなければならない。

 まず、アジアの大国(中国)を念頭に「法による支配」と大上段に構えていたわが国の「近過去」外交が、その大国の急接近をうけてすこし揺らいでいるようだ。外交的にはかなり剛性であったその「近過去」を急に変えるわけにはいかない。そこで変幻自在な相手を用心しつつもそれなりの荷捌きが求められるのだが、わが国単独では荷が重いから、同盟国や友好国と相談することになるはずなのに、年が改まれば米国の大統領はトランプ氏に代わるのであるからはたして話が通じるのか。たとえば「自由で開かれた」といったきれいごとも年内限りになるのかと不安がよぎる。

 米国抜きで「法による支配」とか「自由で開かれた」といってみても空念仏のようで、迫力不足であろう。で、その米国が世界に向けての不確実性の発信地となっているのだから、とりわけガラス細工の石破政権としては気が気でないということであるし、米国も軍事力抜きの関税だけで微妙な東アジアの今日的課題を解決できると本気で考えているのか、疑問である。そうであれば相手からは足元を見られ、結局のところ米国の地政学的勢力圏はどんどん縮小していくのではないかと危惧される。

 とくに、ロシアのウクライナ侵略は1950年代の朝鮮戦争を思いおこさせるというか、かなり相似な様相を呈しており、この70年あまり国際社会が進歩していないことの証明であるともいえる。つまり、武力による解決、核による脅しが有効であるというよりも、それ以外に解決手段をもたない悲惨な人類文明の欠陥が露呈したということであろう。関係ないようであるが、言葉こそうまく調整されていたリベラルがそういった発言のわりには実のところ無力、無能であったことがヨーロッパを中心に選挙での右派躍進につながっているのではないかというのが筆者の感想である。

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時事寸評「新政局となるのか、ガラス細工の石破政権の生き残る道」

まえがき

 ・国民民主党の、とくに玉木代表の周辺がいろいろとかまびすしい。醜聞もあるが、とりわけ103万円の壁問題が脚光をあびている。くわえて、106万円あるいは130万円の壁までが取りあげられて、土俵が拡大しているようだ。「○○の壁」というキャッティーな用語だけではない注目性があるのかもしれない。ということで自公国の協議の方向性が定まるまでは、まだまだ争論状態が続きそうである。

 ・今日的には「103万円の壁」は象徴としてあつかわれている。さまざまな年収の壁(超過することによって制度の適用が変化し手取り減と認識される額)を代表し、103万円にかぎらず広範な議論のハッシュタグとなっている。もともとは「手取り増」であるから給与明細書の「引き去り(控除)欄」の減額、とくに公租公課(所得税、地方税、社会保険料)の減額が中心課題であろう。

 この課題は1970年頃から主婦のパートタイマーを中心に指摘されていた。現在においても所得税や地方税の課税基準として、また扶養控除の基準としても用いられている。そのことが主たる家計者の扶養控除(38万円)や特定扶養控除(63万円)、あるいは給与の扶養手当などにもかかわってくるところが不利益感を増長しているといえる。

 ・また、公的年金制度や健康保険制度の加入資格とも関係する制度上の難題として当時から認識されていた。今日でも、たとえば130万円超となると国民年金の3号被保険者の適用外となり、1号あるいは2号被保険者として加入し、保険料を支払うことになる。(1号の場合、月額16980円なので年額はおよそ20万3千円で結構な負担増となる。ちなみに3号は負担ゼロである)

 また、企業等の従業員が加入している健康保険(健保組合)でも、130万円超となると扶養家族認定を外されるので、就業先の健保に加入するか、それがなければ国民健康保険に加入することになる。(筆者の居住地では年収130万円の保険料は月額9825円で年額は11万7千円である)

 いずれにせよ保険料の支払いが発生するので、11月12月のパートタイマーによる出勤調整が勤務体制に負担をあたえていた点も不評であった。

 ・もともと、世帯による扶養関係をベースにした税制や社会保障制度に個人単位の所得の扱いを接合させるという多少無理のある制度設計からもたらされる問題であり、既存制度をそのままにして解決策を見いだすには困難があるということで、問題意識はあるものの小幅な対処策にとどまっているといえる。

 あらためて、問題の全体像を俯瞰すれば、手取り増の方法論としてとらえることは当然であるとしても、家計所得分布で中位数以下の世帯の生活をどのように描き、現実的にいかに支えるかという目的下において「国民負担」を全体としてどのように設定するのかという視点でいえば、単身家計と世帯家計のバランスはひつようである。さらに、最低賃金の伸びをどの程度勘案するのかも、最低賃金1500円時代を展望すればあらためて、労働再生産費用への課税についの合意を得るひつようがある。こういった領域での社会対話を長年にわたり為政者が拒んできたと認識している筆者と、そういった政治に支配されてきた各税調あるいは省庁との考え方の溝は大きいように思われる。

 という大いに政治性の高い意識で考えれば、現在おこなわれている「103万円の壁」についての議論には、政策・制度としての内容にかかわる課題と、有権者が直面している生活上の苦難に政治としてどのように向き合うのかという政治プロセスの課題があると思われる。

 二つの課題はいずれも難問である上に、政策・制度としての難しさが政治プロセスの黎明的進展を阻害するフィードバックとなる危険性もあり、報道にも注意深さがひつようであろう。

 ・たとえば、社会保障と税の関係は給付と負担の本質的関係であり、個々人の利害得失を包含した巨大な複雑系システムであるから、簡単に抜本改革といっても正直な話、検討段階での着手でさえ躊躇せざるをえないであろう。何がいいたいかといえば、課税最低限(基礎控除+所得控除)の引き上げという簡単な要求であったとしても、派生する課題は山のようにでてくるのであるからていねいな対応が必須であろう。

 ・派生する課題の中には、それぞれの制度を直撃しかねない抜本的構造的課題もあると思われる。また、当然減税であるのだから、国税と地方税の分担も大きな課題であり、これについては地方税の減収について早々と警鐘が鳴らされるのも、ややフライング気味とは思うが、宜(むべ)なるかなと思われる。

 ・くわえて、理論的に合理性の高い新制度が設計できたとしても既存制度との切りかえや接続問題が残ることになり、その解決に膨大な資源を消費することも頭の痛いことであろう。ということで、正直いって迷宮のような世界であるから、ともかく議論をすればよいという対応に終始するのであるなら、議論が議論をよび出口を見失うことになるであろう。関係者の知恵に期待するものの、短時間でこなせる議論だけではないと思われる。

 ・そこで、今回の議論の政治的意味合いを考えるならば、有権者が直面する具体的課題への政党あるいは政治家の応答性が問われている点が焦点であり、とくに各税調など専門性にあぐらをかき生活者の切実な要望を俎上にあげてこなかった雲の上の政治に対する抗議以上の実力行使ととらえるべきではなかろうか、と筆者は受けとめている。

 とりわけ実力行使というのは、声をあげるだけの段階から投票行動という民主政治においてはスペードのエースともいえるカードを切っているわけで、またその投票行動の結果が現実に与党を震撼させ、全テレビ局が連日とりあげているという従来にない大きな反響を生んでいるわけであるから、そういった反応に投票者たちが逆に驚きつつさらに自信を強めつつあるという、新たな民主政治の新舞台が創出されつつあるのではないか、という意味で要求から実力行使のステージに移ったと受けとめているのである。

 ・これは、与党の過半数割れを契機に人びとが政治をみずからの生活の場にとりもどす奪回闘争であるとも位置づけられるもので(こういった表現は筆者の嗜好であって壮大な背景思想があっての表現ではない)、この本質的な変化に対して与党は刮目して真摯に向かうべきである。したがって、国民民主への回答というだけではなく、自民党と公明党が先々も政権に携わることの資格審査としての能力証明であると位置づけ、有権者宛に回答するのが政治的には正しいのではないか。

 ・ということで、本文中では「大盤回答」という言葉を使用したが、「満額回答」でも「丸呑み回答」でもない、「これからは働く人びとを中心に政策も予算も考えていきます」という姿勢がにじみでていなければ、与党のじり貧に歯止めをかけることができないであろう。要するに新しい支持層を獲得しなければ自公に明日はないといえるのである。いささか強引な印象を与えていると思うが、パラダイムシフトの予兆は静かであって、見逃すことが多い。また、失われた筋肉は再生しない。自公が過半数勢力に復帰するには従前の生息地にこだわらずに新領域を獲得しなければならない。そのためには雇用労働者からの信頼が第一であるから、そういうことを前提にするならば今回の対応が重要なのである。

 最終受取人を念頭におき、この回答に高度な戦略性すなわち戦略的互恵関係を内包させれば天与の機会となるであろう。くどいようではあるが、与えることは取ることなのである。ということで「大盤回答」がひつようなのである。

 ・また、すべては国民の懐に残るもので、国外に流出するものではない。おそらく年末にかけて落ちこみゆく実質賃金の回復はむつかしいだろうから、また円安の加速から物価上昇の鎮静化ができなければ景気後退局面を迎えることになり、いずれにせよ財政出動が必要になると思われる。渡りに船とはいわないが、裕福でない国民への生活支援は緊急を要するということなので、できるだけ大きく早く実効の上がる施策をまとめるのが上策であるという判断で、協議をすすめればいいのではないか。

 ・総選挙前の8月の概算要求をまとめた立場にすれば、「103万円の壁」とかいって何兆円かかるか見当がつかない新規もの(国民民主の要求)が顔出しするのはまことに迷惑しごくであるとは思うが、選挙の結果として政権基盤が不安定化したことをふまえるならば現実的な対応を優先させるほかに手だてがあるとは思えないのである。

 そんな流れにあって、財源論が集団走りしている。どういう仕掛けなのかおよそ見当がつくではないか。

 ・現状は報道が人びとの期待を掘りおこしさらに拡大し、時に水をかけている面もあり、こういった現象はプロセスが未定の場合に起こる現象であって、良い悪いはべつにして、政党間協議とは異なる方向に報道がながれているるかもしれない。ともかく時間の経過とともにおちつくものと思われる。

 ・ところで、国会の過半数は現時点では概算要求などを是認しているわけではない。ということは自公多数時代の事前審査の効用はゼロにちかいということであるから、省庁にとっては強烈なカウンターパンチとなっているのかもしれない。あくまで、予算案賛成の条件交渉というか、そういう前提での協議であることを明確にしないと、一般的な(反対を前提とした)与野党協議と混同してしまうのではないかと思う。

 ・ところで、今回の選挙の結果が「新政局」をもたらせたと受けとめるのであれば、政策立案における国会対策はゼロから再構築しなければならないであろう。

 「新政局」は有権者の要請なのか。だとしたら、それに対する守旧勢力とは誰なのか。なども明らかにするひつようがあるであろう。ともかく、財源はどうするのかといった早めの決めゼリフをていねいに分析していけば評論家やマスメディアのリアルな魂胆が透けて見えるであろう。

 ・筆者としては「玉木要求の危険なほどの切れ味が際立つ」と記したように、国民民主にとっても危険な切れ味であると考えている。103万円の壁とかトリガー条項のことではない。少数与党に対し、予算案の賛否を取引カードにしたことの危険性をいっているのである。ガラス細工の石破政権への強烈なストレートパンチの反作用も強烈であるから修羅場となることはまちがいないであろう。国民民主も討ち死に覚悟なのであろうか。「新政局」には覚悟と団結がひつようと思われる。

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時事寸評「総選挙の先-安定か、波乱か、騒擾か」

◇ 今年は世界的にみて国政選挙が多いと年初からいわれていたが、いよいよわが国もその仲間入りをはたしたといえる。しかし、今日時点での選挙の見通しをいえば視界ゼロメートルである。まあ、ゼロといっても28日未明には全議席が確定するのであるが、ただ議席が確定してもその内容によっては波乱というか騒擾というか、じつにゆゆしき事態にいたる可能性がありうるわけで、それは自公あわせて233議席にとどかない場合のことであり、さらに自民党として200議席を割るケースのことである。

 前回(10月3日)の弊欄ではその場合には「連立くみかえ必至」と予想した。で、ここまでは一般的な総論の範囲であって、誰もがそう予想していることから、常識的といえる。

 さて問題は、党名・グループ名・人名をあてはめた各論であり、理念や政策をきな粉のようにまぶした人間関係であるから、その細部は筆者には分からないのである。おそらく27日の午後8時テレビ報道のヘッドラインが「どのように各論と人間関係に火がつくのか」を知らせてくれるであろう。

 もちろん投票傾向は出口調査で明らかになるので、メディアとして出口調査から異変を感じとれば報道のトーンがシグナルとなるであろう。つまり、泰山鳴動し地滑りがおこるのか、それともネズミの退避でおさまるのか、おおむね見当がつくと思われる。おそらくこの時点から永田町での工作がはじまると思っている。安定か、波乱か、騒擾か、有権者の投票行動がもたらす歴史的な事態、すなわち政局の動向については正体不明の不安がただよっているのである。その原因は人びとの不機嫌さにある。なんとなく不機嫌というか、ここはひとつ夕立でも来ればいいのにといった波乱をまつ大衆心理である。そういった気分というか気配がたかまれば思いがけない事態が生じるであろう。

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時事寸評、「いつまでもつか、石破VS野田時代 まずは総選挙」

 [ 10月1日石破政権がスタートした。さっそく内閣支持率が報道されているが、ほぼ50%程度で低めのスタートといえよう。日ごろから保守系政党には辛口でならしているA新聞もやや右寄りのB新聞も、石破氏の安全保障政策に対して所信表明の前にもかかわらず、きびしい批判をあびせている。とくに、「アジア版NATO(北大西洋条約機構)の創設」が石破氏の持論であり、また総裁に決する直前にハドソン研究所に寄稿されたことなどをふまえた、おそらく警告の意味をこめた批判だと思われる。もちろん、批判は妥当といえる。

 しかし、筆者からいえば取りあげることすら過剰反応なのであって、実現性ゼロのアイデアというのは昔でいえば座敷芸つまり余興の類なのであるから目くじらを立てることもないのである。ただ、そういった芸が身を亡ぼすこともあったので、政権としてめざすものをはやく提示したほうが上策であろう。という意味で4日の所信表明や15日からの選挙公約に注目したい。

 ところで、アジア版NATOの問題よりも、「成長失速から衰退にむかう中国」が引きおこす不都合な事象への予防的対処のほうがアジア各国にとってはよほど重要であるから、極端にいえば王朝終末期のリスク管理に各国とも関心が移りつつあるのではないか。

 さて、政権がスタートしたとはいっても形式だけであって、3年前の岸田政権の時と同じように総選挙で信任されなければ政権は本格化しないである。さらに、どの程度の信認であるのかによって、石破政権のその後が占えるのであるから、注文づけはそれからでも遅くはないといえる。

 現段階で予想できることは8割以上の確率で岸田政権の継承者として、いい意味で後始末役に徹すると思われる。ただし、単独過半数をこえて250議席台にたっすれば、石破カラーが可能になるだろうが、その方が波紋をよぶからと危険視する人がいるかもしれない。

 総理大臣にふさわしい政治家ランキングではつねに高い人気をたもっていたわりにはご祝儀相場が少なかった理由は、人びとの政治にたいする口が肥えてきたからで、悲観することも楽観することもない中立的な反応であったと思う。ともかく、総選挙の結果待ちであり、米国大統領選挙の結果もふくめ11月は大忙しであろう。]

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