遅牛早牛

時事寸評「新政局となるのか、ガラス細工の石破政権の生き残る道」

まえがき

 ・国民民主党の、とくに玉木代表の周辺がいろいろとかまびすしい。醜聞もあるが、とりわけ103万円の壁問題が脚光をあびている。くわえて、106万円あるいは130万円の壁までが取りあげられて、土俵が拡大しているようだ。「○○の壁」というキャッティーな用語だけではない注目性があるのかもしれない。ということで自公国の協議の方向性が定まるまでは、まだまだ争論状態が続きそうである。

 ・今日的には「103万円の壁」は象徴としてあつかわれている。さまざまな年収の壁(超過することによって制度の適用が変化し手取り減と認識される額)を代表し、103万円にかぎらず広範な議論のハッシュタグとなっている。もともとは「手取り増」であるから給与明細書の「引き去り(控除)欄」の減額、とくに公租公課(所得税、地方税、社会保険料)の減額が中心課題であろう。

 この課題は1970年頃から主婦のパートタイマーを中心に指摘されていた。現在においても所得税や地方税の課税基準として、また扶養控除の基準としても用いられている。そのことが主たる家計者の扶養控除(38万円)や特定扶養控除(63万円)、あるいは給与の扶養手当などにもかかわってくるところが不利益感を増長しているといえる。

 ・また、公的年金制度や健康保険制度の加入資格とも関係する制度上の難題として当時から認識されていた。今日でも、たとえば130万円超となると国民年金の3号被保険者の適用外となり、1号あるいは2号被保険者として加入し、保険料を支払うことになる。(1号の場合、月額16980円なので年額はおよそ20万3千円で結構な負担増となる。ちなみに3号は負担ゼロである)

 また、企業等の従業員が加入している健康保険(健保組合)でも、130万円超となると扶養家族認定を外されるので、就業先の健保に加入するか、それがなければ国民健康保険に加入することになる。(筆者の居住地では年収130万円の保険料は月額9825円で年額は11万7千円である)

 いずれにせよ保険料の支払いが発生するので、11月12月のパートタイマーによる出勤調整が勤務体制に負担をあたえていた点も不評であった。

 ・もともと、世帯による扶養関係をベースにした税制や社会保障制度に個人単位の所得の扱いを接合させるという多少無理のある制度設計からもたらされる問題であり、既存制度をそのままにして解決策を見いだすには困難があるということで、問題意識はあるものの小幅な対処策にとどまっているといえる。

 あらためて、問題の全体像を俯瞰すれば、手取り増の方法論としてとらえることは当然であるとしても、家計所得分布で中位数以下の世帯の生活をどのように描き、現実的にいかに支えるかという目的下において「国民負担」を全体としてどのように設定するのかという視点でいえば、単身家計と世帯家計のバランスはひつようである。さらに、最低賃金の伸びをどの程度勘案するのかも、最低賃金1500円時代を展望すればあらためて、労働再生産費用への課税についの合意を得るひつようがある。こういった領域での社会対話を長年にわたり為政者が拒んできたと認識している筆者と、そういった政治に支配されてきた各税調あるいは省庁との考え方の溝は大きいように思われる。

 という大いに政治性の高い意識で考えれば、現在おこなわれている「103万円の壁」についての議論には、政策・制度としての内容にかかわる課題と、有権者が直面している生活上の苦難に政治としてどのように向き合うのかという政治プロセスの課題があると思われる。

 二つの課題はいずれも難問である上に、政策・制度としての難しさが政治プロセスの黎明的進展を阻害するフィードバックとなる危険性もあり、報道にも注意深さがひつようであろう。

 ・たとえば、社会保障と税の関係は給付と負担の本質的関係であり、個々人の利害得失を包含した巨大な複雑系システムであるから、簡単に抜本改革といっても正直な話、検討段階での着手でさえ躊躇せざるをえないであろう。何がいいたいかといえば、課税最低限(基礎控除+所得控除)の引き上げという簡単な要求であったとしても、派生する課題は山のようにでてくるのであるからていねいな対応が必須であろう。

 ・派生する課題の中には、それぞれの制度を直撃しかねない抜本的構造的課題もあると思われる。また、当然減税であるのだから、国税と地方税の分担も大きな課題であり、これについては地方税の減収について早々と警鐘が鳴らされるのも、ややフライング気味とは思うが、宜(むべ)なるかなと思われる。

 ・くわえて、理論的に合理性の高い新制度が設計できたとしても既存制度との切りかえや接続問題が残ることになり、その解決に膨大な資源を消費することも頭の痛いことであろう。ということで、正直いって迷宮のような世界であるから、ともかく議論をすればよいという対応に終始するのであるなら、議論が議論をよび出口を見失うことになるであろう。関係者の知恵に期待するものの、短時間でこなせる議論だけではないと思われる。

 ・そこで、今回の議論の政治的意味合いを考えるならば、有権者が直面する具体的課題への政党あるいは政治家の応答性が問われている点が焦点であり、とくに各税調など専門性にあぐらをかき生活者の切実な要望を俎上にあげてこなかった雲の上の政治に対する抗議以上の実力行使ととらえるべきではなかろうか、と筆者は受けとめている。

 とりわけ実力行使というのは、声をあげるだけの段階から投票行動という民主政治においてはスペードのエースともいえるカードを切っているわけで、またその投票行動の結果が現実に与党を震撼させ、全テレビ局が連日とりあげているという従来にない大きな反響を生んでいるわけであるから、そういった反応に投票者たちが逆に驚きつつさらに自信を強めつつあるという、新たな民主政治の新舞台が創出されつつあるのではないか、という意味で要求から実力行使のステージに移ったと受けとめているのである。

 ・これは、与党の過半数割れを契機に人びとが政治をみずからの生活の場にとりもどす奪回闘争であるとも位置づけられるもので(こういった表現は筆者の嗜好であって壮大な背景思想があっての表現ではない)、この本質的な変化に対して与党は刮目して真摯に向かうべきである。したがって、国民民主への回答というだけではなく、自民党と公明党が先々も政権に携わることの資格審査としての能力証明であると位置づけ、有権者宛に回答するのが政治的には正しいのではないか。

 ・ということで、本文中では「大盤回答」という言葉を使用したが、「満額回答」でも「丸呑み回答」でもない、「これからは働く人びとを中心に政策も予算も考えていきます」という姿勢がにじみでていなければ、与党のじり貧に歯止めをかけることができないであろう。要するに新しい支持層を獲得しなければ自公に明日はないといえるのである。いささか強引な印象を与えていると思うが、パラダイムシフトの予兆は静かであって、見逃すことが多い。また、失われた筋肉は再生しない。自公が過半数勢力に復帰するには従前の生息地にこだわらずに新領域を獲得しなければならない。そのためには雇用労働者からの信頼が第一であるから、そういうことを前提にするならば今回の対応が重要なのである。

 最終受取人を念頭におき、この回答に高度な戦略性すなわち戦略的互恵関係を内包させれば天与の機会となるであろう。くどいようではあるが、与えることは取ることなのである。ということで「大盤回答」がひつようなのである。

 ・また、すべては国民の懐に残るもので、国外に流出するものではない。おそらく年末にかけて落ちこみゆく実質賃金の回復はむつかしいだろうから、また円安の加速から物価上昇の鎮静化ができなければ景気後退局面を迎えることになり、いずれにせよ財政出動が必要になると思われる。渡りに船とはいわないが、裕福でない国民への生活支援は緊急を要するということなので、できるだけ大きく早く実効の上がる施策をまとめるのが上策であるという判断で、協議をすすめればいいのではないか。

 ・総選挙前の8月の概算要求をまとめた立場にすれば、「103万円の壁」とかいって何兆円かかるか見当がつかない新規もの(国民民主の要求)が顔出しするのはまことに迷惑しごくであるとは思うが、選挙の結果として政権基盤が不安定化したことをふまえるならば現実的な対応を優先させるほかに手だてがあるとは思えないのである。

 そんな流れにあって、財源論が集団走りしている。どういう仕掛けなのかおよそ見当がつくではないか。

 ・現状は報道が人びとの期待を掘りおこしさらに拡大し、時に水をかけている面もあり、こういった現象はプロセスが未定の場合に起こる現象であって、良い悪いはべつにして、政党間協議とは異なる方向に報道がながれているるかもしれない。ともかく時間の経過とともにおちつくものと思われる。

 ・ところで、国会の過半数は現時点では概算要求などを是認しているわけではない。ということは自公多数時代の事前審査の効用はゼロにちかいということであるから、省庁にとっては強烈なカウンターパンチとなっているのかもしれない。あくまで、予算案賛成の条件交渉というか、そういう前提での協議であることを明確にしないと、一般的な(反対を前提とした)与野党協議と混同してしまうのではないかと思う。

 ・ところで、今回の選挙の結果が「新政局」をもたらせたと受けとめるのであれば、政策立案における国会対策はゼロから再構築しなければならないであろう。

 「新政局」は有権者の要請なのか。だとしたら、それに対する守旧勢力とは誰なのか。なども明らかにするひつようがあるであろう。ともかく、財源はどうするのかといった早めの決めゼリフをていねいに分析していけば評論家やマスメディアのリアルな魂胆が透けて見えるであろう。

 ・筆者としては「玉木要求の危険なほどの切れ味が際立つ」と記したように、国民民主にとっても危険な切れ味であると考えている。103万円の壁とかトリガー条項のことではない。少数与党に対し、予算案の賛否を取引カードにしたことの危険性をいっているのである。ガラス細工の石破政権への強烈なストレートパンチの反作用も強烈であるから修羅場となることはまちがいないであろう。国民民主も討ち死に覚悟なのであろうか。「新政局」には覚悟と団結がひつようと思われる。

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時事寸評「総選挙の先-安定か、波乱か、騒擾か」

◇ 今年は世界的にみて国政選挙が多いと年初からいわれていたが、いよいよわが国もその仲間入りをはたしたといえる。しかし、今日時点での選挙の見通しをいえば視界ゼロメートルである。まあ、ゼロといっても28日未明には全議席が確定するのであるが、ただ議席が確定してもその内容によっては波乱というか騒擾というか、じつにゆゆしき事態にいたる可能性がありうるわけで、それは自公あわせて233議席にとどかない場合のことであり、さらに自民党として200議席を割るケースのことである。

 前回(10月3日)の弊欄ではその場合には「連立くみかえ必至」と予想した。で、ここまでは一般的な総論の範囲であって、誰もがそう予想していることから、常識的といえる。

 さて問題は、党名・グループ名・人名をあてはめた各論であり、理念や政策をきな粉のようにまぶした人間関係であるから、その細部は筆者には分からないのである。おそらく27日の午後8時テレビ報道のヘッドラインが「どのように各論と人間関係に火がつくのか」を知らせてくれるであろう。

 もちろん投票傾向は出口調査で明らかになるので、メディアとして出口調査から異変を感じとれば報道のトーンがシグナルとなるであろう。つまり、泰山鳴動し地滑りがおこるのか、それともネズミの退避でおさまるのか、おおむね見当がつくと思われる。おそらくこの時点から永田町での工作がはじまると思っている。安定か、波乱か、騒擾か、有権者の投票行動がもたらす歴史的な事態、すなわち政局の動向については正体不明の不安がただよっているのである。その原因は人びとの不機嫌さにある。なんとなく不機嫌というか、ここはひとつ夕立でも来ればいいのにといった波乱をまつ大衆心理である。そういった気分というか気配がたかまれば思いがけない事態が生じるであろう。

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時事寸評、「いつまでもつか、石破VS野田時代 まずは総選挙」

 [ 10月1日石破政権がスタートした。さっそく内閣支持率が報道されているが、ほぼ50%程度で低めのスタートといえよう。日ごろから保守系政党には辛口でならしているA新聞もやや右寄りのB新聞も、石破氏の安全保障政策に対して所信表明の前にもかかわらず、きびしい批判をあびせている。とくに、「アジア版NATO(北大西洋条約機構)の創設」が石破氏の持論であり、また総裁に決する直前にハドソン研究所に寄稿されたことなどをふまえた、おそらく警告の意味をこめた批判だと思われる。もちろん、批判は妥当といえる。

 しかし、筆者からいえば取りあげることすら過剰反応なのであって、実現性ゼロのアイデアというのは昔でいえば座敷芸つまり余興の類なのであるから目くじらを立てることもないのである。ただ、そういった芸が身を亡ぼすこともあったので、政権としてめざすものをはやく提示したほうが上策であろう。という意味で4日の所信表明や15日からの選挙公約に注目したい。

 ところで、アジア版NATOの問題よりも、「成長失速から衰退にむかう中国」が引きおこす不都合な事象への予防的対処のほうがアジア各国にとってはよほど重要であるから、極端にいえば王朝終末期のリスク管理に各国とも関心が移りつつあるのではないか。

 さて、政権がスタートしたとはいっても形式だけであって、3年前の岸田政権の時と同じように総選挙で信任されなければ政権は本格化しないである。さらに、どの程度の信認であるのかによって、石破政権のその後が占えるのであるから、注文づけはそれからでも遅くはないといえる。

 現段階で予想できることは8割以上の確率で岸田政権の継承者として、いい意味で後始末役に徹すると思われる。ただし、単独過半数をこえて250議席台にたっすれば、石破カラーが可能になるだろうが、その方が波紋をよぶからと危険視する人がいるかもしれない。

 総理大臣にふさわしい政治家ランキングではつねに高い人気をたもっていたわりにはご祝儀相場が少なかった理由は、人びとの政治にたいする口が肥えてきたからで、悲観することも楽観することもない中立的な反応であったと思う。ともかく、総選挙の結果待ちであり、米国大統領選挙の結果もふくめ11月は大忙しであろう。]

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時事寸評「大詰めをむかえる自民党総裁選は誰のものか?」

[「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる(藤原敏行)」とかいってみても、秋分を前に猛暑日の話をしていたのだから、風情も何もあったものではない。とグチっていたのであるが、今日は23日天気予報では秋の気配、服装に注意ということで、ようやく季節を楽しめそうになった。

 しかし過ぎ去ったとはいえ猛暑の中で、立憲民主党の代表選やら自民党の総裁選では、13人の立候補者が文字通り汗を流していたのである。こういった場合はねぎらいの言葉のひとつもかけたいと思うのが人情であろう。しかし、「お暑いのにご苦労さん」なのは市井の人びとの方であって、与野党といった線引きにかかわらず政治家は異界の住民であるから、たまにそうでない人がいるにしても、見かけの大汗に同情することなんかないと思う。

 市井の人びとにとって政治家に同情することは百害のはじまりであるから、けっして騙されてはいけないのである。と今回も妄想全開である。

 この9月は、代表選と総裁選のダブル興行ですこし盛りあがったはずなのであるが、いよいよの収穫期をむかえてとても出来高が気になるところである。

 来月になれば組閣に総選挙と政治イベントが目白押しで、米大統領選もせまるしなにかと落ち着かなくなるであろう。

 それにしても、日銀はいつの間に株価支え人になったのか。気を配ることはひつようであっても、過ぎると怯懦(きょだ)と評されるであろう。下手すりゃ金利の正常化が永遠の課題になるかもしれない。株価暴落が怖いのか、それとも政府が怖いのか。いずれ株価は戻るのに、いつまでも膾を吹くなよ、といいたい。]

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時事寸評「天の配剤なのか四人衆、もう昔のことはいうまい-立憲民主党の代表選-」

◇ ざっくり言って、二人に一人は「自民党は政権から外れればいい」と思っている。しかし、そう思っている人たちがこぞって「立憲民主党の政権をのぞんでいる」ということでもなさそうで、もちろんそう思っている人もいるのであるが、それは全体でいえば10パーセントぐらいで、(少なくはないが)決して多いとはいえないのである。

 というのが立憲民主党の評価としての時価であって、あいかわらずこの党の客の入りは悪いといえる。といった状況がこの国の民主政治を展望するうえでの確とした障壁になっているといわざるをえないのである。これがいわゆる「野党がだらしないから」説であり、そういいながらも野党を応援したりテコ入れすることはないという現実こそが、確とした障壁のひとつなのである。

 「ふつう」といっていいと思うのだが、挑戦者である野党第一党には独特の緊張感がただよっているもので、とくに与党に醜聞が発生した今回のような場合には、ビリッビリッと空気を震わししぜんに腰が浮くような昂ぶりが生まれるものである。

 で、どうであろうか、ビリッビリッとしているのか。まあ感じ方であるから意見が分かれるのは仕方がないが、全議員が轡(くつわ)をならべての出陣態勢にはないように感じられるのである。勇躍として総選挙にむかうという風でもなく、どちらかといえば心中に臆するものがあるようにも見える。どうしてそうなのか、都知事選の失敗を引きずっているためなのか、ともかく分からない暗がりがあるように思えるのである。

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時事雑考、「2024年8月の政局-岸田氏不出馬で波乱よぶ総裁選-」

1.岸田氏、総裁選不出馬で条件が大きく変化

「岸田氏、総裁選不出馬!」8月14日11時30分のことであった。前回の弊欄では「総裁選の前月である8月段階で強力な挑戦者が見えてこないということは岸田氏の時間切れ続投が第一シナリオになりつつある、、。」と、また「岸田氏の続投では打つ手がかぎられると思われる。そのうえ、負ければ全責任を押しつけられ引責辞任となるのだから、、。正直なところおすすめできない、、。」と記した。

 選挙の予想は評論の対象ではないが、それがないと面白くないのである。今回は、筆者をふくめ多くの人が外したわけで、まあ意表を衝かれたということである。

 岸田氏続投には盟友も友党もまた側近も表だって反対はしなかったが、なにかしら気分がのらなかったということで、空気がわるかったといえる。というのも、どう考えても総選挙の勝パターンがでてこないのだから、岸田氏続投には意味も価値もないということで、ぎりぎりのタイミングでの不出馬表明になったということであろう。

 正直なところ思考の連続性に支離滅裂感がないわけではないが、最高権力を手放すという決断であるから、結論としてはそれでいいのではないかと思う。

 ということで、さてこれからどうなるのかと思いをめぐらせながらも、正直なところ困った感がひろがっているのである。いいたくないけど、メディアで騒がれただけの、すこしも準備ができていない人が総理総裁になるようではこの国の行く末が思いやられる。

 とはいっても、自民党の総裁選挙は世論の圧力をうけながらも、決めるのは自民党であるから、さいごは党内事情で決まると予想すべきであろう。弊欄ではいく度となく紹介してきた「一選、二金、三党、四理、五政(いちせんにきんさんとうしりごせい)」が、全員とはいわないが過半の国会議員の内心ではなかろうかという筆者の仮説を再掲するまでもなく、総裁選における議員行動のさいごの決め手は「本人(じぶん)の再選」への利用価値であると推察しているのである。これは内心の問題であって、けっして非難しているのではない、実相を指摘しているだけであって、もちろん良い悪いでもなく普通選挙をベースにした民主政治がもつ本質的な「現象(あらわれ)」であるというのが筆者の考えである。

 たとえば妄想的ではあるが、何らかの方法で4回目の当選を確定された議員の3期目の仕事ぶりは刮目すべきものになると思われる。そうでないケースが生じるかもしれないが、それはコストであって、選挙から解放された議員が当初の志を思いおこし、今一度挑戦してみようと奮いたつ環境を用意することが、現状の有権者のもやもやした気持ちを解消できる理想的な状況をうみだすのではないかと長らく考えてきたのであるが、実現性はきわめて低いといえる。

 であるのになお強引に記しているのは、現在政治改革にかかわる多くの批判や提言が政治家(多くは国会議員であるが)の能力や意欲など属人的要素に集中しすぎていると懸念しているからで、そもそも環境が変わらないのに行動が変わるはずがないというのが筆者の人間観である。

 ということで、人びとが期待している役割を政治家が直にうけとめ実践しその成果をあげるためには、有権者が積極的にそのための環境整備をはかっていくべきではないか、むしろそのように努力すべきではないかという提言である。スーパーマンではない政治家に、スーパーマンであれと求めるのは酷なことであるし、同時にムダであるといえる。

 そもそも民主政治における選ばれる側と選ぶ側との役割分担のあり方については、選ばれる側には百の注文があるのに選ぶ側には棄権するなのひと言というのはあまりにもバランスが悪いではないか。政治家に期待するのは善意のエネルギーであるが、荒野を100メートル10秒以下で走れといわれてもほとんど無理であって、そういう無理な期待をしてみても意味がないから、むしろ期待する前に整地でもしたらどうですかということである。

 表むきはともかく、新総裁新総理によって年内の解散総選挙をのりきり自公連立政権を維持していくというのが自民党議員の一等の本音ではないか。党内改革とか政治改革はそのための方便であって、「ぶっこわす」とまでいっておきながら、自民党は変わらなかったことをふと思いだし、次のレトリックはなにかしらというのが世間のうけとめであろう。

 だからあえていえば、新総裁が「選挙の顔」になるにしても、「選挙の顔」で選ぶというのはまるっきりの間違いではないが、操り人形風で有権者をバカにしていると思う。党員ではない有権者の多くは政治と金、とりわけ裏金についてはどういう始末をつけたのかと疑問に思っているだろうし、岸田氏の総裁選不出馬で一件落着とは考えていないので、世間の関心はそこに集中すると思われる。

 という有権者の視点を大切にするのであれば、まずは今回の総裁選の性格をしっかりと定義しておかないと、号砲一発の自由競争ではしまりのないお祭り選挙に堕し、生徒会長選挙をめぐる学園ドラマ風になるのではないかと思われる。すでにバラエティ番組や報道番組ではそういったストーリを予見させる動きがみられるが、「政治不信」を再定着させるような興味本位の報道はやめるべきである。といっても、視聴率がからむと節操がなくなるから、「おもろうてやがて白ける総裁選」ということになるであろう。

 党内のことではあるが、この総裁選が重要であることはまちがいない。がそれ以上に深刻な側面がある。深刻というのは今回が納得できなければ「仕方がない、つぎを待とう」ということにはならない、自民党にとって次はないということである。つまり、有権者としてはリスクがあっても本格的な政権交代にとりくまなければこの国は危ないとマジで思っているのである。

 なんといっても天下の宰相えらびである。しかし、それにしては深沈さというか重みが足りないと思う。ひらかれた総裁選が最適解をうみだせるかどうかはやってみなければ分からないわけで、老舗政党である自民党として本当に再生をかけたものになるのか、たしかに興味深くはある。

 そこで筆者としては「政治不信」の現状には有権者の側にも多くの課題があると考えている。つまり、時として真摯にみまもるべきと思う。ということで、とりあえずといえば失礼とは思うが、あえてとりあえず100点は無理としても方便としてせめて60点ぐらいは期待したいものである。

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時事雑考「2024年8月の政局-同盟の底にある困難-」

1.米大統領選は新たなステージへ、(まるで口論プロレス)

 暑熱の日々、ニュース番組はパリオリンピックでの日本選手の活躍でもりあがっているが、いささか食傷気味である。ところで、米国の大統領選挙はバイデン氏撤退のあと、トランプ(前大統領)対ハリス(副大統領)の大激戦が予想される中、あらたなステージに移ろうとしている。トランプ氏優勢であることには変わりがないものの、老老対決から老壮対決へと選挙戦のモードが変わることの影響もあり、ふりだしとはいえないが、未知の部分がでてきそうである。大統領選にあわせて上院の三分の一と下院の選挙も同時におこなわれることから、シビアな感じがヒリヒリと伝わってくる。この三つの選挙すべてを共和党が制すれば、ほぼトランプ独裁となり選挙期間中の氏の発言が現実化する。そういう意味ではリベラル派にとっては上・下院選挙のほうが気になるのかもしれない。将来においてどんな文脈で語られるかは今のところ不明であるが、おそらく歴史にのこる選挙戦になることだけは確かである。

 もとより、日米の選挙制度には大きなちがいがあるので、いまさら比較してもと思うが、盛りあがりという点では米大統領選にはなんともいえない迫力がある。

 まあ、(くどいようだが)単純に比較してもしょうがないことではあるが、あの悪口三昧にたえられますかといったことではではなく、言ったもの勝ちの、筆者の体験でいえば小学校までしか許されていなかった口論プロレスの世界が地球上唯一の超大国の内側でくりひろげられているのである。

 さらに、知性ではなく反射神経、運動神経が支配するリングのない格闘技の世界とも写るのである。それをディベートというのであろうか。であれば、わが国の中学高校大学ではひたすらディベートを避け、あるいは抑制してきたのでなじめないということであろう。今でもディベートよりも忖度の世界である。

 「トランプVSハリス」の舞台において忖度が機能する余地はまったくないわけだから、迫力にちがいがでるのは当然であろう。 

 ということで、忖度の訓練にあけくれてきたわが国のサラリーマンとしては、筆者もふくめ「お前はクビだ!」と指さされると、ちょっと腰が浮いてくるような居心地の悪さをおぼえる。日本のサラリーマンの多くは罵倒しあうシーンには不慣れであるから(一方的に罵倒されるシーンは時々あるが)戸惑うところもあると思われる。そういうシーンについていけない時には気持ちを観客席におき、しばし鑑賞するというのはどうかしら、アメリカ式がすべてではないのだから。

 ところで、報道機関はじめさまざまな組織によるファクトチェックも活発におこなわれていると聞くが、その成果が日本にまで届いているのか。それをあきらかにするほどの時間の余裕はないから、結局つきあってはいられないということである。

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時事雑考「2024年7月の政局-都知事選は何だったのか」

【何やかやと、諸事にかまけているうちに都知事選後10日以上が経過した。今さらの都知事選ですかと言われそう。くわえて、都知事選でさえもローカルなのである。というのも、その時期を実家(四国)で過ごしていたので、もともとローカル色の濃い地方ではあったが、なぜか都知事選もローカルなことで、小池氏3選のひと言であった。それよりも梅雨の合間の暑さがひどく、草刈りを中断せざるをえなかった。何のための帰省だったのかと悔いばかりがのこっている。

 ところで、MLBの大谷翔平選手の活躍がとまらない。それはいいのだが報道過剰だぜ、といっているうちにトランプ前大統領が狙撃された。右耳の包帯が痛々しい。そのこともあってか米国共和党が盛りあがっている。もしトラがほぼトラにさらにまじトラになったそうで、各国とも慌てているようであるが、民主党の対応が注目されている。どうするバイデンさん。

 一般論ではあるが、後期高齢者という失礼きわまりない呼称にはやはり意味があるのである。生活のスローダウンからは逃れられない。とくに言い間違えが日常化するのは政治家としてはリスク要因であろう。一寸先は闇であるのは米国もおなじことで、先のことは分からない、がとても気になる。

 ところで、まだまだネット空間でのやりとりがつづいているようである。もう都知事選はおわったのに。このコラムは労働運動の継承を目的にしているので、その視点で都知事選について書きつづってみた。そういえば連合結成以来、都道府県知事をはじめ首長選挙での地方連合会の対応は無所属であれば現職支持のケースが多かったように思う。要請事項への対応などを評価すると自然とそうなるのかもしれない。連合から支持されていると思っている政党にしてみれば合点がいかないということであろう。その気持ちは分からないわけではないが、もともと国政とは違うから、より現実的な対応になったということであろうか。】

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時事雑考「2024年6月の政局-国会閉幕、総裁選と代表選へ、どちらも波乱?」

【2024年の通常国会が閉じた。議論の多くは政治資金規正法の改正を中心にした「政治と金」に集中した。どんな国会であっても意義があるもので、とくに予算・決算は国の運営にとって必要不可欠のものであるから年中行事化しているとはいえ真剣な議論でなければならない。それが、今や膨張予算となっている。といっても、国立大学などは通常経費の不足を理由にいよいよ値上げにふみきるようである。折からの物価上昇のなかにあって、家庭の教育費負担がさらに重くなりそうである。

 膨張予算。悪いことだけではない。高血圧と同じで、金のめぐりがよくなる。倒産、閉店が先送りされる。反面、財政が不健全になり、国は破綻しないがインフレがひどくなり、弱い者から受難する。つまり、生活破綻が増える。

 幸せをもたらす青い鳥はいない。政治に過大な期待は禁物であるが、政治家も政党もそうはいわない。米国では青と赤が競わずに争っている。あと4か月あまりで決着がつく。時間の問題ではあるが、歳の問題もある。

 鬼に笑われてもいい、2025年は衝撃の年になると予想している。過去の延長としての未来予測は既決的で陳腐である。創造にもとづく未来予測は不確実であるが教訓となる。で、鬼より先に、人に笑われそう。

 さて、猛暑にむけて岸田おろしと泉おろしの競演になるのか。前者は釜の焦げ飯を洗いながすがごとく、後者は炊きあがる飯にむらがるがごとく、争いあう姿も審査対象であろう。なんたってこの国は美を尊ぶ国であるから、涼やかに願いたいものである。】

1.なんとか乗りきった国会だが、総裁選に向けてネガティブイメージが暴走するのか

 9月には総裁選挙があるというのに、党内であからさまに岸田おろしに走るのはみっともないことである。とりわけ「何が問題なのか」を明らかにせず雰囲気だけで危機的と煽ることは幼児的な感じをあたえるだけであろう。で、間髪をいれずその反旗のイメージはまたたく間に全国にながされ、「いよいよだな」とか「レイムダック化」といった連想ワードが蔓延しはじめるのである。暴走宰相に対するネガティブイメージの暴走である。

 ところで、派閥解消や政治資金パーティーの限度額の引きさげが「禍根をのこす」との党重鎮の指摘はそのとおりであり、通常の討議プロセスを逸脱していたといえる。事後の根回しでは根回しにはならない。

 筆者でさえ、自民党の伝統的な討議プロセスからは逸脱しているとうけとめていた。とはいっても、今国会で自民党提出の政治資金規正法の改正(修正)案の成立をはかることこそが、事後の政局に決定的な影響を与えるキーストーンであるとの認識は一部の議員をのぞき、共有化されていたと思っている。つまり、党の緊急事態である。

 まさに死地といっても大げさでない状況にあって、他に方策があるのか、また間にあうのかといった視点で考えれば、それなりの対応であったと評価している。ここで評価してしまうと白い目でみられそうであるが、長年政界を観察してきた経験からいって、衆人がこぞってボロカスにいう場合にかぎって、後日評価が反転することがある。

 もちろん最善策とはいえない。しかし、そういった批判は「たら、れば」の世界であっていつも完全試合を求めるようなものである。だから、「それはそれで勝手に」というのが筆者の感想である。というのも、野党第一党である立憲民主党がきわめて高いボールを投げつづけ、議員立法なのにまとめる気がないというのは、むしろこのまま総選挙にもちこみたいという思惑が強かったからではないかと疑っている。

 だから「禁止、禁止、禁止」でとりつく島がないのに、党首会談がなかったとごねるのはご愛嬌のいきすぎであって、無理筋であろう。今では政権交代を真剣に考える人が増えているというのに、とっておきの見せ場では野党根性まるだしではないか。これにはがっかりしたという感想も多かった。

 期待された久しぶりの党首討論も面白くはあったが、最後に政党交付金を増やせばいいというのでは、納得感に欠けるといわざるをえない。まあ討論の勢いででた発言なので、ここでつっこむこともないとは思うが、早めに補足したほうがいいのではないか、と思っている。

 立憲も汗をかいてギリギリの内容をまとめあげれば、政権政党に近づけたのにと思っている。つまり惜しいことをしたものだと愚痴っているだけのことなので気にすることもなかろう。

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時事雑考「2024年6月の政局-自公維の賛成スクラムが呼びよせるものは」

1.珍しいドタバタ劇  政治資金規正法改正案、再々修正へ

 政治資金規正法の改正なくして、政治資金パーティー還流金の不記載(裏金)事件に端を発した政治改革の出口はない、というのが筆者の基本ラインであった。逆にいえば、適切な改正をおこなえば事態は収拾するということであり、適切なのかどうかは立場によって変わるものであるが、国会での議決において余裕のある多数派を形成することが当面の決着となるのであるから、自民党としては公明党はもちろん中道に位置する日本維新の会の賛同をえることが最重要かつ優先度の高いものであったということであろう。

 さて、どの程度の改正におさめるべきなのかについては、与党内の軋轢、野党間の駆けひき、世論の圧力などが複雑にからみあっているので、まさに湧水で鯉の切り身を洗うようなキリキリとした運びであったと思われる。

 そんな中、5月31日自民党から岸田氏の意向を反映した再修正案がしめされた。その主な内容は、パーティー券購入者名の公開基準額を27年1月から「5万円超」に引きさげる、また政策活動費の支出状況が分かるよう10年後に領収書を公開するというもので、岸田総理が公明党の山口代表、日本維新の会の馬場代表と個別に会談し、それぞれの要求を受けいれ合意に達したという。

 その結果、今国会で同法の改正案が成立する運びとなった。ようやく迷路から脱けでることができるという意味で、政権としては一安心と思われたが、ツッコミどころが多くのこされており、たとえば27年1月からという開始時期には遅すぎるという非難が噴出すると予想される。

 また、政策活動費の「領収書10年後公開」についても期間短縮の要求がでてくるであろう。一定期間後に公開できるということであれば7年、5年と短縮しても事務作業としては変らないということで、さまざまな議論がおこると思われる。

 そういった議論にくわえ、修正と引きかえに賛成にまわる公明党と日本維新の会にとって、それが党内で「納得できる内容」といえるのかなどと、あれこれ想像するのであるが、両党とも党内での議論が平穏にすすむとは思えない。まあ、参議院本会議で可決されるまではザワザワすると思われる。

 というのは、もうすこし厳しくてもよかったのではないかという相場観もあって、いわゆる「のりしろ」の幅が気にかかるという向きも少なくないのである。いいかえれば、100パーセント丸呑みというほどのものであったのかという疑問もあって、ウエストのゴムがゆるい感じを禁じることはできないのである。ということで、一部でささやかれていた自民党内の不満については徐々に鎮静化していくと思われる。

 と書き終わってから、政策活動費の開示基準を50万円超とする自民再修正案をめぐり維新の反発が急浮上し、6月4日の総理出席予定の委員会、衆本会議の日程が延期された。丸呑みといいながら小さな骨がひっかかった模様である。大小にかかわらず喉に刺されば大事であるからか、再々修正のうえ明日にも本会議で可決される見込みであると報道されている。(6月4日14時記)

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