遅牛早牛

時事雑考「23年秋の政局―解散は困難、賃上げ不足が露呈、物価高で生活苦」(その1)

(酷暑のせいか何をしても骨が折れる。前回の掲載から6週間もたってしまった、あきらかに能率がおちている。今回は「秋解散はない」という趣旨であるから、7月中に掲載できればよかったのであるが、実家の遺品の整理と草刈りに手間どった。炎天下の苦行の影響がまだのこっている。かるい熱中症かな。

 本稿も猛暑のせいで妄想度があがっている。文中で「衰退」を使うことにはやや逡巡したが、多くの数字はそのように語っている。まあ、見たくもない現実であろう。そういえば、自身も見て見ぬふりをしてきたのではと思いあたる節がある。逃げていたのかもしれない。逃げなくても、直視しても、衰退は止まらない。といいきって大丈夫か、何かがあるのではないか、未知なるものが。

 といいながらも、それなりに落ち着いていられたのは、数字にあらわれない豊かさがあると、そんな気がしていたから、またなんとなく自信もあったからで、だから気楽に衰退といえたのかしら。でも今は、直に刺さってくる。

 気候変動を気候擾乱と、かってに危険度をあげてみた。昔、台風の寿命は6、7日と教わったのであるが、台風6号はどうなっているのか、これも擾乱のひとつではないかと思う。

 連合としての賃金交渉は上首尾といえる。しかし、雇用者所得の伸びがどうなるのか、おそらく物価上昇に負けつづけていくのではないか、と心配である。となればひどい消費不振となるだろう。で、異次元の雇用者所得助成策が必要になるであろうから、そのためにもマイナンバー制度は保全されなければならない。ひとり5万円から10万円。10兆円弱のバラマキをやるにちがいない。所得税減税では低所得層にいきわたらないし、消費税率の引き下げは軽減税率の扱いもあり、まとめにくいと思われる。遅くとも年内に実施できれば内閣支持率にはプラスとなるだろう。

 とにかく物価に負けたままで総選挙に突入すれば、与党は100議席以上失うのではないか。物価上昇と台風が連帯しているわけではないが、市井は生活苦に息も絶え絶えということで、岸田政権は空前の危機に直面するであろう。

 北風が吹きはじめるころまでに、社会福祉党に豹変しなければ、内閣支持率10パーセント台もありうる。大げさではあるが、故なきことではない。

 大雑把な表現であるが、DXもGXも子分、親分は社会福祉。それでわが国は再生する。と、腹をくくったら、いつ解散してもしなくても総選挙は大勝利であろう。政治とはそういうものであり、時代は革命をこえる変革を欲している。

本体部分が2万字をこえたので(その1)(その2)に分割した。

 今回数字表記を全角に統一してみた。やはり、間延びしている。さりとて半角だとキリリとして強すぎる。そこで混合にすると使い分けがむつかしい。例によって文中敬称略の場合あり。)

解散には大義と動機がひつようである

 「6月解散7月総選挙」がきえ、今では「秋解散」が大勢のようである。しかし、その可能性は低いと思う。まず動機がみあたらない。さらに、与党の選挙情勢がかんばしくない。来年の自民党総裁選を優位にするためには解散総選挙が必須であるかの論調を聞くことがあったが、必須の意味が分からない。そんなことよりも仕事でしくじらないことがもっとも大事なことであり、この状況において最大のしくじりとは、解散した総選挙で20議席以上減らすことだから、どう考えてもしくじりの泥沼に突入することにはならないだろう。

 さらに、総裁選での有力なライバルと目されていたK氏はマイナンバーカード問題で評判をおとしていると聞く。また、最大派閥のA派も船頭が多いためか迷走中で、まちがっても総裁選候補をまとめあげることにはならないと思われる。ということで、総裁選の見通しは今のところ無風である。

 前にも述べたが、広島G7は拍手こそもらえても有権者にとって食べたい餅ではなかったわけで、これからも総選挙を支えるほどの外交成果がたやすく手にはいることはないだろう。むしろ、竜頭蛇尾でツメあま(詰めが甘い)だから、外交上の難問には取りくんでほしくないという声も巷にはある。まあ、期待はさまざまである。ともかく防衛費比率2パーセントとかを、あっさりと決めてしまったものだから、心配が先にたっているのではないか。

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時事雑考「2023年6月からの政局-風邪ひくな秋の冷えこみ-」

( 「国会会期末間近になり、いろんな動きがある。情勢を見極めたい」というのが13日の岸田総理の記者会見。それが「今国会での解散は考えてない」と15日夜には終息にいたった。わずか3日間のつむじ風に永田町はほんろうされた。それについては各紙やネットニュースが各方面の反応をつたえている〈以上本稿「」部分は朝日新聞から引用〉。

 魔がさしたとは失礼だから、とりあえずは岸田氏の操作癖がでたと受けとめている、筆者のいう暴走である。いきなり13日に総理みずから解散をニタッとほのめかし、15日にはサッと打消した。短期間のことではあったが、総理自身がマッチポンプを演じたといわれても仕方がない。本来なら政治スキャンダルというべきであるが、さあ追求ということにはなっていない。が、岸田氏にとってプラスになることはない、顛末からいってむしろマイナスになるであろう。

 つまり、13日の発言の趣旨あるいは重さからいえば解散を強行すべきであった。もし強行できなければ食言となることは本人もよく分かっていたのではないか。

 論理構成からいって、15日の解散なし発言を正とするなら、13日の発言は不要であったから、軽率のそしりを免れないであろう。否、13日の発言が正であるなら15日前に重大な決断を導く、恐ろしい情報が入ったということではないか、たとえば自公過半数割れとか。しかし、そのような調査内容を部外者が知ることはできない。万に一つそうであるなら、情勢がかわらなければ秋解散も無理ということになる。

 さらに、夏がすぎても物価高に生活が圧迫され、立憲民主党にもそよ風ぐらいは吹くかもしれない。くわえて、日本維新の会を中心とした一部野党選挙協力の展開しだいで、戦況(選況)が大きく変わるであろう。ともかく解散できるのかという事態に陥ることを与党とくに自民党は憂慮すべきである。

 今国会のできばえであるが、政府与党ともに自賛のようである。しかし、自公の小手先政治にはあきあきしているのではないか、というよりも政治家の処理能力に疑問をもちはじめたと、そんな気がする国会であった。いずれにせよパッチワーク型政策の限界がみえてきたことから、先々を心配する有権者も増えていると思われる。このままでは内閣支持率はゆっくりと沈降していくだけであろう。

 ところで、日銀は新総裁になっても超金融緩和をつづけるつもりらしい。たしかに、緩和を中立方向にすこしもどしたからといって物価上昇の2%をこえる部分をそぎ落とせる確証はない。それよりも、せっかくの賃金上昇傾向に水をかけることになっては元も子もない、さらに景気回復の腰を折ってしまえばマイナスだから、だれが総裁であってもここは模様ながめということになるということか。

 しかし、物価高に円安が拍車をかけているとか、国民生活など眼中にないのであろうとか、人びとの不満は高まっている。とくに、勤労者や年金生活者の預金が目減りしていることは確かであるから、いつまでも不公平な金融政策をつづけるのは無理であろう。人びとの日銀への信頼がそこなわれるリスクを政府も心配しなければならない。

 さらに、これ以上の円安は政治的に危険である。製造業における円安効果が剥落していると聞く。であれば日銀総裁が超人然としている意味がないと思うがどうであろう。生活資金が円安によって浸食されていると感じる人びとにとって、日銀は癪のたねになりやすいので、そろそろ異次元の金融緩和全般の後始末にとりかからなければならないとみんながそう思いだしているのであるが、打つ手がないという悲惨な状況にある。もし日銀幹部が「日本人はおひとよし」とか「がまんづよい」と思っているのであれば、それはとんでもない考え違いであると忠告しておきたい。声なき声を掬(すく)いとれば、そろそろ日銀政策委員も国民審査の対象にできないものか、といった程度の過激さはおり込みずみなのか。まあ暴論ではあるが、分かったうえでいいたくなるご時世なのである。

 さて、解散が早くて秋の臨時国会ということになれば、政局は日本維新の会を中心とした野党の選挙協力に焦点をうつすことになる。それへの対応をめぐる立憲民主党の党内葛藤にもスポットライトがあたるであろう。

 また暖房のスイッチをきった自公関係も修復にうごくとみるのが常識的であるのだが、中には荒天を期待する向きも少なくないようであるから、なにが起こるのかは不透明といえる。

 総選挙にむけての各党の展望については、5月25日の弊欄時事雑考「2023年5月の政局観-総選挙への助走と維新-」で詳述した。もちろん偏見と妄想の寄せ鍋風であるが、栄養価は高いと勝手に思っている。

 この国の政治は、意識高い系と関心高い系がうごかしているように思われているが、意識も関心も低い系の動向をむしすると間違うことになる。低いといってもゼロではない。またニュアンス的には、意識系が非利益的に、関心系が利益的に語られているが、それがどうしたという気がする。

 投票への影響をいえば国際情勢の比重がたかくなっていることから、日米関係重視だけでは不十分で、野党でいえば日中関係での新機軸を提案できなければ政権がまわってくることはないであろう。自民党にとって、鉄板支持層といわれた右派層が邪魔とはいわないが、同党の重荷になりつつあるのではないかという声が妙にリアルに残っている。例によって、文脈上敬称を略する場合がある。)

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時事雑考「2023年5月の政局観-総選挙への助走と維新-」

(台風2号が異常発達と聞く。ふと皐月台風と維新が重なる。ところで解散総選挙の予想が、浜辺に浮かぶ軽石のように目につきはじめた。時期は秋という。しかし、千人がそう予想してもこれだけは分からない。それを承知の上で、筆者も予想に走る。当たり外れと同時に、予想の筋つくりが頭のなかを整理するのにちょうどいいのである。だから、時期と同時に得票動向にも政治の真実をもとめて妄想を重ねている。

 G7広島は成功であったと思う。核兵器削減・廃絶を主目的とするならば失敗と批難されてもしかたがないが、先進国サミットの流れを前提にするかぎりここまでという判断は尊重されるべきであろう。限界があったとしても前進であったと思う。

 ゼレンスキーだけでなくプーチンの参加も、との声が聞こえてくるが、G7では無理筋であろう。対ロシア非難国、制裁国が中心のウクライナ支援国会議であるから、プーチン非難の流れは変えられない。また、直ちに停戦をと主張するのが平和主義者の作法であるかのごとき意見もあったが、その停戦ラインが事実上の国境線となることを承知の上での発言なのか、そうなれば侵略優位の発言であるから平和主義とは矛盾するではないか。ここに大きな悩みがあるといえる。立場や考え方に差があったとしても、ここは侵略者に痛打を与えなければならない。でないと侵略が繰りかえされるであろう。

 さて、国内では日本維新の会が台風の目になりつつある。支持率が大きく回復しているキシダ政権ではあるが、不思議なことに勢いは守勢である。維新vs立憲の争いに漁夫の利をねらっているのか。うろんな話である。

 好感度が低いからといって立憲たたきに奔走し、リベラル退治に熱中しすぎると思わぬ反撃を受けるかもしれない。政権批判票の受け皿であるはずの維新が野党第一党取りに熱をあげすぎると、くるはずの票がこなくなるかもしれない。多少なりとも選挙調整をやらなければ、キシダ政権のガードマンではないかと思われるぞね。これが今回の主題である、例によって敬称略の場合あり。)

さて、国会は残り4週をきり、終盤へ

 連休があけると後半国会である。今年は延長がなければ6月21日に閉会をむかえる。また、残り会期が4週を切るころになると、法案処理のラフスケッチをまえに、与野党の国対(国会対策委員会)は思惑と駆けひきの空間に閉じこもる。

 さて、政局の焦点である解散総選挙である。その話の前提には「G7広島」の成功が必須条件となっているが、今のところ成功というべきであろう。まずは順調といえる。

 さらに、G7後の内閣支持率の動向に注目があつまる。ちなみに、今月20、21日におこなわれた毎日新聞の全国世論調査によると、岸田内閣の支持率は45%で、4月15、16日実施の前回調査36%から9ポイント上昇したと伝えられている。なお不支持率は46%で10ポイント下げている。〈毎日新聞2023/5/21/15:54(5/22/11:09)〉他の調査においても支持率は上昇していると思われる。私見ではあるが、内閣支持率は照度計であって評価計ではない。感染症の収束が世の中を明るくしているだけのことで、G7も大過なくうまくいったことへの安心感の反映であろう。後述する物価上昇による生活圧迫や増税、負担増をキャンセルするほどの威力などは、もとからないというべきであろう。

 ということで、G7が首尾よくおさまったからといって、解散総選挙の青ランプが点灯しているかといえば、そうはならない。なぜなら支持率を紡ぐ民意には奇矯なところがあって、一筋縄ではとらえられないというよりか、G7は食べたい餅ではなかったということではないか。

 では食べたい餅とはどんな餅なのか。それが分かれば苦労はないわけで、おそらく総選挙の勝敗を決する「食べたい餅」をめぐり各党それぞれに悩むところであろう。とくに、立憲民主党は結党(2020年9月)以来の最大の危機を迎えているから、もしアベ流であるなら、立憲にとって最悪のこのタイミングでの解散総選挙こそが、立憲を押しつぶすチャンスであると考えるであろうが、維新の隆盛が報じられるなかで、立憲から維新への野党第一党の移動がキシダ政権にとってどんな利益となるのかについて冷静に考えれば、リスクの割にえるものが少ないことにたぶん気がついているのであろう。また、別のリスクとして自公の選挙調整が難渋していることもあり、解散総選挙へのふみだしがむしろ鈍くなっているように思われる。とくに、このタイミングで立憲をつぶす意味はない、つまり代表がないがしろにされ、求心力を欠いた弱い立憲にはむしろつづいてほしいのに、わざわざつぶしにいくことはないというのが、常識的な論理なのである。

 

 もちろん、ここは呼吸が整えばうってでるのが自民党流だと断言すべきであるが、G7後の情勢の好転に、自信を深めているのかもしれない。党内世論は秋以降に移りつつある。政局からいえば、国会会期を延長してでも解散総選挙にもちこむことが上策だと筆者は思う。が、政権の応援団ではないので、声をあげることもない。ところで立憲の泉代表は野党が一致しないかぎり不信任案を提出してはならない、どこを向いているか分からない銃の引き金を自分でひくことはない。さいごまで、党再生の道を探るべきであろう。

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時事雑考「世襲議員は議会の華なのか?」

(5月連休のにぎわいを聞きホッとしている。さて、統一地方選挙前半・後半と5つの衆参補欠選挙の結果は、日本維新の会の一人勝ちということか。あるいは立憲民主党と日本共産党の連れ負けなのか、いよいよ党勢が鮮明になってきた。

 自民党は4勝1敗で、勝利のようだが内容は微妙である。だから解散を急ぐ空気が急速にひろまっているが、今からでさえ遅れたタイミングになると思う。

 キシダ政権との対立軸を鮮明にし、勢いにのる維新の選挙準備がととのわないうちに解散総選挙をという目論見がうまくいくはずがない。アベ時代とはちがううえに、姑息で華がない。

 春の賃金交渉では満額回答の花が咲きみだれ久しぶりのあかるい光景となったが、本命が中小、非正規、未組織であることに変わりはない。また、満額であっても実質賃下げも起こりうるので油断できない。さらに、年金生活者は生活切りさげにうめいているから、市井にうといキシダ政権の弱点があらわになると、総選挙どころではなくなる。好事魔多しといいたい。

 だから、自民党が飽きられているのは正しいが、それだけではないだろう。まあ、野党の選挙協力しだいではあるが、アベスガ時代とはちがう時代文脈に入ったと考えれば、かかげる政策もすこしづつ変えなければと思う。

 一方、立憲と共産は嫌われている。とくに、反省に名をかりた党内抗争はさらに支持を失うであろう。それよりも立憲は2020年9月の合流に無理があったところが反省点ではないか。中道層が維新にながれはじめている現実を直視しないと先の展望がなくなると思うが、むつかしいところであろう。振子の左への回帰をひたすら待つのか、あるいは世間は維新に袖にされたと見ているのだが。どうする立憲、である。

 野党は、維新基軸が確定ということであろう。松井代表が鮮やかに引退したのが良かった。試合巧者である。おそらく維新あての人材ファイルがキャビネットからあふれるほどになるだろう。しかし、さばききれるのか。いつになるのか分からない総選挙のその日まで、緊張の連続である。今回は漢字ひらがな比率を漢字方向にすこし移しました。)

◇ 世襲議員を「議会の華」といえば反発も大きいだろう。リトマス試験紙ではないが、この「議会の華」という表現に違和感をおぼえず、「そうかもしれない」と受けとめる人は世襲議員に寛容であるから、容認派といえる。おそらく、「議員として仕事をしてくれればいいではないか」とか「本人次第」と答えるであろう。たしかに、選挙で選ばれたことは事実であるから議員資格を問われることはない。

 他方で、「どこが華なのか」という声も多くあがると思われる。政界では話題になることが華である証だと冗談半分でいう向きもあるが、話題によるというべきで、たとえば将来の総理候補にランキングされることなどはさしたる根拠がないとしても、華である証明といえると思う。

 公正な選挙によって選ばれた国会議員が、国民の代表として国政に参画する。参画にあたっては皆平等であると、理屈ではそうなっている。しかし、七光りほどではないにしても、なにかしら「えこひいき」があるように感じるのがふつうの人の感覚だし、反発の原因もそこにあるのだろう。

 また、よく二世議員ともいわれるが、三世もいれば隔世もいる。国会議員でなくとも地方議員や首長の二世、三世もすくなくない。まあ、家系図に記載されているのであれば、そのように呼ばれるのであろうが、しかし個人の事情もあって、そう呼ばれることが嫌だという現役議員もすくなくないことも事実である。

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「労働運動と雇用問題(2)コペルニクス的転回が必要」

(2023年4月6日掲載分の続きである。コペルニクス的転回がひつようであると表題にくわえたが、本文での説明を欠いたままであった。天動説から地動説への転換のごとく、従来からの「労働市場の流動化は労働者にとって不利」といった天動説のような考え方から、これからは「労働者にとって有利である」とする地動説に転換してはどうかという提起である。もちろんいくつかの条件つきで、また人手不足が続くことが前提ではある。たぶん激論になるだろう。

 ところで、国会が後半戦に入ったが、まさか補選や地方選に気をとられて低調ということではないだろう。せめて、安全保障についての基本論議ぐらいは今国会で詰めておかないと、秋までに予想される総選挙がスカスカして盛りあがらないのではないかと心配している。以前から指摘しているように、キシダ政権には暴走嗜好(思考でも指向でもない)があって、無自覚にやっちまう可能性がある。だから、左派グループが体当たりでやらないと止められない、なにしろブレーキ系が弱いから、どこまでもいってしまう、と思う。

 その後は、なにがどうなっているのか分からないまま、おそらく政界再編になるのではないか。左派を支持する筆者ではないが、米中対立や防衛予算あるいは敵基地攻撃について、もっともっと議論をこなしておかないと、またこのままでは分断がひどくなるのではないかと心配である。賛成できなくとも、なぜそう考えるかについての議論をつくせば、糸が切れることはない。議論をごまかすから糸が切れるのである。

 ところで、用語法つまり言葉づかいだけの問題なのかしら。「捏造」の次が「サル・蛮族」で、どちらも無理して使うこともなかったのにと思っていたが、日本維新の会が立憲民主党にたいし国対共闘の凍結を匂わせているとの報道が見うけられるが、にわかには信じがたい。両党共闘に亀裂を生むほどの問題なのか、と思う。補選もあるし、なんとなく背後に複雑な思惑がありそうで、怪しくもある。それにしても、筆頭幹事解任は重いことである。

 さて、主要メディアの報道ぶりには隔世の感があり、思えば政権追及の激しさがずいぶんと鈍り、そのぶん野党が攻撃されている。

 そんななか、馳石川県知事が選挙公約であった定例記者会見を拒否していると、4月8日朝日新聞朝刊が社説を付して伝えている。その内容は(文中の同局とは石川テレビを指す)、「事の発端は、同局が昨年公開したドキュメンタリー映画『裸のムラ』だった。馳氏は、県職員らの映像が無断で使われており、肖像権の取り扱いに問題がある、と主張している。これに対し、石川テレビは『映画は報道の一環で、公共性、公益性にかんがみて、特段の許諾は必要ない』との立場で、1月から対立が続いていた。」(朝日新聞社説「石川県知事 会見拒否は許されない」2023年4月8日13版)というものである。双方の主張はさておき、石川テレビ社長が、知事が求めていた会見への出席を、欠席することを理由に、知事が定例会見を拒否するのはいただけないのであるが、ここで取りあげたのは弊欄での論点としている「報道機関がうけた影響」とのかかわりではなく、これこそが権力側の報道への圧力ともいえる具体例ではないかという理由からであり、自民党の「(報道の自由についての)規範がごう慢に傾いている」兆候ではないかということである。構文が複雑でもうしわけないが、警戒警報のつもりである。

 結局のところ、高市vs小西の発端となった放送法の「政治的公平性」にかかわる問題については、事実として報道機関に影響がおよんだのか、というもっとも重要な点については、いっこうに解明がすすんでいない。すすまないのはだれのせいなのかは後日のテーマとするが、この場では「やはり、およんだようだ」というのが筆者の心証である。「だからどうした」という声も聞こえてくるが、心証であるからどうもしないけれど、大げさにいえば、わが国のジャーナリズムが消えそうで心配だ、ということで、ともかく反権力の半鐘がじゃんじゃんと鳴るほどでなければ、この先が危うい。やかましいのも困るが、音無しいのはもっと困るのである。

例によって、文中の敬称は略すこともあり、です。)

13. 雇用各論Ⅰ 「給料で負けているから、商売で負けるのだ」

 良い悪いの仕分けをしているわけではない。歴史の結果としての現実をどう受けとめるかの議論であって、今では遠い過去のこととなったが、「世界有数の高賃金国」の賃上げのあり方について、もっといえばこれ以上高い賃金を支払うためには、雇用構造を海綿体にして雇用調整を頻繁にやるか、為替で調整するか、生産拠点を海外に移し総原価を下げるか、企業の公租公課を下げ、その代わりに国民負担率を上げるといった方法しかないということで、結局ほとんどの項目を実践した結果、30年かかったが「G7の低賃金国」を実現したといえる。 

 皮肉ながらも、高賃金国を解消するという目標を達成したことは見事であったといいたいが、非常に残念なことであった。また、今となればなんのために低賃金国にしたのかという疑問が残されたまま、目標だけが達成できたことをどう評価すればいいのか、と悩んでいる。

 とくに、リジットな雇用構造にたいし、まず不安定雇用層をつくり、そこで雇用と賃金とのトレードオフ関係を強めれば、やすやすと不安定な低賃金層を形成することができたということであろう。そのための扉をひらいたのが有期雇用であり、労働者派遣法の一般化であったといえる。さらに、雇用労働者のうち約4割が非正規労働ということになれば、国全体としての労働コストは大幅に削減できたということである。そうなれば雇用者所得が下方に引っぱられることから、労働の再生産あるいは個人消費が低迷するうえに、限られたパイのもとでの値下げ競争がデフレをさらに固定化していったと考えられる。つまり、みんなで作りあげたデフレ経済ということである、すくなくとも筆者にはそのように思えるのである。

 さらに、その旗振り役が改革派の政党であったり政治家であったり、あるいは著名企業の経営者であったりして、そのうえ口では「デフレからの脱却」とかいっているのだから、なにがなんだかよく分からないというのが正直なところであった。

 だから、「それなら、コスト削減をやめたらいいではないか」といいたかったのであるが、しかし世の中の向きは真逆で、デフレ対策のためにさらなるコスト削減に血道をあげたものだから、「みんなでつくろうデフレ経済」がますますひどくなり、筆者自身も見当識をうしなった気分に陥ってしまったのである。

 ただ給料をあげればすむことを、労働生産性向上の範囲でとか、付加価値生産の向上を伴うべきであるとか、なにやら呪文のように難しい話が飛びだしたのであった。

 そのくせ、個人消費拡大あるいは需要喚起策について真剣に悩んでいるというから、支離滅裂というか、むしろたいそうな喜劇ではないかと思ったものである。

 喜劇といえば、国をあげて力を入れているIT産業の育成でも、日米におけるIT技術者の給与水準を比較すれば、米国では地域差がかなりあるが、概ね10万から13万ドルで、専門職としてしっかり優遇されているといえよう。一方のわが国では専門職とみなされているのかさえ定かではない。なかなか統計数字が手に入りにくいのであるが、よくて5万ドル台であろう。為替レートで景色が変わるが、昨今の円安においては、米国のほぼ半分といったところであろうか。(冗談じゃない!)

 これでは競争に負けてあたりまえである。人件費が半分なら競争に有利だと宣(のたま)うようでは、ITの世界では永遠の敗者となるであろう。ずっと技術者虐待と揶揄されているような低劣な処遇で、世界を席捲する技術開発を期待する方がおかしい。そういった経営者の性根がわからないのであるが、冷静に考えればわが国には「管理」はあるが「経営」はないと思われる。一見賢そうで実は間抜けている経営者がわが国を貧しくしているのかもしれない。それに気がつかない政治家は20年以上にわたって小難しい作文を役人と一緒になってひねくり回しているが、うまくいかないのであろう。この際、政治家がいうべきことは、「給料で負けているから、商売で負けるのだ。まず給料で負けるな!」と叱咤することではないかしら。

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「労働運動と雇用問題(1)労働運動における位置づけ」

(ほぼ3年間塩漬けにしていた「2020年からの課題と予想-雇用と労働運動」をタイトルを変えて掲載することができた。2020年2月にほぼ書きおえていたが、気がのらなかったので、そのままにしていた。やっと吹っ切れた。筆者の思いの断捨離である。

 ところで、春の賃金交渉は順調といっていいのであろう。満額回答が踊っているが、正念場は5月6月に発表される中小企業の回答であり、夏の最低賃金交渉であろう。よく考えれば、「労働動員策」ではないか。木陰でお茶をすればいいだけなのに、「なに、もうひと働き」と街場に出かけていく、賃労働に。この賃労働がGDPに計上され、課税もされる。欲もないのに稼ぎに向かう、国民負担率が50%だから5公5民か?、、、。みんなでプライマリーバランスを改善しなければとか、あるわけないよね。

 ピン止めされたメモに、世襲議員と二院制と書いてあるが、夏までには仕上げたいと思っている。が、実家の夏は草莽々だからどうなることやら。

 なお、2万字をはるかに超えたので、分割した。)

1.労働運動にとっての雇用問題の位置づけ

 労働運動にとって雇用はきわめて重要なテーマである。とくに、経営合理化にともなう人員削減は組合員の生活を直撃するもので労働組合にとっても、また提案側の会社にとっても深刻な課題であった。

 1945年(昭和20年)以降の混乱期には、人員整理という言葉が多くの職場を震撼させまた殺気立たせた。当時は、「首切り・馘首」と生々しい言葉をもちいるケースが多く、戦後の騒然とした空気のなかで労使ともに壮絶な闘いをくりひろげたと、関係資料などに生々しく記載されている。

 1945年末に合法化され、またたくまに全国に広がっていった労働組合にとって、組合員の雇用維持が最重要課題と位置づけられたのはとうぜんの流れといえるが、同時に困難な代物(しろもの)であることに気がつくのに時間はかからなかった。つまりストライキなどの争議行為をもってしても、雇用を完全に守ることはできない、ということが経験を重ねるなかで認識されていったと思われる。

 また社会主義、共産主義を標榜するグループの指導をうけても、思うような解決策がえられない、否むしろ闘うだけ闘わされ、後は野となれ山となれが関の山であるということが明らかになり、またそのような政治に傾いたはげしい方針で闘ってみても、会社提案を撤回させることはできなかった、という経験もあって、結局これといった特効薬のないきわめて困難な課題として認識されていったと思われる。こういった認識の共有化が、その後のわが国の労働運動の道筋に強い影響を与えたことは、筆者のような労働運動の現場から中央共闘組織、全国中央組織、単位組織と垂直的に役割を経験していった者には、暗黙知となっていると思う。さらに、引退後においても重要テーマとして意識のなかに強く「ピン止め」されているのである。

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時事雑考「2023年の展望-3月の政治と三角関係」

(春はあけぼの、朝から花粉と黄砂に悩まされる。梅か桜かと優雅に暮らしたいと思っていたが、咳と鼻水としょぼ目がつらい。ところで明日は回答日、かんけいないが期待感がたかまる。さて、今回は高市大臣vs小西議員、防衛費増などをテーマした。もちろん、かな多めではあるが、すこしもどした。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というか、べつの場面で原稿を渡したら後日「漢字に変えておきました」と断り書きがかえってきて、すこしめげた。ので、すこしもどした。「すこし」も「少し」のほうがいいのかしらと、細かいことが気になる。杉下右京じゃないのに。今回も例によって敬称を略す場合がある。)

1予算案の年度内成立が確実に-参予算委員会は、高市大臣vs小西議員の模様

 予算案の年度内成立が確実となった。内閣では、想定内とはいえほっとした空気に包まれていると思う。後は緩まないようにということであろう。 

 ところで、この国会は防衛費にとどまらず反撃能力など攻めどころがおおいことから、はげしい論戦を予想していたが、意外なことに派手はでしい議論は参議院においてもすくないようにみえる。

 もちろん、委員会をやたら中断するのが野党の仕事といった時代は過去のもので、今は冷静に理路整然とやるのがトレンドなので、議論をつくすという議会の役割からいえば好ましいながれだと思う。と思っていた矢先に高市大臣と小西議員(参)の総務省文書をめぐる「たたかい」が勃発した。

 争点は、2015年5月の参議院総務委員会での「放送法第4条」でいう政治的公平性について、「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」としていた解釈を、当時の高市早苗総務大臣が「一つの番組でも極端な場合は、一般論として政治的公平を確保しているとは認められない」と、解釈を変更した感じの答弁をおこなったが、そこにいたる経過についての78ページにわたる文書(さまざまな記録文書の集合)を提示しながら、小西議員が官邸からの圧力の証拠ではないかと高市大臣に質問したところ「(後に高市氏にかかわる4ページ分についてはと限定し)ねつ造である」と答えた。しかし文書の性格については、後日松本総務大臣が、部分的に不正確なものがあるようだとの条件つきで総務省の行政文書であると明言した。

 世間では、当事者(大臣)がねつ造であると主張する部分をふくむ行政文書などと揶揄する声もでるなど、にわかに騒がしくなっているが、もとはといえば、中身はともかく行政文書を当時の所管大臣がいきなり「ねつ造」と処断したり、辞任するしないの啖呵のやりとりなどがあって、出発点からいえばずいぶんと脱線した感じがする。

 というのは、2015年5月の高市大臣の答弁が解釈の変更にあたるのか、また8年も前のことではあるが放送事業者にどの程度の影響を与えてきたのか、つまり「びびった」のか「蛙の面になんとか」だったのか、その点が重要であるのに、そこになかなか行き着かないところが、筆者的には気になるところであった。

 さらに翌年(2016年)にはいわゆる「停波」発言があったことにも関連してくるのだろうか。思えばアベ政権のメディア抑圧の典型例なので、それなりの意味のある争点だとは思うものの、防衛方針の直角変更などにくらべれば内容としての喫緊性は低いと思う。さらに、松本大臣が「解釈変更ではない」と明言したようであるが、78ページの文書のなかにも触れられているが、もともと「極端な場合」は一つの番組でも公平性を欠くと判断しうるわけで、そうしておかないと、「めちゃくちゃな番組」をながしても「一つの番組(だけ)だからいいじゃない」という理屈がでてくることへの防波堤がひつようであり、そのために「一つの番組だけで」と「一つの番組でも」という使い分けが生じていると思われる。 

 筆者は、2015年5月の高市大臣答弁は、すでにある解釈にたいし最後の戸締まりとして補足強調しただけではないかと受けとめている。うがった見方をいえば、官邸のうるさい人対策として結構うまいやり方であったと思う。

 というのも、もし解釈を「変更した」というのであれば、趣旨からして法律そのものの変更に匹敵するものだから、にわか雨のような与党委員の質問への答弁でコソッとすまされるものではないだろう。ことの重大性からいって、委員会は直ちに閉じて、改めて理事会では内容ではなく「扱い」を協議すべきであろう。まあ大臣陳謝ですめばいいが、おそらく辞任は必至で大騒動になったと思う。(一つの番組に照準あわせるという基準変更が趣旨であるならば、8年間も放置していた野党の責任もきびしく問われるべきである。)で、そうはならなかったということは、そのときの委員会は変更とはとらえてなかったということであろう。だから変更ではないと総務省はいうのであろう。

 しかし問題は、「解釈変更などしていません」といいつつ、無言の圧力を放送事業者にかけるところにあったと思われる。もっとも圧力をうけたと発信する放送事業者は皆無であろうから、なにもなかったことになり、政府が追求されることもなく、またひょっとして放送事業者が自己規制し、報道番組における内閣批判のトーンが弱くなるというおまけがつくかもしれない、そうなれば仕掛けた側としては大成功といった話であろう。いわゆるダメもと論である。

 だから、対策された官邸のうるさい人も、おそらくまんざらではなかったはずで、まとめてみれば為政側としてうまいやり方ではあったといえる。先ほど、「アベ政権のメディア抑圧の典型例なので」と記したが、典型というのは被害の表明がなければ追及されないという巧妙ではあるが、いやらしい手口を多用しているということである。

 ということを踏まえたうえで、今回予算委員会で提起されたということであれば、なにか隠し玉があるのではないかと誰しも思うであろう。とくに、成りゆきを見守っている永田町界隈では、資料の出方が何かしら恣意的あるいは操作的すぎることから、暗がりの先には闇があると受けとめているようであるが、そこまでいってしまうと、○○の勘ぐりになるのであろうか。

 ともかく、このケースでは放送事業者が「何か」をいわないかぎり放送の公平性をめぐる議論にはならないということで、結局傷ついたのは「だーれだ」となる。もちろん、「ねつ造」と反射的に反応したのが最大のミスであったことに間違いない。「ねつ造」と発すれば「だれが」と返ってくるもので、かならず犯人捜しがはじまるのだから、ご自身が大臣であったことを完全に滅却しておられたのであろう。だから自損事故というかオウンゴールというか、自業自得ではあるが、気の毒な感じがしないでもない。もちろん最初から「確認のしようがない」と答えておけばすんだ話だと思う。事実、78ページの文書のすくなくない部分は、今では確認のしようがないものであるのだから。

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時事雑考「2023年の展望-キシダ政権の死角に超過死亡-」

(3年間新型コロナウイルスにつきあってきたが、そろそろウイズコロナに入っていけるのかしらと、なにやら解決感がしないでもないが、元どおりにはならない。それぞれに失ったものはおおい。しかし、得たものはすくない。歴史はともかく経験にすら学べないのか、人類は。経験どころか、昨日の昼飯さえおもいだせない今日このごろである。)

「新型コロナウイルス感染症」から「コロナ感染症2019」へ、常態化のはじまり

 5月から名前がかわりそうだ。「新型」がはずされ、発生年をつけた名前になる。「コロナ感染症2019」略して「コロナ2019」である。そうなれば、いよいよ一息つける雰囲気になるであろう。もっともWHOがCOVID-19(Coronavirus Disease 2019)と表記していたので、それに近づいただけともいえる。

 さて、2019年12月からすでに3年3月が経過したが、1918年から1919年に猛威をふるった「スペインインフルエンザ」(WHOは地名などの表記をはずすことを推奨していて、1918pandemicとよぶらしいがピンとこない。しかし「スペイン風邪」はさすがに遠慮するとして、とりあえず無難なスペインインフルエンザとした)が、およそ3波3年だったことから、今回もそろそろ収束あるいは終息がみえてきたのではないかと楽観したいのだが、今はどこまで変異するのかが心配の種である。

 ところで、このコロナウイルスの起源についての解明はどうなっているのだろうか、情報途絶のようで気味がわるい。しっかり調べてほしいのだが、国際世論の熱も冷めたようで、どうにもおちつかない。とにかく初発と思われている国にたいして、近未来におとずれる収束宣言のタイミングで「では真相はどうであったのか」と蒸しかえしがはじまるのは確実だから、いまから準備すべきであろう。つぎはどういった「高度な」言い訳がとびだすのか、まあ楽しみではある。

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時事雑考「2023年の展望-賃金交渉のゆくえと岸田政権の評価-」

(思いのほか手間どったうえに、ながくなりすぎたので後半は付録とした。例によってひらがなをふやしているが、付録は変換ソフトのままである。こんかいは施政方針演説をいじってみた。遅れたのですこし鮮度がおちているが、抜歯、検診のせいにしている。文中の「キシダ政権」とあるのは批判の対象にしているときの表記である。また、「思う」は「(他の人はどうであれ)自分はそう思っている」、「思われる」は、「そう思っている人がけっこういるから」といったニュアンスであろうか。「いえる」は「反論はすくないだろ」また「考える」は「理屈があるよ」という感じである。

 また、2002年に経団連と日経連が統合して現在の経団連となったが、経済同友会、日本商工会議所などもあり、文意において労働問題を中心にしているときは、経営団体あるいは経営者団体とするのが滑らかである。ということで「経営団体」にまとめた。頭のなかは旧日経連のイメージのままである。

 付録はおもに賃上げが中心になっている。いつかストライキについて提起したいのであるが、ストライキという「過去のはなし」がなぜか未来で待ちかまえている。それにしても物価高騰がひどい。そこで、心配はんぶん期待はんぶんの隠居が「もっと怒らなあかん」とこころのなかでさけんでいる、今日このごろである。文中敬称略あり。)

施政方針演説をすこしいじってみた

 23日の岸田首相の施政方針演説(全文)に目をとおした。ひさしぶりのことである。

演説は12項目で構成されている。その「1はじめに」には、「 政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです。 私は、多くの皆様のご協力の下、様々な議論を通じて、慎重の上にも慎重を期して検討し、それに基づいて決断した政府の方針や、決断を形にした予算案・法律案について、この国会の場において、国民の前で正々堂々議論をし、実行に移してまいります。「検討」も「決断」も、そして「議論」も、すべて重要であり必要です。それらに等しく全力で取り組むことで、信頼と共感の政治を本年も進めてまいります。」とあった。しごくもっともなことである。あたりまえのことをあらためて述べているのは、先だってのG7歴訪(独を除く)での各首脳との会談、とりわけバイデン大統領とのやりとりが、国内での議論をすっとばしているのではないかとの批判に「あとづけ」でこたえたものであろう。

 「国会で正々堂々と議論すればいいのだ」ということではあるが、正々堂々というのは、質問には誠実にこたえる前提ではじめて成立するもののであるから、答弁次第ということになる。

 昨年の答弁では「検討する」を頻発させ、泉代表(立憲民主党)から、まるで「けんとうし」と揶揄(やゆ)されたことが頭にのこっているのか、「検討」も「決断」も「議論」もおなじていどに重要だとまきかえしている。それはまちがいないが、問題は、検討、決断、議論の過程(プロセス)が重要なのであって、さらにそれらのプロセスがどの程度そとにひらかれているのか、であろう。過日、弊欄で岸田総理はエリート主義者ではないかとのべたが、プロセス軽視の傾向からそうのべたのである。課題志向と成果主義がつよいところをみると、あんがいあたっていると、内心ほくそえんでいる。べつに悪口でいっているのではない。総理がエリート主義の場合、よく気のつく脇役いわゆる黒子がプロセスを管理しなければ、総理が裸の王様になりやすいかな、というだけのことである。 

 日銀総裁でいえば、市場との対話であろう。対話などいらないといえばいらないが、たとえば醗酵を早めたり遅らせたりと、プロセス(醸造過程)に介入しないといい酒はできないのとおなじことで、政治においてもそういった対話がひつようであろう。

 「12おわりに」でのべている「多くの皆さんと直接話をしてきました。」ということも大切であるが、総理に求められている対話とは個別になされるものではなく、集団の意思形成の中核をになうものではなかろうか。「検討」とも「決断」とも「議論」ともちがう場面での、幻術や詐術ではない合意形成のことで、アートにちかいともいえる。今までに、対立構造をつかった人、過醗酵でドロドロにした人、麹をいれわすれた人などそれぞれの個性もあってさまざまであった。

 岸田総理の場合は、とくに大衆との意思疎通にたらざるところがあると感じている。

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時事雑考「2023年の展望-正直わからない年になりそうだ-」

(新年は恥ずかしいぐらい輝いている。しかし、世の中いろいろと祈ることばかりである。とくに、最低24本掲載をめざしたい。文中は例によって敬称を略す場合があるので悪しからず。)

正月早々、岸田総理5月広島サミット準備に大忙し

◇ 岸田総理は5月予定の広島サミットを念頭におきながら、1月9日の仏をかわきりにG7構成国を順次(伊、英、加)訪問し、13日バイデン米大統領との会談を最後に14日帰国の途についた。とくにバイデン大統領とは、11日の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の内容をふまえ、日米協力のあらたなステージについて確認しあったと思われる。国内では低調な支持率になやまされているようにみえるが、一連の外交は及第点をこえていると思う。

 ところで、国内での議論をすっとばした点については、23日からの国会においてきびしいやりとりが予想されるので、それらには誠実に対応すべきである。しかし、手順が気にいらないからといって、いまさら各国首脳との話をなかったことにできるわけがない。また、首脳会談の内容について事前に国会での議論がひつようであるのかについては、そもそも行政権と立法権とは分立しているのだから、両者の議論のありかたや組みたてが違っていてもおかしくはない。また、議会が事前に政府の手足をしばって不自由な外交を強いることは百害あって一利なしというべきであろう。

 筆者は前回のコラムでは暴走宰相と表現した。ときに暴走もひつようではないか、つまり暴走でもないかぎり状況をきりひらくことができない、という意味をすこしふくませていたが、もちろんほめ言葉ではない。むしろ爆走といった方がいいかもしれない。ということで、岸田総理の爆走が東アジアの安全保障のあり方に一石どころか大石を投じたとうけとめている。しかし、それを成果というのはまだ早い。次は中国の出方である。台湾海峡の平穏すなわち現状が維持されるなら紛争はおこらず、相互繁栄の道がひらかれるというのが、今回の主旋律である。

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